離せない温度  6






卯月の顔が、時折歪むのには気付いていた。
仕方ないから。
いつでも、諦められるような、その笑顔に。
シチロウはどうしようもない衝動が湧き上がる。
どうして、そんな顔をする?
その幼い顔で、どうして諦めを知る?
もっと欲しいと強請ればいい。
どこにも行くなと言えばいい。
人の熱を欲する、その欲は、誰にでもあるもので我慢しなければならないものなんかじゃない。
我慢なんかするな。
欲しがる前から、諦めるな。
いったいどうしたら、そんなに簡単に手を離せるようになるんだ?
その、幼さで。
諦めを知る?
絶望を知る?
理由は、解っている。
シチロウがはっきりしてやればいいのだ。
まだ、自分の部屋に残るミチルの影を、全て剥ぎ取ってしまえばいいのだ。
いい大人のくせをして、甘えている。
甘えているのは、シチロウだ。
幼い少年に。
離れて手放すことを、もう仕方ないから、と諦める少年に。
はっきりすればいいのだ。
あの、美しく脆いミチルに、もう側に居てやれないと、伝えればそれで良い。
選んだのは、紛れもなく自分なのだから。
ミチルは、どうなるのか考えるまでもない。
泣くだろう。
それも、シチロウの前ではなく。
独りになった、あの誰もいない家で。
ただ、崩れるほどに、泣くだろう。
それを知りながらも、シチロウはこの手を離せないのだ。
二度と、これを離せないのだ。
それでも、どうかミチルを誰かが救ってくれることを願うのは、傲慢だろうか?
自己満足だろうか?
いきなり、目の前に現れた青年にそれを望むのは、俺の思い上がりか?
「男娼も知らなかったミチルさんを捨てて、選んだのがこれですか」
これ?
いきなり言われた言葉に、シチロウは頭に一瞬で血が上った。
どういうことだ?
この突然現れた青年は、ミチルと良く行ったカフェの店員だ。
何度も行くおかげで、お互いに顔を覚えた。
けれど、今の言葉は、どういう意味だ?
この木村は、卯月を知っているのか?
男娼だったと?
そして、ミチルを捨てて?
俺が?
一瞬で疑問が頭を駆巡り、すぐに答えられなかったシチロウに、木村はなんでもないように続ける。
「揺れて動くミチルさんも良いんですけど、貴方がいつまでも繋いでいると、ミチルさんは堕ちてくれないんですよ」
堕ちない?
ミチルが?
この、木村に?
「柘植さん、ミチルさんはもう捨てるんでしょう?」
この木村という男は、あのカフェで見てきたかぎりどこか掴めない笑顔を振りまいていた。
優しいだけの人間ではないと、すぐに気付く。
その笑顔の下になにがあるのか、シチロウは考えもしなかった。
サービス業の人間だからだ。
その笑顔が、仕事なのだろう、と気にもしなかった。
けれど、今目の前に立つ青年に、同じ笑顔は見られない。
これが、本性だ。
そうシチロウは知る。
この、誰もを見下す嘲笑が、木村の素なのだ。
その木村が、ミチルを?
この裏のある青年が、あの壊れやすいプライドに必死にしがみ付いているミチルを、どうする?
ミチルは、どうなる?
自己満足だと言われようとも、勝手に願ったミチルの幸せは、喜びは、どうなる?
シチロウは思考を巡らせて、隣に立つ震えに気付いた。
自分の胸までしかない背の、小さな少年が震えている。
顔が強張り、すぐにでもシチロウから離れそうな勢いで、諦めと絶望を顔に浮かべて。
ただ、立ち尽くしている。
シチロウは頭を切り替えた。
今、自分が欲しいものは。
今、この手に護らなければならないものは。
あの、綺麗な顔が泣き崩れても、壊れ砕けても。
欲しいものは、それじゃない。
離せないものは、それじゃない。
「ミチルには、ちゃんと言うよ」
シチロウは細い肩に腕を回して、引き寄せた。
この熱が、伝わればいい。
一生離れないのだと、知ればいい。
そんな絶望を、卯月にはさせないのだと、解ればいい。
「俺が今、一緒にいたいのは卯月だ」
「なら、早くミチルさんを振ってしまってください」
木村に、その嘲笑を浮かべた顔に、少し焦りが見えたのはシチロウの気のせいだったのだろうか?
「貴方が、ミチルさんを手放すのなら、誰を選んだって俺は構わないんですよ、たとえそれが男娼だったとしても」
「木村!」
思わず、声が出てしまう。
どうして、木村は卯月を傷つける?
この、誰かの支えなどいらないと言ってしまってすぐに離れようとする少年を。
独りでどこかに行ってしまって帰ってこなくなりそうな少年を。
どうして傷つける?
「どうだっていいんですよ、卯月なんて。貴方がそれをどう扱おうとも、俺には関係ないんですから」
「関係ないな、君には。ミチルのことだって、関係ないはずだ」
卯月を見下す木村に、シチロウはどこか不自然さを感じた。
どうして、こんなにこの青年は苦しそうなのだろう?
苦しそうだ。
そう、思ってから気付いた。
木村は、嘲笑の下で顔を歪めているのだ。
男娼だと卯月を卑下しながら、顔を歪めている。
卯月を、木村が?
シチロウは卯月を隠すように、腕に抱きしめた。
これは、渡さない。
他のどの男にだって、渡せはしない。
安心するのは、シチロウの腕の中だけでいい。
握り返すのは、シチロウの腕だけでいい。
執拗に、木村は卯月を見下している。
木村が執着しているのは、誰だ?
ミチルか?
卯月か?
それでも、シチロウは卯月を護ることしか出来ない。
それで、ミチルが傷つこうとも、シチロウの腕はもう卯月を取ってしまった。
「君が卯月を傷つけるなら、俺が護る。俺は卯月を傷つけるものを、許さない」
それを変えるつもりはない。
もう、遅い。
ミチルを考えても、シチロウはこの卯月を離せない。
抱きしめた少年が、シチロウをしっかりと握り返してきた。
卯月。
湧き上がるこの気持ちは、安堵だ。
卯月は、シチロウを離さないでいてくれる。
卯月も、シチロウの側に居てくれる。
そう、願っている?
安心してしまったシチロウの目の前で、木村の表情がはっきりと変わった。
「じゃあどうしてあの人を泣かせるんだ」
あの人?
泣かせるのは俺?
木村がそう顔を歪めて苦しんでいるのは、俺が泣かせているから?
ミチルを?


to be continued...

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