視線が重なることはなく 9 病欠の連絡は、訝しがられることはなく会社に受け入れられた。 声は完全に擦れていたし、身体に少しも力が入らない気だるさは電話越しでも隠しきれなかった。 セックスでこんなにも疲れたのはどのくらいぶりだろうか。 柘植の腕はいつも優しく、ミチルに負担などかからなかった。 甘い声と吐息。 少なくとも、ミチルの中に吐き出しそのままにすることなどなかった。 ベッドから立ち上がったあの瞬間。 奥から零れる、堪えきれない体液に、まるで粗相をしてしまったかのような屈辱。 羞恥に顔を赤らめて、怒りで身体が震えた。 昨日の夜、何度ミチルは赦しを請うた? 壊して欲しいと言ったミチルは、もう壊れていた。 それを土足で踏みつけられたのだ。 冷静になった頭では、もう怒りしか湧いてこない。 柔和な笑顔は仮面だった。 それを剥ぎ取れば、どこまでも酷い男でしかなかった。 こんな屈辱は初めてだった。 ここまで、ぼろぼろにされたことなど一度たりとてない。 ミチルは握り締めた拳が震えるほど、怒りを抱えて爆発しそうだった。 今度会ったら、殴り倒してやりたい。 本気だと囁かれて、優しく腕に抱かれて。 あれに縋ってしまいたいと感じた自分に腹が立つ。 気付くと、ミチルの頬が濡れていた。 いつのまにか、涙が零れていた。 なんに泣く? 何が、悲しい? 壊れた心に、空洞がある。 これを、何で埋める? どうやったら、埋まる? ミチルは自分がどうして泣いているのかなど、理由が解らなかった。 何が悲しい。 年下の男に、良いようにされたから? 甘い顔に騙されたから? 最後には結局、自分から腕を伸ばしてしまったから? 酷い言葉を吐きながら、声だけは甘い男。 ミチルをずくずくに溶かして、放っていったから? 木村などなんとも思わない。 犬にでも咬まれたと思えば良い。 忘れてしまえ。 ミチルには、好きな男がいる。 「・・・・・・」 ミチルは、柘植を浮かべて硬直した。 柘植が、いたのだ。 悲しくて、どうしようもなくて、弱い心を壊すほど好きな男がいたのだ。 もう、あの甘い腕は無いのだ、と泣いた。 もう、ミチルを見ることなど無いのだと絶望した。 今、ミチルは発狂してしまいそうだった。 狂ってしまえば良い。 今まで何を考えていた? 何がミチルを占めていた? 昨日木村と会ってから、ミチルは誰のことを考えていた? 今まで、誰に怒っていた? ミチルの中を恐怖が襲う。 あんなに苦しくて狂おしいほど想っていた柘植を、ミチルは一瞬でも忘れていた自分が立てなくなるほど怖かった。 崩れ落ちて、涙の溢れた顔を覆った。 「・・・・っつ、げ・・・っ」 愛しい男の名前を呼んだ。 助けて欲しい。 苦しくて仕方ない。 壊れた心が、治らない。 柘植とは、終わったのだ。 それでも縋る望みがあった。 詰る弱さがあった。 酷いと泣ける強さがあった。 けれど、ミチルは独りになったのだ。 今、完全に独りになってしまったと気付いたのだ。 ミチルは幼いときから独りである。 美しいだけの母親は、美しいだけで何も他にはなかった。 ミチルは産まれてから、しばらく誰かに育てられたという記憶はある。 けれど、はっきりとしたのは母親とこの家で暮らすことになってからだ。 小学校に上がる頃だと思う。 それまでは、違う場所でミチルは他の誰かに育てられていた。 初めて見る母親にミチルは全てを奪われて、手を上げられることも、虐げられることもなかったけれど、愛情さえ一切貰えなかった。 母親はミチルの世話をしない。 ミチルは自分のことは自分でするのが当然だと自然と理解した。 この母親は、美しいだけでそれ以上でもそれ以下でもない。 母親の義務を勤めない女から、ミチルは皮肉な言葉だけを教えられた。 騙されるほうが悪いのだ。 虐められるほうが悪いのだ。 弱い人間が、悪いのだ。 誰かに頭を下げることも許さず、母親は常に上位だった。 弱みを見せるな。 負けを認めるな。 縋ることを許すな。 涙など、零すものでもない。 ミチルは半端に、それを受け継いだのだ。 プライドは高く、高慢さを崩さず、誰かの前で屈することも許さず。 人前において、涙を見せることもなく。 けれど、幼いままの心が泣いた。 愛して欲しいと泣いた。 母親の美しい手が、自分の頭へ伸びることを本当はずっと望んでいた。 結局、母親はミチルが高校生のころにどこかへ消えた。 よくふらりと出て行っては数ヶ月も帰ってこないときがあったけれど、独りで待ち続けて半年が経ち、一年が過ぎ、ミチルはどこかで納得した。 もう、あの女は帰ってこないのだ。 今となっては、どうしてミチルと暮らし始めたのかすら解らないままだった。 ミチルに触れることはなく、綺麗な手はいなくなった。 母親から受け継いだプライドと容姿で、ミチルは独りで生きていけた。 それでも、やはり半端だったのだ。 独りでいれば、寂しいと思う。 辛いと泣いてしまう。 それをどうにかしたくて、ミチルは誰かに縋った。 プライドを高く持って、縋るなど見せないように、本当は心から縋って泣いた。 ミチルはゲイだ。 自分を理解したのは、異性にまったく興味を覚えない自分におかしいと感じた中学生のころで、それからは自分はそういう人間なのだ、と自覚した。 自覚した、だけだった。 身体を埋めて、寂しさを紛らわせるのは高校に入ってからだ。 遊びを覚えたのは大学に入ってからだ。 そして、柘植と出会ってしまった。 柘植の愛情は深い。 ミチルが欲しくてたまらないものを、あっさりとくれた。 簡単にミチルを包み込んだ。 強がっていた心を、溶かすほど柘植はミチルの中に入ってきていた。 その柘植が、もう居ない。 ミチルは、ひとりだ。 壊れた心を、せめて砕かれる前ならば。 ミチルはもう一度立てたのだろうか。 過ぎたことは事実でしかない。 事実を変えられることなど出来ない。 自分の心を偽ることなど出来ない。 「柘植・・・・っ」 嗚咽になりながら、ミチルは呼んだ。 もう、その手は自分のものではないというのに。 どこかでミチルの中の母親が嗤っていた。 愛されるほうが悪い。 信じるほうが悪い。 愚か者になりたくなければ、強者で居続けろ。 好きだと思わなければ、愛していると思い込まなければ、自分はずっと強いままで居られたはずだ。 |
to be continued...