恋愛シーソー 前半戦6 秋篠は深く、溜息を吐いた。 自分の部屋のベッドの上に、クッションを抱いて座りその上に本を開いていた。 それが、秋篠の一番落ち着く場所だったのだ。 土曜になって、母親は秋篠の昼食の用意だけするといそいそと父親の元に行ってしまった。 仲のいいことだな、と秋篠はいつものようにそれを見送ったけれど、用意された食事に手を付ける気にならない。 どこか沈んでいる自分を盛り上げようと、楽しみにしていた本を開くけれど目が活字を追ってくれない。 零れるのは溜息ばかりだ。 自分で決めたことなのに、と秋篠は心の弱さに呆れた。 言わなければ良かった、とやはり後悔する。 自分を傷つけるだけの事実は、胸に閉まっておくべきだったのだ。 あの放課後、羽崎に言ってしまった事実。 丁度一週間前の出来事を、昨日のように秋篠は思い出してしまう。 散らかった部屋を片付けて、ベッドの上ですでに眠りに落ちそうな沢田に帰ることを告げた。 その瞬間に腕を取られて、気付けばベッドの上で沢田を見上げていたのだ。 そのまま顔を寄せられて、唇を重ねられても秋篠は何もしなかった。 初めてだった口付けは、ただ息苦しく思ったけれどそれでも構わない、とどこか期待をしていた。 その唇が、明確な言葉を秋篠の耳にするまで、本当に抵抗と言うものはしなかったのだ。 「頼む、羽崎――いっかい、だけ、」 辛い心を吐露するような、微かな囁き。 秋篠の身体を駆け抜けたのは、絶望を感じる衝動だけだ。 そこから必死に抵抗を始めたけれど、決して沢田は受け入れてくれなかった。 漸く一週間が経って、秋篠は身体の痛みを失くしかけた。 翌日は一層酷く身体が軋んだし、月曜日も学校に行くことが辛かった。 沢田を受け入れた場所が座るたびに痛みを覚えたし、左腕の痣は薄くはなっていてもまだ消えはしない。 もともと痣の付きやすい体質だったけれど、あれほどきつく掴まれたのは初めてだった。 こんなにも残るものなんだな、と長い袖口から覗く手首を見て秋篠はまた溜息を吐く。 沢田が、学校に来なくなった。 羽崎に打ち明けてから、その翌日から、だ。 羽崎の性格からして、そのまま黙っていることなど出来ないはずだ。 きっと沢田にそれを罵りに行ったに違いない。 合わせる顔がないだろう、と秋篠はもう一度溜息を吐く。 自分が最低なことをしたと、もっと落ち込んでいるはずだ。 このまま、秋篠の前から消えてしまえばいいのだ。 それを秋篠も望んでいたはずで、この展開は何よりも満足するはずなのだ。 けれど、さっきから溜息が途切れない。 「・・・・馬鹿だよなぁ」 自分に呟いた。 自分で決めたことに、こんなにも後悔している。 あの時に逃げ出したりしないで、そのまま責任を取れ、と沢田に詰め寄っても良かったのだ。 きっと沢田は、秋篠の気が済むまで責任を取ってくれるだろう。 ポタリ、と雫が本に落ちたことで、秋篠は自分が泣いているのだと気付いた。 「・・・欲しくない」 要らないのだ。 同情で傍にいてくれるのなら、初めから嫌われたほうがましだ。 羽崎の強さを、改めて実感した。 強がって平気なふりが、どれほど辛いのか今なら解かる。 欲しくないと言いながら、それでも良いから欲しいと弱い自分が泣いている。 強がって意地を張って、誰かに助けて欲しいと泣いている。 弱虫、と自分を罵りながらクッションに顔を押し付けた。 部屋にチャイムが響いたのはその時だった。 誰かが訪れることは滅多にない。 母親が忘れ物でもして帰ってきたのだろうか、と秋篠は目を擦って玄関に急ぐ。 「母さん? 忘れ物?」 相手も確認せずドアを開けて、そしてそのまま固まってしまった。 そこに、沢田が立っていたのだ。 「お前な、ちゃんと相手を確かめてから開けろよ。無用心だぞ」 外に立っていた沢田が、眉を顰めて秋篠を見下ろしていた。 ドアを開けた秋篠は、それを聞いてもただ驚いて声も出ない。 「シノ?」 顔を覗き込まれて、漸く息を吹き返したようにビクリ、と身体を揺らす。 そのままドアを閉めようとして、沢田が手でそれを押さえた。 「ちょっと待て、閉めるな!」 「・・・・なんですか」 無用心だと言いながら、閉めるなとドアを止める沢田にどうすればいいのか解からなくて、ぶっきら棒な声になってしまった。 「いや、俺に会いたくないのは解かるけどさ、ちょっとだけ、聞いて欲しいんだよ。聞いてくれたら、もうそれで終わるから」 終わる、と言う言葉を聞いて秋篠は止ってしまった。 終わるとは、どういう意味の終了なのだろう。 また沢田の弁解だけを聞いて、それで終わりなのだろうか。 沢田は自分の気持ちを言ってしまえば、それですっきりと終わるつもりなのだろうか。 秋篠の言うとおりにもう会うこともなく、何の関係もないまま終わるのだろうか。 秋篠が固まったまま思考をグルグルさせている間に、沢田はその沈黙を良いように取って口を開いた。 「とりあえず―――ごめん。本当に、悪かった。謝って済むもんじゃないのかもしれないけど、まず謝らせてもらえないと先に進まない」 「・・・・・」 「そんで、ここんとこ、俺学校もバイトも休んでずっと考えてたんだけど、」 「・・・・え?」 