視線が重なることはなく 10 夜の煌びやかに染められた繁華街は今のミチルには辛かった。 この喧騒に、耐えられるだけの心も体力も無い。 一日休んだだけで、ミチルは会社へ出勤した。仕事は仕事である。 自分がしないなら、周囲に迷惑がかかるだけだ。 プライドの高いミチルがそれを許すはずはない。 それでも体調は戻りきっていない。どこか気だるさを残したままで一日デスクワークをした。 周囲も風邪だというミチルの言葉を信用してくれたけれど、その召集は夕刻近くになってからあった。 部長の指揮する飲み会がある、と通達を受けたのだ。 まだ暑くなり始めたばかりだというのに、「納涼祭」だという部長に誰も逆らえなかった。 週末の今日の予定は、それで潰れたのだ。 ミチルは出来るなら、そのまま帰ってしまいたかったけれどそれでも部長直々の誘いだとなると、断りきれない。 一次会、二次会と付き合って、もうさすがに無理だ、と青い顔で辞去を伝える。 ミチルの体調の悪さは同僚達も心配してくれて、そのままミチルだけ、先に店を後にしたのだ。 真っ直ぐ家に帰ろう、と駅までの道を急いだ。 もう、タクシーを使ってしまおうか、と車の流れ続ける道路に視線を移したときだった。 ミチルの視線は、その道路を超えて反対側の歩道へと向けられた。 どうして気付いてしまったのだろう。 どうして、視線が外せないのだろう。 足が、縫いついたように動かないのは何故だ? ガードレールの向こうに居たのは、柘植ではなかった。 ミチルの全てを占める、男ではなかった。 木村だった。 壊れたミチルをさらに壊れろと砕いた、木村だ。 視線が外せないミチルは、自分の中の動揺に気付いた。 気付いて、それにどうして、と不安が生まれる。 どうして、心が揺れる? ミチルの心が揺れたのは、柘植のせいだ。 幼い心を放り出したままで、戻らない柘植のせいだ。 けれど、何故ミチルは動揺する? 崩れ落ちそうなほど、視線が揺らぐ? 木村は一人ではなかった。 ネオンに輝く街で、その顔ははっきりとしないまでもどんな相手かは解る。 女だ。 真っ白なスーツは細い身体にぴったりと密着して、美しいラインを引き出している。 スカートの丈は短すぎるほどだというのに、さらに脇へ際どいところまでスリットが見られた。 綺麗に染められた髪は大きく巻かれ、きっとその顔はとても美しく施されているのだろう。 素人の女には見えない。 夜に輝く、女だ。 ミチルの脳裏に浮かぶのは、美しいだけの母親だ。 母親はいつでも美しかったが、とくに男と居るときが一番綺麗だった。 木村の一見細身に見える身体も、その女の前では違って見えた。 女の細い手が木村の広い胸板へと伸びる。木村の腕が女の細い腰へと回された。 かなり親密な関係だと、見ただけで解る仕草だった。 ミチルは動揺した気持ちが、傷ついているのだと理解した。 理解して、また疑問が生まれる。 どうして傷つく? ミチルをゲイだとしる木村が、ミチルを抱きながらも女といるから? 木村が女も抱けるから? 女といるから? ミチルに見せた仮初の笑顔ではなく、親しげな雰囲気を見せているから? 馬鹿な。 ミチルは否定した。 そんなこと、あるはずがない。 木村が誰といようと、ミチルにはもう関係がない。 ミチルを壊したいと木村が言っていた。 あれは、偽りではない。本心だろう。 そして、ミチルは壊れた。綺麗だと言われたミチルは完全に汚れた。 それに気が済んだのだろう。 だから、ミチルをそのままに出て行ったのだ。 ミチルは視線を外すことが出来ないまま、息を飲んだ。 唇が乾く。 抑えられない焦燥感がある。 どうして。 違う。 絶対に、違う。 心が壊れているのだ。だから、ミチルの気持ちも壊れたままなのだ。 こんな気持ちがあるなど、おかしいだろう。 ミチルが好きなのは、柘植だ。 愛しているのは、柘植だけだ。 もうミチルのものでもないと言うけれど、ミチルを占めるのは柘植だけだ。 木村とその女は親しげに会話を続け、対岸のミチルにまったく気付くことはない。 時折笑みを深くするのが、仕草でミチルにも解った。 それくらいで、木村の表情に気付く自分に驚く。 どのくらい、ミチルは木村を知っているというのだ。 木村の見せるほとんどは、偽りだったというのに。 