視線が重なることはなく  3






「ミチルさん、自分で言った約束なのに全然覚えてないんだもんなぁ」
「ごめん・・・」
本気だとは思わなかったのだ。
ミチルは木村に誘われるまま、映画館の中にいた。
丁度見たいものがあるから、と木村に言われてそのまま映画館に向かったのだ。
ミチルの思考は新しい誰かではなく、離れていってしまいそうな男で埋め尽くされている。
流れてゆくだけの会話は、思考に残っていなかった。それでも、約束はしたのだ。
上映される映画は流行っているもので、これでいいか、と訊かれて頷いた。
ミチルは何でも良かった。見たいものがあるわけではない。
見たとしても記憶には残らないだろうし、ならば何を見ても同じだと思ったのだ。
木村には悪いけれど、一度した約束だけを守るつもりで付き合っただけだった。
そして、持て余した時間を潰すのにはいいだろう、と判断したのだ。
今日の夜は、いつも以上に長いだろう。
こんなことなら定時でなんて帰るのではなかった。
後悔だけ、いつも親しいもののように付きまとう。
柘植に出会って、そしていなくなった。
落ち着かない気持ちだけが巡って、きっと今日は眠れそうにはない。
一人暮らしのミチルの夜が、長くなるだけだった。
だが、思わぬところで時間を潰すことが出来た、と思った。
映画を見て、それでも誰かと話してでもいればそのうち夜も流れて行くだろう。
「ミチルさん、座席、後ろでもいいですか?」
「え? どこでもいいけど・・・君、見えるの?」
ミチルは木村のいつもかけている眼鏡に視線を向けた。
するとその奥から笑みが返って、
「コレ、伊達ですよ」
「そうなのか?」
「はい。で、俺背があるんで・・・前のほうだと後ろに迷惑がかかるんですよね」
ミチルは納得した。
柘植も、同じようなことを言っていたのだ。
改めて見上げれば、同じくらいの身長だった。
それだけを思って、苦しくなりかけた胸をどうにかしたくて顔を伏せ、
「いいよ、どこでも・・・」
振り切るように先に足を動かした。
映画はサスペンスアクションで、やはり見てもミチルの興味は引かれなかった。
それでも話を合わせるためにストーリーくらいは頭に入れなければ、とぼんやりと流れをただ見つめていた。
後ろに座っているせいか、全体も視界に入る。スクリーンからの光で座席も良く見えた。
平日の夜と言うこともあってか、客数は少ない。
そして、こんな後ろに座る人間はミチルたちくらいだった。
映画に集中していないからか、ミチルはそんなことまで視界に入れていた。
それでも話が中盤に差し掛かったときだ。
肘掛に置いていた左手に、何かが触れた。
それは当たったようではなく、熱が覆いかぶさってくる感触だった。
視線を向けなくても解かる。隣には、木村しか座っていないのだ。
ミチルの手に、木村の手が重なっていた。
邪魔だったのだろうか、とミチルが手を引きかけても、被せられた手はそのまま指を絡める。
意思を持った動きに、ミチルは正直動揺した。
こんなシチュエーションが初めてなわけではない。
それこそ柘植と一緒のときは、自分からも重ねていたくらいだ。
けれど自分で予想もしていなかったからか、まさか、と大きく息を吐いた。
木村は、自分に好意を抱いているのだろうか。
ミチルは視線をスクリーンに向けたままで、しかし映画の内容など一切見えていなかった。
思考だけが、グルグルと回る。
それとも、木村にとって見ればいつもの行動なのだろうか。
木村はミチルが見ても充分もてるだろう。
遊びなれているからか、こういう誘いに乗る相手とはいつもしていることなのだろうか。
しかし、ミチルは出来ない。
遊んでいるときならともかく、ミチルは今、好きな男がいるのだ。
付き合っている相手がいるときは、ミチルは一途だ。他の男には一切見向きもしない。
まだ、付き合っている男がいるのだ。
別れてもいない。
気持ちだけが募っていく相手が、いるのだ。