「シノのこと。ずっと考えててさ、」 「・・・え?」 声に誘われるように目を上げれば、沢田は何の迷いもなく真直ぐに秋篠を見ていた。 「俺、シノのこと好きだよ」 スキダヨ? 秋篠は言われた台詞をそのまま頭の中で繰り返し、その意味を考えた。 好きだ、と言われて、一瞬沸騰しかけた頭が冷水を浴びたように冷めて、視線もきつくなる。 「は? いきなりなんですか?」 そんなことを言われて、秋篠がどうなると言うのだろう。 秋篠自身も、もともと嫌われてなかったことくらいの自覚はあったのだ。 「いや、好きだから、友達としてとかじゃなく、本気で」 「はい?」 「だから、付き合って欲しいんだけど」 「・・・・・・はぁ?」 秋篠の声も顔も、本当に訝しんで沢田の頭を疑ったものになっていたはずだ。 けれど沢田はその反応は想定内だったのか、 「うん、本当にさぁ・・・どういう神経してんだろって自分でも思うけど。あんなことしておいて、今更だし」 「・・・あんなことって、覚えてないんでしょう」 「・・・・ごめん、正直、覚えてない」 「なら、どうして――別に僕は、責任を取って欲しいなんて女の子のようなことは言いませんけど?!」 「いや、あの責任は責任で、別に取るとして、」 「別に?!」 「それはおいといて、どうも俺、シノのこと好きみたいだから」 「――――」 「ここんとこ、ずっと考えて、やっぱりそれしか出てこなかった。シノに嫌われると、マジで辛い。本気で死にそう。だから、俺と付き合って」 「――――――――」 秋篠は思考が完全に停止したようだった。 今まで一人で鬱々と考え込んでいたことが全て吹き飛ぶほど、驚いたのだ。 沢田の思考がトレースできない。 どうしたらそんな結論が出てくるのだろう。 しかも秋篠の意思を無視して、どこまで勝手に話を進めてゆくのだろう。 「シノ?」 硬直したように止ってしまった秋篠を、沢田が首を傾げて覗き込む。 至近距離に来たそれに慌てて、 「ま・・・っ待ってください! だ、だって、沢田さんは羽崎が好きなんでしょう?!」 「いや? 別に?」 「べ・・・っ別にって、どういうことですか! あのときあんなに、羽崎に――」 「うーん? したかったんじゃねぇかな? ただたんに」 「し、たかった・・・・って!」 ここまで来れば傲慢振りも堂々としすぎていて、どこを責めればいいのか解からなくなってしまう。 「そんな、そんなの・・・っそんなことで、僕は・・・っ」 「いやもう、そのことはさぁ、忘れないか?」 「忘れられるはずないでしょう!」 「そうか? シノ、俺が嫌いかな」 「き・・・っ嫌いです!」 「俺は好き」 「す・・・っ」 間近に目を覗き込んで言われて、秋篠は声を失くしてしまった。 顔が熱い。 きっと真っ赤になっている。 どうしようもなく素直な秋篠の心が、二つの想いで溢れて頭が沸騰しそうだった。 嬉しいと感じてしまう弱い心と、ふざけるなと怒鳴りつけたい強がりの心が。 両方で揺れて、秋篠の心臓を爆発させる。 羞恥と憤怒、それから呆れてもいる今の感情で、まともに声が出ない。 どうすれば良いのか困惑しきっているところに、沢田が笑った。 「だから、俺これからシノに片思いするから」 「・・・・・はい?」 「シノに振り向いてもらえるように、ガンガンに押しまくるから、よろしく」 「・・・・・・はいぃ?」 もう沢田の考えに付いていけそうもない秋篠がただ動揺していると、大きな掌が秋篠の頭を撫でる。 あんなに痣になるほどに掴まれたのと同じ手だというのに、不思議と怖さはなかった。 柔らかな髪の毛を確かめるように撫でられて、 「だから、いつか俺のこと好きになって振り向いてくれよ」 「―――――」 真っ赤な顔のまま、口を開閉させた。 それは、どういう意味なのだろう。 秋篠の返事はどうでもいいのか、沢田は言いたいことだけ言ってしまうと自分の時計を確認して、 「あ、やべ、これからまたバイトなんだよ。また後でメールするから、気が向いたら答えてくれ」 「・・・な、なん、で、」 「シノのこと、好きだからだって、な?」 沢田は頭を撫でていた手で秋篠の前髪をかき上げて、止める間もなく、とても自然な仕草でそこに唇を落とした。 「――――っ!」 身体を硬直させたまま後ろに引いた秋篠に、沢田は何を言うでもなくにっこりと笑って、 「じゃな」 固まって真っ赤になって、声も出なくなった秋篠をそのままに玄関の向こうに消えた。 そのにこやかな笑顔からは、数日前の落ち込みようなど全く想像も付かないほどだ。 沢田の中で何かが変化して、そして決まって出た行動なのだろう。 それに揺らぎはない。 秋篠はただ急な展開についていけず、まず心臓が壊れる、と倒れそうな身体を必死に堪えていた。 自分の思考を落ち着けることに必死で、そのドアの向こうで一生分の勇気を振り絞った沢田が同じように心臓を抑えて真っ赤になっていることなど、気付くことはなかった――― |
to be continued...