そのうちに木村は片手を挙げて、路上を流していたタクシーを止めた。 女と軽く挨拶を交わし、女の唇が木村の頬に触れた。 タクシーには女だけ乗り込み木村はその車を消えるまでじっと見ていた。 それを見てしまったミチルの心が揺れる。 嘘吐きは木村だ。 木村は嘘だけだ。 真実は、あの夜の残虐すぎる男なのだ。 けれど、ミチルの耳に聴こえるはずのない甘い声が届く。 「本気ですよ」 ミチルは全身が震えた。 甘い声が、ミチルを包み込む。 あれは、偽りだ。 馬鹿だ。 ミチルは自分を嗤った。 弱い自分を嘲笑した。 あんな言葉に縋ろうとするなんて。 それだけで、ミチルは木村を受け入れてしまったなんて。 弱いにもほどがある。 木村に、嘲られても仕方ないな。 ミチルが乾いた笑みを浮かべて、動かなかった足を叱咤し元の通りに駅に向かおうとしたときだった。 タクシーを見送った木村の視線が、周囲を見渡すように移動した。 それと、対岸にいたミチルと重なってしまった。 しっかりと、視線が重なった。 ミチルは身体が硬直したようにまた、動かなくなってしまった。 「・・・っ」 ふざけるな。 ミチルは自分が許せない。 動揺してどうなる。 木村とは、もう何の関係もない。 このまま、ミチルも背中を向ければ良いのだ。 手に力を入れて、崩れそうな身体に耐える。 動いて、駅に向かえ。 どうにか、ミチルの体はミチルの意志に従ってくれた。 木村から視線を外し、進行方向へ足を踏み出したときだった。 「―――――ミチルさん!」 四車線の車道を挟んでいた。 交通量は、少なくはない。 けれど、しっかりとミチルの耳に届いた。 思わず振り向くと、木村がガードレールを跨ぎ超えているところだった。 「・・・・っ?!」 何をしている、とミチルは慌てた感情を隠せない。 歩道もない、信号もない車道を、かなりのスピードで車が行き交う場所を木村は臆すことなく走り出した。 プァ――――ッと一斉に車のクラクションが周囲に響く。 当然だ。 窓から顔を出しはっきりと罵る人間もいた。 木村はそんなもの一切聞いていないように、あっというまにミチルの目の前まで走った。 最後のガードレールを乗り越え、少し息を切らしながら木村はミチルを確かめるように見つめた。 後ろで、止められて迷惑した車道がまた流れ出したのも、人気の多い繁華街の視線を一気に集めたことも、木村には見えていないようだった。 ミチルは目の前に立った相手に、思わず口が開いた。 「何を考えているんだ?!」 問い責めると、木村は一度自分の超えた車道を振り返りなんでもないかのようにまたミチルに視線を戻した。 「・・・ミチルさんが、いたから」 「何?」 「逢えるとは、思っていなかったので、つい」 「つい? ついで撥ねられるのか、君は」 「撥ねられてません」 「撥ねられたかもしれないだろう」 「でも、撥ねられていません」 悪いことなどしてはいない、と言い切るような木村に、ミチルは大きくため息を吐いた。 何を考えているのか解らない。 それが正直な気持ちだ。 「ああ、そう。今回は運が良かったんだろう」 「そうですね、ミチルさんに、逢えましたから」 どういう意味だ? ミチルは訝しんだ顔で木村を見上げた。 「君は・・・なにを言っている?」 「俺としたことが、ミチルさんの携帯のナンバも連絡先も聞いてなかったことに失敗した、と思って」 家は解りましたけど、と続けた木村に、ミチルはますます眉を寄せた。 「・・・・どうして、そんなものが」 必要なのだ。 もう、木村との関係はなにもないはずだ。 「しょっちゅう、店に来てくれていたので、どこか安心してしまっていたのでしょう、ちょっと浮かれすぎていました」 この男は、何を言っている? 「ミチルさん、教えて下さい」 「・・・・なん、で」 「それから、今日は、もう帰るところですか?」 そんなことを聞いて、どうするのだろう。 木村の声を、ミチルはどこか遠くからのように聞いていた。 表情が、違う。 この前、仮面を剥いで見せた、あの凶暴さがない。 いつもの、また仮面をつけた顔で、甘い声のままで、ミチルの前になんの弊害もないように立つ。 解らない。 ミチルは混乱したままで、すぐには動けなかった。 どうして、木村はミチルの前にいるのだ? |
fin.