視線が重なることはなく  1






賑やかな店内で、連れのいない客はミチルだけだ。そしてミチルの外見は人目を引く。
けれど周りからの視線などミチルにはどうだって良かった。気付いてもいないかもしれない。
鳴らない携帯に視線を落とし、ただ物思いに耽っていた。
先週の日曜に会ったとき、ミチルは敏感な気配に気付いた。
どうして、こんなに自分は解かってしまうのだろう。
いっそ知らないままで、騙されるような人間なら、傷つきもしなかっただろうに。
ミチルは家まで来てくれた男に、仕方ないな、と笑った。
仕事が押して、約束した時間ギリギリに来た相手は柘植 七郎。
大学の同級生で、ちゃんと付き合い始めたのは卒業間近になってからだ。
お互いに相手がいないとき気が向けば身体を重ねる関係だったけれど、それ以上の存在になった、と同時に感じた。
それまでの遊んでいた関係を笑いながら、これからはミチル一人だ、と柘植は笑って抱きしめてくれた。
笑顔が柔らかな、とてもいい男だった。
片思いかもしれない。
片思いでも良い、と思っていたときだったから、ミチルは夢のように嬉しかった。
幸せだ、と感じていた。
働き始めて、休日も重ならなくなったとしても、それでも愛情が繋がっていることははっきりと感じられた。

そうして、五年だ。

けれど、先週に会ったとき、柘植はミチルといるというのに落ち着かないようだった。
始終、時計を気にしていたのは、何気ない態度を取っているつもりでもミチルには分かる。
「・・・柘植? なにか、用事があるのか?」
そのときは、やはり仕事があったのではないだろうか、と心配しただけだった。
夕食の用意をしている途中で、落ち着かないまま何度も煙草に火を付けては消す、と繰り返していた柘植に訊いた。
柘植は何かに驚いたようにミチルを見て、それから笑った。
「いや、別に・・・なにも、ない」
「そうか・・・? 仕事なら、今日無理しなくても・・・」
「いや・・・仕事はちゃんと、終わらせてきた」
「・・・なら、いいけど」
ミチルは途中だった料理を再開した。
ボウルに作っていたドレッシングを必要以上に掻き混ぜ、動揺を落ち着かせようとした。
背中を向けた気配でも解かる。
仕事のない柘植は、それ以外に気になることがあるのだ。
ミチル以外に、気になることがあるのだ。
ミチルはどうにか、高過ぎると自分でも思うプライドで平静を保った。
こんなところで崩れるなど、自分が許せなかった。
何がそんなに気になるのか、素直に訊けない弱い自分が許せなかった。
出来上がった夕食を食べて、他愛もない会話を繰り返して、柘植は明日も仕事だから、と帰っていった。
玄関まで見送ったミチルに、
「またな」
と笑顔で柔らかい髪を撫でて、ドアを閉める。
閉まったドアを暫く見つめて、ミチルは動けなかった。
帰ってしまったのだ。
ミチルに触れたのは、今の一瞬だけで柘植は帰ってしまった。
「・・・・っ」
音もなく、頬に涙が伝った。
冗談じゃない、と顔を振り、そんな弱い目を手で覆った。
柔らかい視線が向けられたけれど、もうそれだけだった。
ミチルはこの日を、楽しみにしていたのだ。
夕食を食べるというので朝から材料を買いに出かけ、部屋を全て掃除し、布団も柔らかな日差しで暖かくなるよう充分に干した。
誰にも邪魔されないように、自分の携帯は電源も落としていた。
シャワーを浴びて身奇麗にして、約束の時間が近くなり夕食の準備を始めた。
柘植と逢えるのを、本当に楽しみにしていたし、嬉しかった。
けれど柘植はもうこの部屋のどこにもいない。
実際に顔を見たのは、手の触れる距離にいたのは、久しぶりだというのに。

