視線が重なることはなく  5






ミチルがまた鬱々とした日常を過ごし、それを見たのは偶然でもあり、いつかは晒される現実でもあった。
脳裏を占めるのはあの楽しい日々の柘植だけ。
学生時代を一緒に遊び、社会人として真剣に愛した。
思い返すものは思い出だけで、そこに未来の予想など一切ない。
視界に映る全てのものに柘植との関わりを思い出し、それに苦笑してさらに胸を締め付けられて苦渋する。
同じ場所に立ち、ここで二人だけの時間を過ごしたことがあったとしても、来年はもう同じ状況にはならない。
絡み付くような湿気を含んだ熱気を、振り払うようにミチルは頭を振った。
他のものも、振り払えてしまえばいいのに。
明日など、来なければいいのに。
未来など、なくたって構わない。
夕日が沈み、橙色に染まる空はこれから青みを帯びて闇色に包まれる。
明るすぎる地上に空が染められ瞬いたとしても、ミチルの心は晴れない。
身体に纏わりつく熱気が、まるで自分を解放しない妄執のようでミチルはますます顔を顰めた。
駅のホームに滑り込んできた電車に、ミチルも急いで乗り込む。
定時をすっかり回っているけれど、今日はまだ営業の帰りでもう一度会社へ帰らなければならないのだ。
このまま直帰してしまいたい、と疲れに押されるけれど鞄の中の書類を持って帰るわけにはいかない、と会社勤めとしての鬱陶しい責任が圧し掛かる。
それを守ってしまう自分にもうんざりしながら、家とは反対方向の電車にミチルは乗り込んだ。
車内は運よく、混んではいなかった。けれど、空いてもいない。
座席は埋まっているし、立っている人間が隣と触れ合わない程度の余裕があるくらいだ。
ミチルはドアに顔を向けて立ち、そのガラスに額を付ける。
電車の揺れが直接頭に響く。
暫く何も考えたくなくて、ミチルはその無機質な音に集中した。
車内に流れた雑音交じりの車掌の声。
それからすぐに、電車は次の駅へと止まりミチルとは反対側のドアが開いた。
またそれが閉まり、電車は人間を新たに乗せ降ろし、何事もなかったように動く。
それを気にする人間などいない。
ミチルも、それを気にするほど周囲にも当たり前に動く電車にも意識を向けていた訳ではない。
そのときだった。
「・・・から、俺が作るってば」
背中から、何人かの人垣を挟んで声が聞こえた。他人の会話など、気にするものなどいない。
ミチルも気にはかけない。けれど、一気に意識を集中したのはそれに続いた声のせいだ。
「ああ、解かったって、でも頼むから食えるものにしてくれよ、最悪、カップラーメンも買ってある」
どこにでもいるような、少し低い男の声。
人垣に挟まれて、背を向けているミチルに相手が見えるはずもない。
けれど、ミチルが間違えるはずもない。
柘植の声だった。
誰の声とも間違えなどしない。
聴きたくて聴きたくて、電話でそれだけでも聞きたくて、結局それが叶わないでいた相手だった。
携帯を前に、見つめるだけで実際にかけることが出来なかった。
そんな勇気も出ない自分を嘲笑いながら、どこかで安心していた。
まだ、終わらないのだ。
決定的には、まだ終わっていない。
ミチルと柘植は、繋がったままだ。
柘植の声はどこかからかいを含んでいて、楽しそうだと、喜んでいるのだと解かる。
声色だけで機嫌が解かるのは、柘植の声を一言一句聞き漏らすまいと必死で脳裏に焼き付けてきたせいだ。
その柘植の声に答えているのは幼いと感じる声だった。
「ちょっと! 信用してないな? 本気で、大丈夫だってば!」
少年のような、声だ。
柘植の兄弟は多く、その名前の通り柘植は七番目でその後はすぐ下に妹がいるだけだ。
兄弟のものではない。
ミチルは可能性を否定して、自分で首を絞めているのに気付く。
「だってなぁ、カレーを失敗したんだぜ、お前」
「だ・・・っあれは! ちょっと手違いが・・・」
「どういう手違いで、あんな味になるんだろうな」
「ナナさん!」
「はは、ちゃんとレトルトも買ってあるよ」
「もー・・・見てろよ、美味いって言わせてやるから」
「期待しておく」
車内で交わされている会話など、無数にあるというのに。
ミチルの周波はそれしか受け付けないように二人の声を拾う。
硬直してドアから額を離せないでいるミチルは、耳を塞ぐことも出来なかった。
嬉しそうな、柘植の声。
