恋愛シーソー 前半戦5 その時から、秋篠の態度は誰の目にも明白だった。 沢田が教室に戻ると、一番後ろに並んでいたはずの秋篠の机はそこにはなかった。 驚いて教室を見渡すと、教壇の前にその背中が見える。 代わりにその席にいた生徒が、沢田の隣にいた。 「・・・どういうことだよ?」 沢田の視線は秋篠ではなく、その罪もないクラスメイトに向けられた。 冷たいそれと、低い声。沢田は大人しい生徒ではない。 いつもつるむ友人も然る事ながら、喧嘩越しになろうと思えばどこまでも態度は悪くなった。 もともと、ひとつ年上なのは誰もが知るところで、その沢田と平然といられるのは秋篠くらいのものだったのである。 年下のクラスメイトはそれに脅えを見せながら、その秋篠が代わって欲しいと言ったのだ、と言う。 「前が――よく見えないから、代わってって言われて・・・」 沢田はその言葉を最後まで聞かなかった。 すぐに身体を動かしてまだ休憩中だと言うのに大人しく机に一人座る秋篠の前に屈みこむ。 「シノ!」 図書室で読んでいた本の続きだろうそれに、目を落としたまま目の前にいる沢田に秋篠はなんの反応も見せない。 「シノ! 俺が悪かった、マジで、何でもするから――」 その声に、秋篠は漸く視線を上げて、 「なら、二度と僕に話しかけないでください」 「――――」 声を失くした沢田に、秋篠はもう用はない、と再び視線を本に戻した。 それを見ていたクラスメイトたちがざわめいても、秋篠は一切反応を見せないままだった。 それから数日、沢田と秋篠の冷戦――秋篠の一方的なものだが――は瞬く間に校内に広まった。 詳しい事情を知らないまでも、秋篠のきっぱりした態度から沢田が余程酷いことをしたのだ、と周囲は口々に囃し立てる。 言われ放題になっているその状況で、秋篠は一切その話題には乗ってこないし沢田は沢田で誰よりも何よりも、マリアナ海溝よりも深く沈んでいたのだ。 放課後になって、さっさと帰ろうとする秋篠を引き止めたのは羽崎だ。 秋篠ははっきりと顔を顰めた。羽崎が何の用で引き止めたのかが解かったからだ。 「そんな顔すんなよ、言いたいことは解かるけどさぁ」 羽崎は苦笑して徐々に帰り始める秋篠のクラスのクラスメイト達を見送る。 秋篠も人前では話したくないのか、誰もいなくなるまで羽崎と向かい合わせに座り込んで黙り込んでいた。 「いい加減、鬱陶しいんだよな、あの人」 「どうして、羽崎が」 「だって昼休みに会うし、その間ずっと、誰が何を言っても落ち込みっぱなしで、本気でウザイ」 「なら、放っておけばいいだろ」 「放っておくけど、沢田さんは。でも、秋篠は?」 「・・・・僕?」 「秋篠は、ほっとけないだろ」 羽崎は顔を背けて小さく呟く。 「・・・・・数少ない俺の友達だしさぁ、」 いつも強がっている分、その言葉を口にするのは恥ずかしいのかその頬が染まっていた。 秋篠はそれに思わず苦笑して、 「僕は平気だよ、沢田さんが寧ろいないお蔭で、静かだし」 「ほんとに?」 確かに、秋篠は静寂を好む。対して沢田はお祭り好きだと口語するほど騒がしく、そして目立つ存在なのだ。 けれど羽崎はその目を正面から覗き込んで、 「本当に、沢田さん、いなくていいのか?」 「・・・・・なんで?」 「酷いことしたの、沢田さんだし、秋篠が怒っても仕方ないけどさぁ・・・でも、なんで嫌だったんだ?」 「え?」 「沢田さんとセックスするの、嫌だったんだろ?」 だから怒ってるんだろ、と羽崎は少し納得のいかない顔を見せる。 「い・・・やに、決まってるだろ? 男にされるなんて、僕は――」 「そうかな。少なくともお前は、沢田さん、好きだっただろ?」 「・・・・・・」 なんのオブラードもないままに、真正面から言われて秋篠は声が出なかった。 「俺にはそう見えたよ。そりゃ、どれくらい好きなのかって言われたら判断できないけど、でも押し倒されたら、抵抗しないくらいは、好きなんじゃないかな、って思ってたけど?」 首を傾げて覗き込む羽崎に、秋篠はようやく息を思い出したように深く溜息を吐いて、 「・・・・・本当、羽崎はよく人を見てるよなぁ・・・」 「見てるわけじゃないけど。秋篠は、付き合い長いしね」 「・・・・・うん、そうだよなぁ、羽崎を誤魔化せるとは、思ってない」 「じゃあ、」 苦笑して続けた秋篠に、羽崎は想像通りなのか、と少し喜色を見せた。 