二ヶ月ぶりの、逢瀬だったというのに。

「ミチルさん?」
ミチルは耳に届いた声に、びく、と反応した。
現実の声だった。
ミチルは世界に入り込んでしまっていた思考を何度か瞬きをして現実に戻す。
声をかけてきたのはここの店員である木村だった。
何度もここに通ううち声を交わす仲にはなり、どうやらミチルと柘植がそういう関係である、と気付いているようだった。
だからミチルもこの相手にだけは自分の性癖を隠してはいない。
白のシャツに臙脂のダブリエ。短く刈られた髪に、深い緑で縁取られた眼鏡。
身長が高いこともあるけれど、ここで働く店員の中でも一番目立っている男だ。
その木村がミチルのテーブルの上で氷が溶けてなくなった水のグラスを新しいものと代えてくれた。
「あ・・・ああ、ごめん、有難う」
木村はまだ大学生のはずだけれど、その微笑みは深い。
きっともてるんだろうな、とミチルはいつも思う。
「いえ、いいですけど・・・珈琲、冷めてしまいましたね、代えましょうか」
いつものように注文したものの、置かれた珈琲に口を付けた形跡はない。
そしてそのまま冷え切ってしまっていた。
ミチルは申し訳ない顔で、
「いや・・・ごめん、悪かった、もったいないことをした」
ここの珈琲は美味しいのだ。冷めても大丈夫だろう、とミチルはその取っ手に指を絡める。
それを木村が大きな手で制した。
「代えますよ、すぐに新しいものをご用意しますから」
「いや、悪いから・・・」
「常連さんには、サービスです」
笑顔で答える木村に、ミチルは苦笑してしまった。
「悪い・・・珈琲一杯で粘ってしまった。混んでいるのにごめん、もう帰るから」
珈琲を下げようとした木村に、伝票を持って腰を上げかける。
木村は少し驚いて、
「え、もうですか?」
「ああ・・・ひとりでいても仕方ないしね」
「今日、柘植さんはどうされたんです?」
ミチルは鳴らなかった携帯をポケットに押し込み、笑った。
けれど、渇いたものにしかならなかった。
「さぁ・・・振られたらしいね」
「もったいないことをしますね、柘植さんも」
木村はこんな言葉をいつも使う。本気かどうかは、解からない。
しかし表情も変わらないので愛想なのだろう。
ミチルは苦笑して、
「そうかな・・・まぁ、仕方ないんだろうな」
木村はそのままミチルと一緒にレジまで付いて来た。木村が精算してくれるつもりなのだろう。
レジカウンタで珈琲一杯を精算していると、
「ミチルさん、また来てくださいよ」
「え・・? ああ、来るよ」
「柘植さんと一緒じゃなくても、来てください」
「・・・・・」
思わず黙ったミチルを、レジを挟んで木村が視線を向けてくる。
同じ床の上に立つと、ミチルが少し見上げるくらいの身長だった。
「ミチルさんが来ると、店内が華やぐんです。今日も、一人で視線を集めてましたよ」
「え・・・? 俺が?」
ミチルは自分の顔が悪くない、と自覚はあるが、雑踏に紛れてしまえば解からなくなるだろう、と思っていた。
「自覚なしですか?」
木村は楽しそうに笑って差し出されたお札を受け取り、おつりを用意した。
それを返しながら、
「ミチルさん、ミチルさんを振るような男は放っておいて、今度俺とデートしてください」
その表情が少し拗ねて見えて、ミチルは思わず笑ってしまった。
木村は笑ったミチルに眉を顰めて、
「ミチルさん・・・俺、本気なんですけど」
「ああ・・・悪い悪い、有難う」
ミチルは受け取った小銭をポケットに押し込みながら、堪えきれない、とまだその衝動が納まらなかった。
「・・・さすが、大人ですね」
「・・・え?」
呟きの意味が解からず、聞き返すと木村は笑って、
「で、どっちなんですか? してくれるんですか? 駄目なんですか?」
重ねて訊いてきたのを、ミチルは生活するうえで身につけた、表面上の笑みを浮かべた。
「もし街で会ったとき、君がそれを覚えていたらね」
社交辞令に次はない。約束もない。
ミチルは落ち込んでいた気持ちに少し安らぎをくれた相手にお礼を言って、小雨の振る街に足を踏み出した。
来るときはそれほど酷くなかったので、傘を持ってこなかった。
濡れたって構わない。
ミチルは躊躇することなく、ミチルの変わりに泣いているような空の下を歩き始めた。
雨が上がったら、自分の気持ちも晴れるのだろうか、とまたミチルは深く思考の中に沈んでいった。


to be continued...

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