ラブレター  4




   『先輩を想うだけで、手が震える。
    自分が自分じゃないみたいに、壊れてしまう。
    あの腕の中で、溶けてしまいたいと願ったけれど、
    それが許されることではないとちゃんと知っている。
    それでも願った僕は、
    やはり許されなくて、
    もう謝ることも、赦され方も解らなくて、
    それでも気持ちだけは抑えられない。
    一度だけで、
    たった一回だけでも良かった。
    同じ部屋に居られるだけで充分だったはずなのに。
    同じ空間で、その声を、姿を、独占してしまうだけで良かったのに、
    僕はどんどん欲だけが増えて、
    視線の先に、僕が居ないことが怖くて、
    悲しくて、
    無理やり割り込んでみたけれど、
    本当に映っていないことを知るのが怖くて、僕はまた、
    逃げることしか出来ず。
    臆病ものの僕を、
    どうか僕に、もう一度だけ、
    勇気を下さい』



これは、するのもされるのもまだ勢いが欲しい多感なお年頃、人の一挙手一投足に一喜一憂する不安定な臆病者。
しかし人生の決断のときはあるのだ、と成長を見せる男の、恋の物語である。



バン、と許可も得ず勢いで元資料室の扉を開けたとき、校内中に響く声はまだ流れていた。
それをBGMに綾部は校内を走り、肩で息をしつつ代筆部、と書かれた部室に駆け込む。
室内には、やはり予想通りに生徒が一人居るだけで、いきなり入ってきた綾部に少し驚きながらも拒絶することはなかった。
まるで綾部が来ることを知っていたのか、望んでいたような黒蜜は、その表情に少しだけ憂いを含ませて、困惑した視線を綾部から外した。
まだスピーカーからの声は流れて、「手紙」は続いていて、部室に落ちた沈黙をそれが掻き消す。
   『温かかった腕は、もう他の誰かのものですか?
    もう一度、その熱だけを強請ることも、無理ですか?
    想いが届かなくても、
    受け入れられなくても、
    僕はどうしても、それが欲しくて、』
数メートルもない距離で、見詰め合っているだけで、お互いに声はない。
しかし綾部には相手の気持ちが、黒蜜の感情が流れ込んでくるように耳からの声と視界を埋める姿に意識を奪われてしまっていた。
   『思い出して願うたびに、僕は身体が抑えられなくて、・・・・え?』
まったく声の調子を変えることもなく流れていた美声が、突然そこで不自然に止められて、耳を澄ませていた誰もが驚いてスピーカーを見上げたとき、
   『・・・ガガ、ガッ! バン!』
何かが割り込んできたような音の直後で、
   『・・・ってめ、杉本! お前なにエロ文読んでんだっ!』
   『・・・エロ文? 僕は、手紙を朗読していただけで――』
   『阿呆か! そんな声でそんなもん読んで他の野郎に聞かせんなっ!』
   『・・・どういう意味ですか?』
   『どーもこーもねぇだろ! ッコラ放送部ッ! なにこんなもん読ませて――』
ブツリ、とそこでスピーカーから校内中に響いた抗議の怒鳴り声は切られた。
「・・・・・・」
綾部は知らないわけではない怒鳴り込んできた男を思い出し、いきなりこの雰囲気を壊したことに溜息を吐いた。
どうやら見苦しくもある男の嫉妬を放送部はそれ以上流すことはしないのか、静かになった二人きりの部室で先に口を開いたのは黒蜜だった。
「・・・エロ文・・・」
「え?」
呟いた黒蜜を見ると、その綺麗な顔にくっきりと皺を寄せて唇を尖らせていた。
「僕は・・・やっぱり、手紙も満足に書けない・・・」
「な、なに?」
「・・・せめて、気持ちだけ伝えようと思って・・・必死に書いたのに、エロ文と言われてしまいました」
情けない、と自分に落ち込む黒蜜に、綾部はどう反応していいのか一瞬躊躇ってしまった。
確かに、そう罵った言葉も理解できないわけではないが、綾部としてはこれ以上にない嬉しいものだったのだ。
しかし、心情は複雑だった。
「その・・・あれが――お前の、気持ちだって、言うのなら・・・」
「・・・はい?」
「嬉しくないはずないし、俺なんかのより、よっぽど凄い・・・恋文、だと思う」
「・・・先輩」
「だけど・・・その、出来れば、俺以外に、聞かせたくなかった・・・けど、」
「え?」
「その・・・つまらん、嫉妬って言うか、お前の気持ちを、てかお前の全部、何もかも、他の誰にも教えたくなかったって言うか・・・」
心狭いな、と綾部は自分に落ち込んだ。
「先輩・・・」
気遣うように声をかけられて、綾部は俯かせた視線を真っ直ぐに向けた。
ほんの1メートル先に居る黒蜜は、どうあっても綺麗なままだった。