そのうちに、木村の指がミチルの細い指を確かめるように撫で、柔らかな手のひらを優しく揉んだ。
「・・・・っ」
指の間の柔らかな部分も熱が伝わるように揉まれて、ミチルは少し身体が震えるほど息を飲んだ。
慣れてる。
かなり年下の学生だというのに、木村は確かに慣れていた。気持ちが動く場所を、指先だけで心得ているようだ。
ミチルはすでに映画の内容など解からなかった。
柘植のことでいっぱいで、ミチルは少しの動揺に心が掻き乱された。
どう、するのだろうか。
木村はどうしたいのだろうか。
自分はこのままどうしたいのだろうか。
どうなってもいいのか?
答えなど独りでは出せない想いだけがまた巡り、そして決して消えることのない柘植の想い。
一瞬だけれど、確実にミチルは思った。
もし、自分が他の誰かと付き合えば柘植は悩み苦しむことなどなく、ミチルと別れられるのではないだろうか。
苦しんで結果、ミチルとの別れをただ告げられるよりは、自分から切ってしまったほうが楽ではないのだろうか。
けれど、ミチルにその選択は出来ない。
出来るはずがない。
それが出来るなら、毎回振られるたびにこんな思いになったりはしない。
辛くて辛くて、どうしようもない想いを引き摺ったりはしない。
暖かな手は、その熱をミチルに伝えるようにまだ触れていた。
この手を、離すべきだろうか。
ミチルは重なった手を引こうとしたその時、
「・・・ミチルさん」
耳元で、低く声が聞こえた。
身体がびくり、と硬直したのがきっと木村にも伝わっただろう。
「どうしよう・・・俺、全然映画見てない」
顔を寄せ、耳に吐息がかかる距離で囁かれる言葉は、訊き返さなくても解かる。
映画でなければ何を見ているというのだろうか。
ミチルは視線を伏せ、吐息とは反対に少し顔を背けた。
しかしそれは本当にわずかで、木村の吐息からは逃げ切れない。
「ミチルさん、俺、本気ですよ・・・」
ミチルは耳を塞いでしまいたかった。
心が揺れている。
大人になったつもりで、いろいろなもので固めて守っていた心が、柘植のせいで剥き出しになっている。
幼い心が泣いて、辛いと言っている。
気を許せばそれが溢れ出しそうなのに、それほど今ミチルの心は剥き出しになっているというのに。
そんなことを言わないで欲しい。
心が、揺れる。
この手から伝わる温もりに、浸ってしまえと弱い心が泣いている。
閉じられない耳の代わりに、目をぎゅっと塞いだ。耳もそうしてしまえばいいのに。
力を込めれば簡単に解けそうな優しい拘束の手から、どうしてもそれが取れなかった。
こんな弱い自分は嫌いだ。
柘植は少なくとも、今迷っている。
ミチルはその答えを待っている。
ずるいことは決してしない柘植に、ミチルは真正面から逃げないで向かい合いたい。
自分に後ろめたさなど感じていたくない。
それには、この暖かな手に縋るわけにはいなかいのだ。
こんなに柘植を想っているのに。
柘植は、きっとミチルを置いてどこかへ行ってしまう。
プライドの高いミチルは、それをきっと追うことすら出来ない。
そして意地の悪い自分がいる。
ミチルが傷ついているのを知り、柘植も傷つけば良い。
ミチルが泣いているのを、ずっと感じていけば良い。
優しい柘植は、きっとミチルを置いてゆくことに傷つくだろう。
しかしそれでも、ミチルとは終わる。
その時、もっと確実に柘植を苦しめようと、意地の悪いミチルが泣く。
そのために、ミチルはこの暖かで柔らかい手を握り返すことが出来なかった。
ただの遊びだと、割り切れるほど柘植を忘れることも出来ないでいた。
今、最低なのは自分だ。
答えられないくせに、手を振りほどけない自分だ。
ミチルは冷えることのない手に、泣いてしまいそうなのをただ必死で耐えた。


to be continued...

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