視線が重なることはなく  4






映画館を出て、ミチルは木村の促すままに歩いた。
どこへ行くとはっきりとは口にしないけれど、食事をする気になれない、と答えたミチルに、
「じゃ、少しだけ、付き合ってください」
そのまま繁華街の奥へ足を向けたのだ。
着いた先は、入り口が地下にある広くも狭くもない、と感じるバーだった。
店内の照明は相手の顔が分かる程度まで絞られ、流れる音楽は落ち着いたジャズ。
小声で会話すれば周りには聞こえはしないだろう。
初めての店でミチルは珍しそうに店内を見渡し、落ち着いた黒艶を放つカウンタに立って隣でバーテンに飲み物を注文する木村を見上げた。
「・・・俺、どこかおかしいか?」
「・・・・・なにがです?」
質問の意味が解からなかったのか、木村はそう言ったミチルの真意を探るように首を傾げた。
そうされたミチルも首を傾げたかった。
まず気が付いたのは、この店内には同性の客しかいない。
格好は様々だけれど、こういったバーに見られる女性客が見えないのだ。
こんなに雰囲気の良いバーなら女性を口説くには持って来いの場所だと思うからだ。
そして、控えめではあるけれど、確実にミチルは盗み見るような視線を感じた。
自分の顔は自覚しているものの、ここまであからさまに注目されることなど初めてだった。
ミチルはこういったバーは嫌いではない。むしろこの雰囲気は気に入ったほうだ。
けれどこんな針の筵のような視線の中では落ち着けと言うほうが無理なことだった。
ミチルはそれを年下の男に曝け出すように言うのは気が引けて、目を周囲に走らせて戸惑った顔を向けた。
日ごろ、人を見る目があるという木村はそれで理解したようだ。
少し驚いて、それから眼鏡の奥で笑みを深くした。
「・・・ミチルさんが、綺麗だからですよ」
「木村くん、君ね・・・」
お世辞もそんな顔で真面目に言われると厭味に聞こえてしまう。
それを諌めようとしたミチルに、
「暦史です」
「え?」
木村の声は小さかった。すぐ隣に立つ、ミチルに聴こえる程度だ。
その囁くような声で、
「俺の名前、レキフミです。そっちで呼んでください」
いきなり何を言うのだろう、とミチルが眉を顰めると、木村は困ったな、と苦笑し、
「ここで、俺以外に興味がないようにしてください・・・でないと、すぐにミチルさん狙われそうだから」
「・・・どういう意味だ?」
本当に解からない、とミチルが首を傾げると、丁度カウンタの中からバーテンがロックグラスとタンブラを差し出してくる。
木村はそれを受け取って、タンブラをミチルの前に置いた。
「ミチルさん、本気で言ってます?」
「・・・・なにをだ」
ミチルはなんとなく不安なものが込み上げてきた。
けれど、はっきりとそれを木村に言えない。
「参ったな・・・ミチルさん、こういうところ来たこと、ないんですか?」
「バーにはもちろんある。けど・・・ここは、なんだか雰囲気が・・・」
「男ばっかりだからですか?」
あっさりと疑問を口にされて、ミチルは少し戸惑ったけれど素直に頷いた。
「ミチルさんがそういう人だと知ってるから、来たことくらいあるだろうと思ってたんですが・・・」
「木村くん?」
「レキフミ、です」
木村の向ける視線は強くなる。その呼び方以外を受け付けないようだった。
ミチルはそれに躊躇して見せたけれど、結局呼んだ。
「・・・レキフミ、どういう意味だ」
呼ばれたことに嬉しそうに木村は笑んで、
「一言で言うと、ゲイバー、かな。そっちの人間が集まって、相手を探す、店です」
ハッテンバ。
ミチルはその言葉がすぐに頭に浮かんだ。
聴いたことはあっても、ミチルはそこに足を踏み入れたことはない。
木村はグラスの中身を喉に押し込んで、溜息を吐くように笑う。
「参ったな・・・綺麗な人だとは思ったけれど、こういうとこには一切興味がなかったんですか?」
「興味って・・・俺には、関係ないから」
「関係なくないでしょう、男が好きな男なんて、そのへんにいくらでもいるわけじゃないし、普段は隠してる人間のほうが多い。ミチルさん、今まで相手はどうやって見つけてきたんです?」
「見つけるって・・・そんなの」
ミチルにはこういうところに来なければならないと思ったことがないのだ。
ミチルが独りで居れば、誰かが声をかけてくれる。
そういう雰囲気をミチルが出しているのか、と思ったけれど相手はゲイではないことのほうが多い。
男でも、ミチルなら抱く、という人間が多かった。
ミチルは好きになったのなら相手一筋にもなる。
たとえ寂しくなったときですら、この場所まで来て探そうとまでは思わなかった。
周囲が、ミチルを放っておかなかったというほうが正しい。
ミチルは少し考えを巡らせて、
「普通は、こういうところで探すものなのか?」
年下だけれどここに慣れているような木村を見上げた。
「普通って、決められてるわけじゃないですよ、でも、一回限りの相手とか、見つけやすいでしょう。ボーイを呼ぶのもどうかと思うし」
「・・・・・」
聞き慣れない言葉を聞いて、しかしミチルは素直にそれが何を指すのか、と訊けなかった。
しかしミチルの表情で木村は察したのだろう。
「・・・もしかして、ボーイやホストなんかも、使ったことない・・・?」
「・・・使うって、なにに?」
素直に訊いてしまったミチルに、木村は持っていたグラスをカウンタに置いて身長にあった長い腕をミチルに伸ばしてきた。
「木村く・・・ちょ、なに?」
「レキフミですってば・・・」
押し返しても、驚いたのと体型の差でミチルの身体は木村の腕の中にすぐに納まってしまった。
腰を抱きかかえられる形で顔を寄せられ、ミチルは困惑を隠せない。
「ちょっと、こうしないとミチルさん、やばそうなんで・・・お願いですからじっとしていてください、これ以上、何もしません」
「・・・・・」
その言葉が真剣に聞こえて、ミチルは押し返す手から力を抜く。
いっそう近くなった顔先で、木村はさらに小さく囁く。
「ボーイっていうのは・・・男相手に身体を売る男のことで・・・ソープやキャバ嬢の男版だとでも思ってください」
「・・・そう、なのか・・・」
「本気で知らなかったんですね・・・」
「・・・おかしいのか?」
少し眉を顰めると、木村はそこで笑ってみせる。
「おかいしくないです。本気で、一途で・・・柘植さんが羨ましい」
「・・・・・」
出てきた言葉に、ミチルははっきりと身体を強張らせた。
ミチルを抱きかかえているような木村には確実に伝わったはずだ。

