ラブレター  3




ニヤニヤとなる顔を、綾部はどうしても直せなかった。
それに訝しむより、怪しい人間を見るように見てきたのはクラスメイトの緑川だ。
「お前・・・脳みそやられたのか?」
とうとう腐ったか、と呆れられて、しかし綾部は全く応えなかった。
昨日の放課後から、綾部は気持ちが天を浮いているようにふわふわとしていて、そのまま戻ってこなくなったようなのだ。
それものそのはずで、あのまま綺麗な黒蜜を腕に抱き、抱擁を続けてしまったからなのだ。
黒蜜の言葉の全てが耳に心地よく、最後に繋がれた手を放したくない、といつまででも繋いでいたかった。
「お前、最近代筆屋のとこ入り浸ってるみだいだけどさー、その子となんか・・・」
緑川のセリフに、綾部は一層しまりのない顔になってしまった。
今この手に、その感触が戻ってくるはずもないのに、その手を見つめてうっとりとしてしまったのだ。
その仕草で理解したのは情報が早く理解も早い緑川で、驚愕に目を見開きそして、
「・・・まじかぁ?!」
端から端まで響くような声で叫んでしまった。
そのどよめきに、いったい何事だ、と問い詰められても綾部は上機嫌のままだった。
それほど、黒蜜の言葉は甘く嬉しいものだった、と綾部は昨日のことを反芻してしまっていた。



これは、初めてのキスは中三。そのドキドキはまだ胸に残しつつ、彼女の分だけが抱いた数。
多くもなく少なくもなく、色事に興味もありながら実際起ると動揺を隠せない男の、恋の試練である。



綾部と黒蜜の話題はあっという間に校内を駆け巡った。
つい先日、この学校は公認の仲となった二人がいたのだが、その話題も攫うように広がったのだ。
その理由は、代筆屋として知られていた黒蜜が密かに人気が高かったことに他ならないのだが、誰からも憎めない存在である綾部が相手と言うのがまたそれに拍車をかけた。
放課後になって、綾部は昨日の甘い雰囲気を思い出して顔がにやけるのを必死に抑え込みつつ代筆部の部室の扉を開けた。
「くろみ・・・・・・つ?」
綺麗で可愛くて、昨日はずっとこの腕の中に入れておきたい、と願った相手を呼びつつ足を踏み入れ、身体を止めた。
ギクリ、と緊張してしまったのは、やはり一人でそこにいた黒蜜の表情のせいだ。
「ど・・・どうした?」
一番奥の壁に立ち、黒蜜は綺麗な双眸で綾部を睨んでいたのだ。
壮麗な黒蜜がその目に力を込めれば、静かに空気の温度を上げているようで、昨日の表情を思い出していた綾部には驚くしかない。
「先輩・・・」
唇を小さく開いて、しかし聞こえてきたのはやはり怒っているような低い声だ。
「あんな噂を、どうして流したりしたんですか」
「え・・・っ」
あんな噂、とは今日一日校内のそこここで言われていた綾部と黒蜜のことに違いない。
綾部はこれで、黒蜜に勝手に手を出す人間がいない、と確信して安堵もしていたほどなのだが、
「ど、どうしてって・・・」
正確には流したのではなく、新聞部の友人にバレたのだが。
綾部は黒蜜が怒っているのは確かだ、と判断して、
「わ・・・悪い、駄目だ、ったのか・・・?」
「駄目って・・・そんな、」
その目に怒りを込めていた黒蜜は綾部から視線をずらし、綺麗な顔に皺を寄せて俯いた。
「付き合っているわけでも、ないのに」
「・・・・・・・・」
綾部は目の前の黒蜜が見えなくなった。
いや、目の前が真っ暗になっていったいどういうことだ、と混乱してしまったのだ。
 ――あれ・・・ってか、昨日の、あれは?! 俺、告白されたって思ってたんだけど・・・っ
大きな勘違いをしたのだろうか、と綾部は背中がざあっと凍った。
さっきまでの何もかもを蕩けさせるような雰囲気は幻か、と思うほど綾部は顔も青ざめていた。
黒蜜は俯いたままで、そんな綾部には気づかないように視線を上げない。
艶のある黒蜜の髪が流れて、表情が隠れるのを綾部はじっと見つめてゆっくりと気持ちを落ち着ける。
 ――勘違い・・・なんだ?
昨日はしっかりと腕に抱いて、こんなに胸がドキドキしたことはない、と言うくらい緊張したのだけれど、それもあの時はただ盛り上がった気分だったのだろうか。
綾部は一度深く息を吐き出して、声がきつくならないように必死で冷静さを保った。
「・・・そう、か・・・ごめん、俺が、勘違い、したみたいで」
それでも声が震えそうで、ひとつひとつ言葉を区切って呟く。
「勘違いって、だって先輩、」
少し驚いた声で顔を上げた黒蜜は、その顔にはっきりと動揺を見せていた。
その顔を直視出来ず、綾部が今度は顔を逸らして、
「ごめん・・・みんなに間違いだって、ちゃんと言っとくから」
「え?」
「嫌だよなぁ・・・こんな男とあんな噂が立ったら、」
黒蜜は綺麗であっても、男だった。
少年のようでもなく、男性でもない。
不思議な雰囲気を持つ黒蜜は、性別など持たない人間のようにも見える。
しかし、やはり男なのだ。
その事実を綾部は思い知ったように目を伏せ、
「悪かった、」
ただそれしか言うことも出来ず、綾部はくるりと身体を反転させて部室のドアから出て行った。
中から、小さく自分を呼んだ声が聞こえた気もしたけれど、もう一度開けて見る気にはならない。
綾部は再度深く溜息を吐いて、背中を丸めて歩きだした。
昨日とは180度違うこの展開に、すでに付いていけない、と誰が見てもはっきりと落ち込んだのだった。

