視線が重なることはなく  2






五年という月日は、やはり長い。
ミチルはぼうっとしてしまうときが多くなった。
営業中はしっかりと気を張るけれど、デスクワークに戻るととくにその反動かじっと一点を見つめて動かなくなってしまう。
同僚に心配されて、なんでもない、と返すけれど溜息を隠せなかった。
こんなことでは駄目だ、と頭を冷静にしようとするが、どうにも気になって仕方ない。
終わりを感じた。
けれど、最後通知を受けていない。
それは来るのだろうか、それともこのまま消えるのだろうか。
ミチルはそれをここのところずっと考え続けていた。
柘植は優しい男だ。放っておいて自然消滅させようなどと、ずるいことはしないはずだ。
なら、まだ柘植の中でも迷っているのだろうか。
誰か、ミチル以外の相手と、ミチルを。
それでも、もうミチルに戻って来ることはない、とミチルはどこかで確信していた。
やはり、最後通知を待つだけだ。
言われる前に、言ってしまえばいいのかもしれない。
振られるより、振ってしまうほうが楽なのかもしれない。
しかしミチルは今まで振ったことがない。
プライドだけは高く、泣いて縋ることも出来ないくせに、先に断ち切る勇気もなかった。
どうしてこんなに女々しいのだろう、とミチルは自分がやはり好きになれなかった。
大学から付き合って、一緒の時間を過ごして、永遠とも思うほど愛し合った。
浮かんでくるのは楽しいときばかりで、それは過去でしかない。
最後に想うのは、一緒に居てもミチルを見ない柘植だけだ。
仕事にならない、とミチルは残業するつもりだった書類を纏めた。
頭を冷やして明日に回すよ、と同僚に告げて、定時で会社を出ることにした。
夏が近くなっている季節で、外はまだ明るく気温は高かった。
すでにクーラーを回しているのか、室外機のせいでオフィス街にいつもより熱を感じる。
スーツのジャケットで何度か風を起こして、真っ直ぐ帰ろう、と駅へ向かう。
柘植に会いにゆく勇気さえない。
このまま何もなかったように終わらせれば、一番傷が浅いだろうか、と思考は延々と後ろ向きに回る。
駅に入りかけて、このまま帰っても自分で食事を用意する気も起きない、と溜息を吐いて、どこかで買って帰ることにした。
そう思って身体を振り向かせたとき、視界に入ってきた男に全身が硬直した。
柘植だった。
柘植の会社はこの近くではない。しかも、ミチルは定時に会社を後にしたのだ。
柘植がここにいる理由が思いつかない。思い当たらない。
柘植は、私服だったのだ。
会社へゆくスーツではない。スラックスにシャツとラフな格好だった。
会社を終えてから、帰って着替えてきたようにも思えない。そんな時間はないはずだ。
ならば、答えはひとつしかない。会社に行ってないのだ。
立ち尽くして柘植から視線を外せないでいたミチルに、柘植の視線が絡んだ。