この五年、柘植しか見てこなかった。

それ以外にはどんなにいい相手がいようとも気にもかけなかった。
どんなに優しく、強くアプローチをかけられてもミチルには何の意味も成さなかった。
柘植ではないからだ。
ミチルは、柘植が良かったのだ。
柘植と付き合う前は、もっと遊んでいたし木村の言うように一夜限りの相手だっていた。
けれど、こんな専門のバーなどなかった。
あったとしても、ミチルには気付くことがなかった。
大学では、その校内にいるだけでそこに様々な人間がいたからだ。
その中でも、ミチルは柘植が良かった。
柘植はもともと、ゲイではない。
女でも男でも、好きならどっちでも良い男だ。
それが自分になったとき、ミチルはもう死んでもいい、と思った。
信じられなくて、湧き上がる歓喜に思わず涙してしまったのを昨日のことのように思い出せる。
「死んでもらったら困る」
笑いながら言って、ミチルを腕に抱きいれた柘植の温もりさえ、ミチルは忘れられない。
あれほど安心し心地よかった空間はどこを探しても、もうないだろう。
他の男に抱かれながら、ミチルはあのときの柘植を思い出してまた熱くなりそうだった目を伏せた。
ここで、あのときと同じように泣くわけにはいかない、と冷静になれるほどには大人になったつもりだった。
「ミチルさん、その顔、やばいですよ」
至近距離で囁かれて、ミチルはまた意識を現実に戻した。
木村の腕の中にいる、とはっきりと思い出したのだ。
「その顔?」
ミチルが視線を上げると、すぐ目の前に木村の苦笑した顔があった。
「このまま、連れて帰りたくなる」
「・・・・・」
即答で言葉には出来ないけれど、ミチルの気持ちは表情に出ていた。
連れて帰られることは出来ない。
けれど、ここで今突き放してもいいのだろうか、と困惑したのだ。
木村はミチルに顔を寄せたけれど、その横を通り過ぎて肩に額を乗せた。
「きむ・・・れ、レキフミ?」
名前を言い直したことに、そこで木村が笑った気がしたのは勘違いではないだろう。
「今日は、無理強いはしません・・・ミチルさん、落ち込んでるみたいだし、今日は元気になってもらいたかっただけだから・・・」
「そうか・・・? でも、俺は・・・」
「今は、答えないで下さい」
はっきりと断ろうとしたミチルの意思が解かったのだろう。木村はミチルの声を遮った。
「・・・このまま、もう少し。すぐに振られたら、俺可哀想でしょ」
「・・・・でも」
「それに、ミチルさんのためでもあるし」
「俺の?」
「もし、ミチルさんが全部を投げ出したくなったとき・・・そのとき、相手は俺にしてください。そう出来るように、それまで答えは保留ってことで」
ミチルはそれにも答えられなかった。
投げ出したくなるときが、来るのだろうか。
そこまで、ミチルは堕ちることになるのだろうか。
ミチル自身が解からないことを、木村はなんでも解かるようだった。
「俺がミチルさんに本気だって、解かってもらえただけで今日は我慢します」
「レキフミ、でも・・・」
「でもは、なしです。柘植さんと、どうなっても俺はいいです。ミチルさんの気持ちに任せますから、その時、選んでください」
その時が、木村には解かるようだった。
確実に来る、そのときが。
ミチルは心がざわめくのを感じた。
木村はふいに顔を上げて、
「・・・でも、もし俺を選んだなら、俺、遠慮しないですからね」
ミチルはゆっくりと息を飲んだ。
瞬きをして、それを見つめてしまった。
それくらい、木村の顔は真剣で視線を奪われてしまったのだ。
しかしすぐにミチルは視線を外し、その気持ちを誤魔化すように、
「・・・お前も、でもって使っているじゃないか」
「あ、そうですね、すみません」
拗ねたような声になったミチルに、木村はまたいつもの顔で笑っただけだった。
ミチルは落ち着かない心を抱えたまま、その日は真っ直ぐに家に帰った。
心が騒ぐのは、木村に揺れたのではない。
柘植に、こんなに脆くされた剥き出しの心が原因だ。
だから、揺れるのだ。ミチルの中はまた、柘植に覆われたのだった。


to be continued...

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