恋愛シーソー 前半戦3





秋篠紡(あきしのつむぐ)は沢田の同級生でクラスメイトだ。
一年から同級生だったわけではない。
沢田が三年に進級できなかったため、今年同級生になってしまったのだ。
面倒くさそうに二年の教室に再び入った沢田が、最初に言葉を交わしたのが秋篠だった。
秋篠はどこか線の細さを見せながら、その内面はとても強い人間だった。
先輩だった沢田にある程度の礼儀を弁えながら、決して留年していることを嘲たりあからさまに自分と同じ目線でものを言わない出来た人間だ。
中身を見て、さらに見目も美人だ、と評される秋篠に沢田は一気に興味が湧いた。
沢田が留年した理由は明快だ。出席日数が足りなかったのだ。
沢田の趣味はバイトで、周囲が呆れるほどバイトに精を出し、そのお蔭で学業が疎かになっていた。
真面目に座って授業を受けるよりも、働くことのほうが性に合っているのだ、と自他共に認めるところだった。
留年しようとも懲りずに学校をサボりがちな沢田に、秋篠は周囲をほっとさせるような笑顔で手を差し伸べる。
要提出の課題を手伝ったり、テストのためにノートをちゃんと写させてくれる。
どうして沢田に親切にするのかは解からないが、沢田のどちらかと言えば性質の悪い友人たちにも「良い子だ」と言われるほど秋篠の評判は良かった。
沢田の背中に冷や汗が流れて、ゴクリ、と喉が鳴る。
脳裏に浮かぶ最悪な状況。
まさかそんな相手を自分は、と思っていると菊池も容赦なく、
「お前・・・まさか秋篠くんをヤったんじゃねぇだろうな?」
その視線は世界中の非難を代わって言ってやるぞ、と意気込んだものだった。
沢田も一層落ち着かなくなって、
「まさか・・・ああ、うん、でも、昨日確かに、シノを呼んだ。家が近いんだよ、あいつ・・・で、呼び出した気がする」
秋篠の愛称はシノだ。
けれど、そう呼ぶのは沢田だけだった。他の誰がそう呼ぼうとしても、沢田が決して許さない。
どちらでも良いように笑う秋篠に、沢田は誰からも手も触れさせないように側に置いていた。
それほど、お気に入りだったのだ。
まさか、でも、と沢田はない記憶を探って出口のない思考を渦巻かせていると、また菊池は何の問題もないかのように、
「電話してみりゃいいだろ」
「・・・・あ?」
「秋篠くんに、昨日自分と寝ましたかって、訊けばいいんだろうが」
「お前、そんな簡単に――」
事実が秋篠だったとしても、どうしていなくなったのだろう。
沢田はまた悩みそうだったけれど、訊けば解かる答えがあるのだ。
仕方なく自分も携帯を取りだしてアドレスにあった秋篠を呼び出す。
緊張の面持ちで耳に当てたコール音を聞いていたけれど、それが途切れた向こうから聞こえて来た声はいつもと変わらなかった。
「はい、沢田さん?」
番号通知で解かったのか、いつもと同じ声が耳に届く。
「あ・・・・シノ?」
「はい、そうですよ? どうしたんですか?」
「あー・・・うん、」
あまりに変わりない声で聞き返されて、沢田はかなり拍子抜けをした。
戸惑ったけれど、しかし結局素直に口を開くことを決めて、
「昨日さ、悪かったな? 俺呼び出したろ、あんな飲み会に・・・」
「ああ、大丈夫ですよ? 楽しかったです」
「そうか? マジで、悪いんだけどさぁ・・・俺あんまり覚えてないんだよな、シノが、最後に帰ったのか?」
「はい、皆さん終電があるので先に帰られて・・・僕は平気だったので勝手だとは思ったのですが、少し片付けさせてもらいました。その、沢田さんに訊こうとも・・・沢田さん、半分寝てましたので」
「ああ! やっぱり、片してくれたのシノだったのか? 悪い、サンキュな、すげ部屋綺麗だった」
「いえ・・・ゴミを別けただけです」
「それで・・・・・その後、だけど、」
「・・・・沢田さん、覚えてないんですか?」
「・・・・え?」
覚えていない。
その事実に沢田は息を飲んでしまう。耳から聞こえる声だけに、神経が集中してしまった。
「僕が帰る頃に、沢田さんの携帯に誰かからかかってきて・・・その誰かがこられるようでしたので、僕、そのまま帰ったんですけど」
「・・・・・・はい?」
「僕、鍵も開けて帰ったんですよね、大丈夫だったですか?」
「だ、誰かって、誰? 俺に?」
「誰とは・・・僕は会わずに先に帰りましたから・・・」
「そ・・・・そうなん、だ?」
隣で見ていた菊池がどうしたんだ、と思うほど、そのとき沢田は落胆を見せていた。
はっきりと肩を落として、声も心なしか暗い。
しかしそのままお礼をどうにか口にして沢田は携帯を切り、盛大に溜息を吐き出した。
「・・・どうした?」
「・・・シノじゃない・・・その後で、俺誰かと会ってるみたい・・・」
「誰って、誰だよ?」
「さぁ・・・電話かかってきたってことは、知り合いだろうけど・・・あ、なんだこれ」
沢田は自分の携帯を検索して着歴を確認する。
最後にかかってきた相手の番号を見ようとしたが、そこに表示されたのは「非通知」の冷たい文字だった。
もう一度吐いた溜息は、まるで魂が抜けているようなそれだった。
これで、手がかりはなくなってしまったのだ。
「まぁ、別にいいんじゃねぇの? 誰かが迷惑したってんでもないだろうし、もしお前が強姦したんでも、被害者は黙ってるってのはそれで納得してるからだろうし、してなきゃそのうちなんか言ってくるだろ」
菊池のその解決にならない言葉は、どこも否定できない事実だった。