柘植の唇が、ミチル、と動いた。

顔は驚きに目を瞠っている。
ミチルとこんな時間にここで会うなど思ってもいなかったのだろう。
確かに、ミチルは入社して以来定時で帰ることなど滅多にない。けれど、ここはミチルが使う駅だ。
毎日、ミチルが使用し通っている駅だった。
ミチルは震える身体をゆっくりと動かした。
一歩一歩、地面があるかどうかを確かめるように柘植に近づいた。
「・・・どうした、んだ?」
目の前に立って、少し視線の高い柘植を見上げた。
驚きが、困惑に変わっていた。
その表情の変化すらミチルには心臓が痛かった。
逢いたくなど、なかったのだろう。
逢わないでいたかったのだろう。
しかし柘植はそのままミチルに訊き返した。
「・・・ミチルこそ、早いな、まだ・・・」
柘植が腕時計で時間を確かめる。確かに、いつもの帰宅時間ではない。
「ああ・・・気分が乗らないから、仕事は明日に回した」
素直に答えたミチルに、柘植は少し苦しそうな顔を見せる。
「体調、悪いのか?」
「いいや、そんなことはない」
「・・・そうか?」
「ああ・・・」
ミチルを気遣う柘植に、ミチルは誤魔化されないだろう、と震える唇を開いた。
「お前・・・今日、休んだのか・・・?」
柘植は自分の格好を確かめるように視線を落とし、ミチルに視線を戻したときに苦笑した。
「ああ・・・まぁな」
「・・・そう、か」
どうして。
ミチルはそれが出てこない。
喉まである想いが、言葉にならない。
どうして、休んだんだ。
何を、していたんだ。
どこへ、行くつもりなんだ。
訊きたいことだけ、尽きることはないというのにミチルの唇は乾いたまま、動くことはなかった。
その目の前で柘植はもう一度時間を確認し、
「悪い、これからちょっと用事があるんだ」
「・・・ああ」
「また、連絡する」
柘植はいつもと同じように手を上げて、そのままミチルを置いて駅を背に向けていった。
ビルの合間に消える柘植を、ミチルはただ見つめていた。
手を伸ばせば良い。
走って追いかければ良い。
どこへ行く、と問い詰めて、行くなと縋れば良い。
どこにも行かないで、と泣いて自分を曝け出せば良い。
ミチルの足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。
ただ、視線は消えた柘植をいつまでも探していた。
何も出来ないくせに。
ミチルは溢れそうに起こる感情を、正直持て余していた。
みっともない真似はしたくない、とプライドだけが高い。
自分を好きではないのなら、もう興味はない、とあっさりと離れれば良い。
いつもいつも、心が砕けるほどに泣き傷ついているというのに、ミチルはそれを出すことが出来ない。
こんなにも、想っている。
こんなにも、好きなのに。
本気で愛しているのに。
素直になれない自分など、まったく価値がない。
ミチルは心に蓋をしたかった。溢れ出す感情も、抑えてしまいたい。
入り込んでくる想いも、受け入れたくない。
何もない世界に、行ってしまいたい。
「ミチルさん?」
かけられた声に、ミチルはぼんやりと振り返る。そこには木村が立っていた。
少し驚いて本物だろうか、と確かめているような顔で立っていた。
木村は店で見る格好とは違い、ジーンズにTシャツという学生らしいラフな出で立ちだ。
眼鏡も縁のあるものだが今日は少し黄色に色みがかっている。
身体のラインの解かる格好は、意外と引き締まっているんだな、とミチルはどうでもいいような思考を巡らせる。
それから、やっと周囲もクリアになった。
自分の家のある駅前だった。木村の勤めるカフェの近くでもある。
いつのまにここまで帰ってきたのだろう。
ミチルは柘植を見送ってしまった駅から、どうやって電車に乗りいつここに着いたかを思い出せなかった。
慣れた道であるからか、身体が覚えているままに移動したのだろう。
辺りをきょろきょろとしたミチルに、木村は側まで来て顔を覗き込んだ。
「ミチルさん? どうしたんですか?」
「ああ・・・いや、別に。君こそ、どうしたんだ? バイトは・・・」
「毎日入ってるわけじゃないですよ、今日は休みです」
そこで木村が大学生だというのを思い出した。あのカフェの店員が本業ではないのだ。
ミチルはようやく理解したように、
「ああ、そうか・・・」
「ミチルさん」
「なに?」
「仕事、もう終わったんですか?」
「うん、今日は定時で・・・」
会社を出たのだ。そして、駅で会いたくない相手に出会ってしまった。
会いたくて逢いたくて、仕方なかったというのに、結論が解からない今は会わないでいたかった。
会えば別れが早くなる。
女々しいと思いながらも、ミチルはそれを少しでも先にしたかったのだ。
また思考の中に入りかけて俯いたミチルは、木村の声で現実に引き戻される。
「ミチルさん、約束、覚えていますか?」
「・・・・え?」
顔を上げたミチルの視界に入ったのは、穏やかな笑みを深くした木村だった。
「デート、してくれるっていったじゃないですか」


to be continued...

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