離せない温度  10






考えれば、どのくらい会っていないのだろう?
以前はどうにかして、暇を見つけて会うようにしていたというのに。
あの日、偶然にも駅で会ったきりだ。
あのときの動揺が、解ったのだろうか。
不自然にも、ミチルからの連絡が途絶えているのは。
ミチルを驚かせようとして、会社まで行こうとしたあの日。
卯月に逢ってしまったのだ。
あのときは確かに、ここまで卯月にのめり込むとは思っていなかった。
けれどこの少年をただ保護しようと考えていたのは、ほんの僅かな時間だった。
自分でも知らなかった欲望に塗れるのは、あっという間だったのだ。
待ち合わせたのは、駅だ。
あの日、ミチルではなく卯月を追いかけた、あの駅だった。
仕事帰りのミチルを、そこで待った。
今までに、何度ここで待ち合わせただろう?
何度、同じ風景をここから見ただろう?
隣に居ることが、誰よりも安心して落ち着いていられた。
卯月と一緒に居て、同じ気持ちになることがない。
常に渇きを覚える。
いくら抱いても、足りないと思う。
それを激情と呼ぶなら、ミチルのそれはなんだったのだろう。
恋ではなかったのか?
愛してはいなかったのか?
卯月へのこの気持ちを、愛情だと言うのか?
それでもミチルを愛していたのだ。
そう思って、五年だ。
五年、出会ってから考えれば九年。
幼い気持ちだったと呼ぶには、あまりに長すぎる。
出会ってから先に身体を繋ぎ、お互いを知った。
冷たいほどのプライドの高さで、内側の儚さを必死で隠していた。
それをどうにか溶かして、包んでやりたいと思ったのは間違いではない。
当たり前のように。
他の誰かでもなく。
ミチルが望むなら、シチロウはなんでもしてやることが出来た。
愛情を願えば、暖かな温もりを全てで与えた。
それで、ミチルは幸せだった?
冷たい表情が、暖かな笑顔に変わる。
偽りでは、なかった。
仮面でもなかった。
確かに同じ時間を、同じだけ愛していた。
それを壊すのは自分だ。
泣かせたくないといつも願っていた自分だ。
その涙を見るのが、苦手だった。
出来れば、泣いて欲しくなどないと思っていた。
けれど、手を離すのだ。
壊してしまうのは、シチロウ自身なのだ。
泣かせてしまうのは、自分だった。
ゆっくりと姿を見せたミチルは、変わることなく美しいままでいた。
「ミチル」
ミチルは、自分の名前を好きではなかった。
けれど、ミチルはミチルでしかない。
その名の通り、散ってしまうことすら美しい、ミチルだ。
「柘植」
その声は、変わらない。
いつもの声と、同じ温度の声だった。
瞬くことすら、その美しさを増す。
やはり、綺麗だ。
ミチルより綺麗な人間は、シチロウは知らない。
お互いを見つめて、そこに立ち尽くした。
どこかへ移動しようという声すら、出ない。
これで、最後だ。
同じ時間を共有するのは、これで、最後だ。 
名残惜しいのは、やはり九年という時間のせいだろうか。
恋人を失くすのではない。
自分の何かを、捨てるようだった。
しかし、惜しむようにどこかへ移動することはない。
告げることは、ひとつだけだ。
ミチルの顔が、それを知っている。
なんの表情もなく見える顔が、あと何かのきっかけだけで、崩れそうになるのをシチロウは知っている。
ただ、見つめ返すだけのミチルに、想いだけを伝えた。
「・・・・別れよう」
雑踏の中で、周囲にシチロウとミチルの会話に気付くものはない。
変わらない世界にとってみれば、なんのこともない会話なのだ。
どこかで誰かが愛を交わしても、どこかで誰かが別れを告げる。
シチロウとミチルがそうでなくなったとしても、明日の世界は変わらない。
それでも、シチロウには何かの終わりを告げた。
何かが失くなるのが、解った。
ミチルはただ、もう一度瞬いて、
「・・・・解った」
一言、返しただけだ。
それだけ、だった。
ミチルが泣く。
ミチルが壊れる。
それだけは、決してしたくなかったことなのに。
細い身体を、精一杯背を伸ばし、誰よりもプライドだけは高く。
媚びることもなく。
強請ることもなく。
崩れることもなく。
負けることを見せず。
挫けることを見せず。
美しいままに、生きるミチル。
今も、目の前で涙を見せることはない。
シチロウをただ見つめ返し、小さく吐息を吐いただけだ。
ミチルは泣くだろう。
崩れるままに。
壊れるままに。
何もかもを投げ捨てるように、泣き出すだろう。
しかし、それをシチロウがもう見ることはない。
もう二度と、シチロウの前でミチルが泣くことはない。
「・・・じゃあ」
ミチルが少し顔を俯かせて、シチロウの隣を通り過ぎるのを引き止めることもない。
ミチルを泣かせる、この気持ちはなんだ?
罪悪感?
俺はどれだけ、強欲なんだ?
シチロウは背中に過ぎ去るミチルを感じながら、ただしばらくそこに立ち尽くした。
ミチルが泣く。
自分の気持ちが、締め付けられる。
今より子供だったシチロウは、どうにかしてそれを受け入れたかった。
泣き出すそれを、どうにかして止めたいと想っていた。
けれど、もう想わない。
ミチルを、想わない。
ミチルがもし、これから傷ついてしまっても、慰めてはやれるかもしれないが他にはなにも思わない。
傷つけた誰かを憎み、傷ついたミチルをも憎みもしない。
それでも、愛していたのだろうか。
シチロウは自ら終止符を打った恋愛を思った。
しかし、思っただけだった。
ミチルを傷つける、と言った男が浮かんだ。
言葉通り、ミチルは傷つき泣くのだろうか。それとも、笑うのだろうか。
しかしそんなことは、もうシチロウが考えても仕方のないことだった。


to be continued...

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