視線が重なることはなく 6 「ミチルさん?」 ぼんやりと、ぼやけたままだったミチルの視界に声が聴こえた。 それははっきりとミチルに向けられたもので、瞬きをしながらミチルは視線を移動した。 「どうしたんですか?」 ミチルはベンチに座り込んでいた。 バス停の、ベンチである。雨避けの屋根はあるけれど、締め切ったものではない。 バスを待つだけの、ベンチだった。 それにミチルは駅前のロータリーを眺めるように座り、しかし何度も巡回するバスに乗り込むこともない。 ぼんやりとしたままのミチルに、その前を通り過ぎバスに乗り込む乗客は視線を向けるけれど声をかけるでもなく過ぎてゆくだけだった。 ミチルはその視線にすら気付くこともない。 すでに辺りは街灯が灯り、会社を後にしてどのくらいの時間が経ったのかミチルには見当がつかなかった。 柘植と思わぬところで一緒に乗った電車を降り、会社へ向かい書類を整理して帰路についた。 はずだった。 視界に入る駅はミチルの家のある街の駅で、ミチルはまた慣れた身体で帰ってきていたのだな、と知る。 そして、足がここで止まり動かなくなったのだろう。 今、何を考えていたのかすら思い出せなかった。 埋まっていることといえば、柘植のことだけだ。 ミチルの世界は柘植で埋められている。 しかし、柘植の何を考えていたのかが思い出せない。 ミチルは現実に戻った視線を声をかけてきた相手に向けた。 木村だった。 バイトの帰りなのだろうか。 ベンチの向かいにしゃがみ込み、ミチルの視線と向き合おうとした木村を見つめて何を考えていたのか、と思考を巡らせる。 そのミチルに不審を覚えたのか、木村がいつもの縁のある眼鏡の奥で表情を顰めた。 「ミチルさん? 大丈夫ですか?」 「木村くん」 ミチルは自分の出した声を、自分のものでないように聴いた。 いったい、今自分を支配しているものは誰だろう。 表情にはうっすらと笑みすらある。 幼い心は崩れ落ちて、泣き叫ぶ力すらない。 暗い闇に包まれ、出口すら見つけられないでいる。 けれど、ミチルは声を出せるし笑みも作れる。 今、ミチルは誰なんだろう。 壊れかけた精神で自分に聞きながらも、ミチルの唇はミチルとは関係ないように開いた。 「ミチルさん?」 「木村くん、俺を、壊してくれないか」 耳に届いた自分の声に、どういう意味だろうと疑問に思うミチルがいた。 けれど、はっきりとそれを理解している自分もいる。 めちゃくちゃに、壊してしまいたい。 柘植のことで泣く、幼く弱い自分を潰してしまいたい。 投げ出したい。 どうなったっていい。 ミチルは、木村が言ったとおりに投げ出したくなったのだ。 硝子の心は、ミチルが手を離せばそのまま堕ちて割れる。 中身は、なにも無い。 ありはしない。 ミチルはいったい、なにを護ってきたのだろうか。 ミチルの思考はどこか霞がかかっていて、自分でですらその答えが見つけられない。 目の前に座ったままの木村の視線は動かなかった。なにを考えているかも解らない。 いや、ミチルはそんなこともどうだって良かった。 ミチルの言葉をどう受け止めようと、木村の気持ちなど考えてはいない。 受け入れようと、突き放そうと、ミチルは同じことだと思っていた。 今、ミチルの世界には誰もいないのだ。 踏み込まれても、そこにミチル本人すらいないのだ。 表情は薄く笑んだままで止まっている。 このまま朝までいても、ミチルは一ミリとも変わらないでいられただろう。 しかし、木村が動いた。 立ち上がり、座ったままのミチルの手を引く。 「ミチルさんの家、歩いていけますよね」 立ち上がらせて、歩くように促された。 ミチルは壊れたロボットのように、足を動かしただけだ。 家路は身体が覚えている。どこかぼんやりとしながら、いつもの道を通っていた。 隣に、木村がいることすらミチルはすでによく解らなくなっている。 ミチルの家は住宅街にある一軒屋だ。 広くない敷地に、猫の額ほどの庭。核家族程度が住めばもう何も入らないだろう部屋数。 これはミチルが受け継いだものだ。 もうミチルの側にはいない、母親から貰った唯一のものだった。 ここで、ミチルは小さな頃から一人で暮らしているのだ。 その事情は、あまり知られていない。 唯一一緒にいた相手は、もう隣にはいない。 その相手を考えても、ミチルには何の感動もなかった。 壊れた。 ミチルはそう思っただけだった。 壊されるまでもない。 もう、壊れてしまっているのだ。 ミチルは表情が変わることなく玄関の鍵を開けた。 ドアを開けて中に入ると、そのドアを閉めたのは一緒に入った木村だ。 木村を振り向いた瞬間に、ミチルは身体を壁に押し付けられた。 「・・・・っ」 どん、と背中に衝撃が走った瞬間に唇が塞がれた。 顎を掴まれ上に向けられて、絡めるのではなく貪る舌に、口腔を蹂躙された。 「・・・っ、ぅ、んっ・・・!」 思わず目を瞑った。 息が苦しくなって、溢れたどちらのものかも解らない唾液がその端から漏れて顎を伝っても、木村の唇は離れなかった。 顎を掴んだ手は、思ったより大きい。筋張った指が長い。 脂肪のない薄い手のひらからは、以前触れたときには想像も出来ないほどの力が溢れている。 もう片方の手で肩を押し付けられて、ミチルは動けなかった。 条件反射のように、細い手が木村の身体を押し返す。 苦しい。 ミチルが思うのは、それだけだ。 「・・・っは、ぁ・・っ」 漸く木村の唇から解放されたとき、それまで息を止めていたかのようにミチルは酸素を肺に入れた。 大きく胸を上下させ、咳き込むように呼吸を繰り返した。 脳みそに、酸素が回った感じだ。 そこでミチルの思考は一度クリアになった。 薄暗い家の中で、密室になった玄関で、ミチルは自分より大きな相手を見る。 年下のはずなのに、いつもより大きく見える男を視界に捉えた。 「・・・・・」 自分は何をした? 何を言った? 今、この男は何をした? ミチルの目ははっきりと怯えと後悔を見せていた。 壁に押し付けた背中に、すうっと何かが走る。壊れた頭が、どこか冷静さを取り戻す。 ミチルは静か過ぎる暗闇で、慣れた目に相手が見えた。 背は、柘植と同じくらい。けれど、柘植の身体はもう少しがっしりとして見える。 同じくらいのはずなのに、この相手のほうがひょろりとして見えた。 力など無いように見えた。 今の圧力は、この身体のどこから溢れたのだろう。 この男は、誰だ? |
to be continued...