月曜日は梅雨らしく、じっとりとした雨だった。
始業ギリギリの、いつもの時間に教室に入った沢田はそこで秋篠と目が合う。
「・・・お早うございます」
いつもの笑顔の挨拶に、沢田はどこかホッとした。
一番後ろの席に並べた秋篠の隣の自分の椅子に座り、
「おはよ、シノ」
「数学の課題、やってきました?」
「え・・・出てたっけ?」
「出てましたよ、沢田さん、当たりますよ」
「やっべ、全然してねぇ・・・シノ」
「はい、どうぞ・・・いいですよ」
隣から当たり前のように差し出されたノートに沢田は嬉しくなって笑みを浮かべる。
「サンキュ、・・・って、お前、暑くねぇの?」
雨が降っているとはいえ梅雨である。
窓を開け放してもこの蒸し暑さは変わらない教室で、学校指定のポロシャツか半袖のシャツを着るクラスメイトの中、秋篠はそのシャツの下に長い袖のTシャツを着込んでいた。
淡いクリーム色のそれは、肌色よりやはり目立つ。
秋篠は自分の格好を見て、
「ああ、朝なんとなく肌寒かったんですよね・・・大丈夫です、暑くなったら脱ぎますから」
「そうか?」
沢田はそれで会話を終わらせた。
いつもの笑顔の秋篠に、それ以上の変化は見えなかったからだ。
そのシャツの下がどうなっているのかも、未だ軋むような身体を必死に普通に見せかけていることも、気付くことはなかった。
昼休みになって、沢田は購買でパンを買い込んで美術準備室に向かう。
なにもないときはそこで三年になってしまった友人達と昼食を取るのが、ほぼ日課だった。
引き戸の向こうはすでに声が聴こえて、いつものメンツが集まっているのだろう、と知れる。
何も思わずそのドアを開けると、
「お! 沢田くんのご登場だぜ」
「沢田くーん、土曜の夜はどうだった?」
「忘れられない夜どころか覚えてもいられない夜だったんだろ?」
ゲラゲラと笑いながら悪友に囃し立てられて、沢田はその中にニヤニヤと顔を緩める菊池を見つけ、
「この・・・・っハル!! てめバラしやがったな?!」
「言うなとは言われてねぇもん」
「もん、じゃねぇ!」
周囲を蹴散らす勢いで沢田は中に入り込み、勢いのまま二人並んでいたソファに詰め入る。
「ばっかだな、お前せっかくヤったのに忘れるってどういう頭だよ?」
「しかも相手には逃げられて?」
「今年の馬鹿王はお前に決定だな」
「うるさいうるさい!!」
放っておいてくれ、といくら叫んでも聞き入れてもらえるはずはない。
反対の立場なら、沢田も多いに騒いで突付いて遊んだはずだからだ。
「お前本当に、覚えてねぇの?」
「電話って誰からだったわけ?」
「・・・知らねぇよ、メモリは非通知だし、シノは会わずに帰ったってゆうし」
「まぁ、秋篠くんじゃないだけ良かったな」
「そうだよなぁ・・・あの子だったら、今頃お前は簀巻きだね、俺らに」
「・・・・お前らにそんなことされる筋合いねぇだろ・・・」
秋篠の人気の高さに沢田は不愉快さを覚えながら、自分でも本当に良かった、と思っているので強くは返せない。
その隣で、川杉の隣に羽崎が座っていたのに気付く。
沢田と目が合ったのを気に、羽崎は手を出して、
「沢田さん、その携帯見せて」
「ん? いいけど?」
「秋篠、何時に帰ったって? あのあと片付けしてくれたんじゃないの?」
「そうそう、部屋が綺麗になっててさぁ・・・お前らが帰ってすぐって言ってたから、12時くらいじゃねぇ?」
「ふぅん・・・」
羽崎は沢田の携帯を少し弄っただけですぐに戻して、
「じゃ、俺もう帰るから」
川杉に、と言うより部屋全体を見渡して立ち上がった。
昼休みはまだ始まったばかりで、羽崎は自分の昼食も途中だ。
食べかけのパンを持って独特の匂いのする準備室を出ようとする。
「え? なんで?」
周囲の視線は同様に不思議そうだったけれど、羽崎はそれをあっさりと受け流して、
「用事思い出したから、お先」
さっさとドアの向こうに消えた。


to be continued...



BACK  ・  INDEX  ・  NEXT