このまま引き寄せて、あの手紙の通りに抱きしめて溶かしてしまいたい。
そう衝動がこみ上げるのを必死に耐えて、拳が白くなるほど力を込めた。
「意味が」
「え?」
「お前の・・・意味が、解からなくて」
「・・・僕の?」
「俺は・・・遊ばれてるのか? 確かに、お前のことで、一喜一憂して、どうしようもない男だけど・・・傷つけられたら、ちゃんと、傷つく」
黒蜜の表情ははっきりと分かった。
ただそこに立っているのではなく、何かのきっかけさえあればそこに崩れ落ちそうなほど蒼白で、硬直していたのだ。
震える唇を開き、しかし声が出ないのか赤い舌が覗く。
声が出ないことに自分で焦れたのか、何度も小さく首を振った。
「・・・っな、こと・・・そん、な、こと・・・っ」
肩が震えて、本当に倒れそうな黒蜜を見れば、本心は今の全校に聴かれた手紙の通りなのだ、と思うけれど、綾部はしかし先日のきっぱりとした態度も確かに覚えていて、その身体を支える手を伸ばせない。
「あの日、付き合ってないって言われて・・・俺がどれだけ辛かったか、お前知ってる?」
「・・・・・っ」
「確かに有頂天になった俺も悪いけど、お前が・・・確かに、お前が、この手に居るんだって、思ったのは俺の勘違いだった?」
「・・・・そん、な、」
「俺はお前のこと――本気で、好きなんだけど」
「――――ッ」
綾部が真っ直ぐに見詰めて言った告白を受けて、黒蜜の反応は早かった。
倒れるきっかけを与えられたように、その場に足もとから崩れて落ちたのだ。
「黒蜜!」
慌てた綾部に引き寄せられるようにして、どうにか頭を打つことはなかったけれどお互い床に座り込み、綾部の腕の中に黒蜜は納められた。
「大丈夫か? 体調、悪い・・・」
蒼白な顔と、震える身体はそのせいなのか、と綾部が顔を覗き込み、言葉を止めた。
そこにあったのは、泣き顔だったのだ。
しかも必死に涙を零さまい、と顔の歪んだ、どちらかと言えばあまり綺麗な泣き顔ではなかった。
 ――こんな、顔に、
背筋がぞっとするほど、欲情してしまった。
綾部は高揚する自分の感情を必死に抑え込んで、その震える唇が開くのをじっと見つめた。
「・・・ぼ、くは、ほんとに、臆病で・・・卑怯で、ずるくて、弱い」
「え?」
「ごめんなさい」
「・・・・え?」
掠れた黒蜜の声に、綾部はまた振られたのか、と一瞬目の前が暗くなったけれど、黒蜜がそれを消し去る様に手を伸ばして綾部に触れる。
「先輩は、何も言わなかったから、しんじ、られなくて・・・僕が、舞い上がってるだけなら・・・辛い、と思って」
「・・・黒蜜?」
「好きです」
「・・・・っ」
突然の言葉に、綾部は息を飲んだ。
しかし、後に何かが続くのかと思って警戒してその唇を見つめる。
けれど待っていた言葉はなかった。
代わりに、涙で潤みながらも真っ直ぐな視線が黒蜜から注がれて、
「先輩が、好きです」
下駄箱に入れたものは、一世一代の賭けだった。
黒蜜は悩んだ末にした自分の行動に、綾部の行動に、何よりも誰かに感謝した。
綾部がこの部室を訪れた時の感激を、他のなににも例えられないと呟く。
「お、まえ・・・っ」
「先輩・・・先輩、こんな、こんな僕ですけど、もう一度だけ、その腕に、抱いてください」
「黒蜜・・・っ」
かあっと全身が熱くなったのが、黒蜜に伝わればいい、と綾部は力いっぱい細い身体を抱きしめた。
「お前・・・っお前、自分で、何言ってるか、」
どんな告白をしているのか、自覚があるのか、と綾部は問いただしたかった。
黒蜜は背中が軋もうとも、腕に抱かれたことに浸って、綾部の背に手を回し泣き顔を肩に押しつける。
「先輩・・・お願い先輩、もう一度、ちゃんと、告白させて、ください」
例え振られてしまっても、好きだと想いを伝えたい。
綾部は脳みそが沸騰しそうだ、と目が眩んだ。
それを誤魔化すのに、深く溜息を吐いて腕の中の存在を確かめるように抱き直した。
「そんなこと・・・っ俺だって、言いたい」
「・・・・え?」
「お前を好きだって、何回だって言いたい」
「・・・・・・」
顔を上げた黒蜜の顔は、涙も止まったほど驚いていて、瞬きを繰り返し間近の綾部を見詰めた。
その視線が絡んで、引き寄せられるようにお互いの顔が近付く。
唇が触れる直前で、先に黒蜜の吐息が零れた。
「・・・先輩、好きです」
それにどうしようもない、と綾部は顔を綻ばせて、
「・・・俺も、好きだよ」
言葉を吸い取るようにゆっくりと唇を重ねた。



これは、優柔不断で譲り精神が強いと言うより、先に言える強さがない弱い男が、初めて堕ちた恋に、人生を懸けた恋愛物語である。


fin



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