怒りが解ければ、また元通りになるのだろうか。秋篠の想いが、沢田に通じるのだろうか。 けれど、そう思った羽崎の感情はあっさりと崩された。 「悪いけど、だから・・・僕は、沢田さんを赦せないよ。いや、寧ろお互いのために、このままのほうがいいと思う」 「なんで?」 好きだけれど、強姦のように抱いた沢田が赦せないのだろうか。 羽崎は首を傾げて、そのまま固まった。 「沢田さんは――」 机の上で、秋篠の手が握られた。拳が白くなるほど、硬く強く、握られた。 感情を抑えるようにしても、表情は付いていかなかった。 笑おうとして、失敗したそれだ。 くしゃり、とした顔で、その目が潤んだのを羽崎は確かに見た。 「僕を好きなわけじゃない。してしまった罪悪感だけで、謝ろうとしているだけだし、落ち込んでいるのも自分のしたことの後悔のせいで僕の怒りのせいじゃない」 「あ、秋篠、」 「それでも、僕は――良かったんだ。僕を好きじゃなくても、ただ、その場の勢いで抱かれてしまっても。でも、誰かの代わりにされることだけは、どうしても我慢出来なかった」 「―――――」 溢れた涙が、秋篠の頬に落ちた。 口許は笑もうとして、震えながら声を出していた。 羽崎が思わずその肩に手を伸ばそうとするのを、少し身を捩って秋篠は避ける。 「・・・だから、今は、羽崎といるのも、本当は辛い」 「・・・・・え?」 「沢田さんが・・・あの日、抱いたのは羽崎なんだよ」 「な・・・・に?」 「あの人が好きなのは、僕じゃない。あの人が抱いたのは、僕じゃない」 羽崎はもう声もなかった。 動かなくなってしまった羽崎をそのままに、秋篠は静かに自分で零れた涙を拭き取って、もう何もなかったかのように立ち上がる。 「ごめん、しばらく、放っておいて」 その小さな声も、羽崎の頭をただ通り抜けて行った。 代わりに抱かれることだけは、嫌だと言った秋篠の言葉が耳に残る。 沢田が秋篠を抱きながら、きっと違う名前を口にしたに違いない。 羽崎は暫く一人で座り込んでいて、漸く動きだしたかと思えばそのまま走り出す。 迷うことなく校内を駆け抜けて、付いた先は通いなれた美術準備室だ。 放課後だというのに、何もなければここに集うことを羽崎はよく知っていたのだ。 バン、と安い扉を悲鳴をあげそうな勢いで開けて、その勢いのまま目当ての相手を睨む。 中にいたのは美術講師を含むいつものメンツだったけれど、思わず息を飲んでしまう迫力の羽崎に誰も何も言えなかった。 いきなり入ってきた羽崎の動向を見守っていたのに、羽崎は驚いている沢田を睨み付けて、そのまま胸倉を掴んで振り上げた拳を叩き付けた。 「・・・っ」 痛々しい音が響いて、そのまま沢田は床に崩れる。 止める間もないまま顔を思い切り殴られて、ただ呆然としていた。 周囲もその突然の行動に驚きを通り越して呆気に取られてしまう。 感情のままに沢田を殴った羽崎が、ようやく落ち着いたのか荒い呼吸を繰り返して、 「サイアク・・・っあんた、秋篠を誰の代わりにやったって?!」 その怒鳴り声で沢田は確信した。 やはり、自分は秋篠以外の名前を口にしていたのだ。 唇が覚えていたのは、目の前で怒りを隠さない羽崎の名前だ。 思い出そうとしても、もう記憶には残っていないのかもしれない。 沢田はどうしてもあの夜のことが思い出せなかった。 どんなふうに、秋篠を抱いたのだろう。 あんなに酷い痕が残るほど押さえつけて、確かにそれは強姦に違いなかったのだろう。 そのうえに違う相手を求めた。 沢田は羽崎が好きだったのだろうか。 今更になって、自分の気持ちに揺らぎを覚える。 羽崎が川杉と一緒にいて、良かったのだ、と本当に心から思っている。 けれど秋篠にしたことは、紛れもない事実なのだった。 「一人で勝手に落ち込む前に、悪いと思うなら二度と秋篠の前に顔見せんな!」 酷いことをしたのだ。 覚えていない沢田に、一度は秋篠はなかったことにしよう、とまでしてくれた。 それを受け入れなかったのは沢田自身だ。 怒り狂う羽崎の言葉で、先に事情を聞いていた菊池だけが顔色を変えて沢田を見るけれど、それも顔を背けて受け入れなかった。 「・・・わり、帰る」 沢田はそう言えただけで、口の中に鉄の味が広がることも気にならず身体を起こして準備室を後にした。 背中に友人達の視線を感じても、振り返ることは出来なかった。 |
to be continued...