楽しそうな、柘植の声。
その声は聞いたことがある。
この五年、自分が聞いてきたのだ。ずっと、自分に向けられていたのだ。
その会話にミチルは、柘植と相手の間が昨日今日のものではないと知る。
少なくとも、ミチルが察した前に会った日曜以前からではある。
けれど、いつからだろうか。
料理を作るのは、今日で二度目なのだろうか。ならば少なくとも、一度は一緒に同じものを食べたのだ。
柘植の部屋で?
ミチル良く知る、あの柘植の性格が現された整然とした部屋で?
フローリングの床に置かれたテーブルで、ミチルが気に入っていたあの白いテーブルに向かって?
2DKの柘植の部屋の、その隣の寝室は?
ミチルの私物も、いくつかそこに置きっぱなしにしてあったように思う。
それを、柘植はどう言ったのだろうか。
知り合いのもの?
友達のもの?
いや、もう、いらないもの?
ミチルが背中にぞっと寒気を感じたのは、その少年が呼んだ柘植の名前だった。
「ナナさん」
柘植の仲の良い友達は、全員そう呼んだ。
柘植は七郎。シチロウ、と呼ぶ発音が難しく、愛称は「ナナ」だ。
実際、兄弟は全員数字が付いていてイチからハチまで仲の良い印にそう呼んでいるのだ。
ミチルは、それを口にしたことはない。
出会ったときも、五年一緒にいても、ミチルは「柘植」としか呼ばない。
柘植は何も言わなかった。
けれど、呼びたくないわけはない。
本当は自分も同じように呼んでみたかった。
誰よりも近い存在のように、ナナ、と笑って呼びたかった。
けれど、ミチルはどこか踏み込めなかった。
かえって、柘植、と呼ぶのは自分だけだと思い直すことにした。
そういう些細な優越感を、虚しいと感じながらも必死で探した。
自分から踏み込む勇気もないくせに、ミチルはそれが欲しくて仕方なかったのだ。
そんなミチルを、柘植は良く解かっていたのだろう。
踏み込めないミチルに、自分から踏み出してくれたのだ。そしてそのまま、暖かい腕に包んでくれた。
プライドだけは高く、整った顔に冷たさを感じる高慢な態度のミチルに、寂しさが溢れているのをちゃんと柘植は知っていたのだ。
それを暖めてくれたのは柘植だ。
誰にも触らせないように、獲られないように、曝け出さないように。
守ってきたミチルの幼い心を、暖めて剥き出しにしたのは柘植だ。
けれど、もう柘植の腕はない。
ミチルの心を溶かしきって、寒さを感じさせてそのまま温もりは消える。
ミチルの超えられなかったハードルを、あっさりと飛んだ相手にミチルは顔を見ることすら出来なかった。
人を掻き分けてどういうことだ、と詰め寄ることも出来なかった。
泣いて縋ることだって、出来やしない。
弱い。
ミチルは誰よりも、自分を解かっていた。
ミチルは、弱い。
皮肉屋の母は、高慢だった。
美しい顔で誰をも見下していた。
自分の子供にミチルと名付け、その外見をそっくりに移したというのに、ミチルは母のように強くなれなかった。
せいぜい、強く見せようとプライドを持つだけだった。
それすら、今は崩れようとしていたけれど。

ミチルは美散。

このまま、どうやったら散れるのだろう。
美しいままに、相手に刻み付けて散ることが出来るのだろう。
ミチルの耳には、もう雑音しか聞こえなかった。
入り混じる周囲の声。変化もなく動く電車の音。
止まったミチルに気付くことなく、留まることはない街の音。
ミチルは視界がぼんやりとするのを、最後に感じた。
その言葉はもうミチルへのものではない。
その視線にはもう熱はない。
引き寄せる腕に情はない。
幼い心が啼く。
雁字搦めにして固めていた硝子のままの心が壊れる。
好きだと囁かれて、
欲しいと見つめられて、
愛していると抱かれた。
偽りではない。
けれど、永遠でないなら無いほうがましだ。
覚めるくらいなら夢など見ないほうが良かった。
どうせ手放すのなら、こんな熱など与えなければ良かったのに。
夢に期待させるほど、心を溶かさなければ良かったのに。
薄暗くなってきた街のせいで、そのドアに自分の顔が見えた。
涙など、零れてはいなかった。
どこか、ミチルの心は壊れたままだった。


to be continued...

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