     *

綾部がはっきりと背中に哀愁を漂わせて、新聞部の部室に詰めていた友人に「振られた」と告げてから二日が過ぎた。
どこか抜けて気の良い綾部は、はっきりと落ち込みながらも約束したことだけは守らなければ、と噂の撤回に緑川を訪れたのだ。
朝との正反対の態度の違いに驚いたのは緑川だけではなく、その早すぎる展開に再び校内も揺れた。
しかし綾部は友人の問いかけにも答えることも出来ないほど暗く落ち込み、連日通っていた放課後の代筆部へ向かうこともしなくなった。
あらかさまに落ち込んだ綾部を周囲が気遣って腫れ物を扱うようにしていた昼休み、恒例の校内放送が流れ始める。
  『こんにちは、お昼の放送の時間です』
軽やかなBGMの中で透き通るような声が聴こえてきた。
一時期、この声の主を探して学校中が躍起になっていたものだが、その正体が知れてさらにすでに人のものだ、と知りつつも未だ陶酔して聞き惚れる生徒は少なくはない。
どんなことがあっても動揺を見せない声の主は一年生で、綾部も乱れない声をぼんやりと聞いていた。
  『今日は、曲の前にお手紙を頂いたのでご紹介させていただきます』
いつもなら、リクエストを受け付けて曲が流れるのだがいつもとは違う展開に静に声を聞いていた教室内もざわつき始める。
しかしスピーカーから声が流れると再び聞き逃さないように、と口を閉じた。
  『初めて見たのは、入学式の日でした。
   その日から、僕の視線を奪わなかった日はない。
   毎日毎日、想い続けて、苦しみだけが溜まって、僕を埋め尽くす。
   先輩への気持ちが溢れて、身体が熱くなって、僕はどうしようも出来なくなる。
   それに突き動かされるように僕は筆を取ったけれど、なんの言葉も思いつかず、
   ただただ、想いだけが溢れて、
   悩んだ末に出来上がったのは、とても手紙にも見えないもので、
   その滑稽さに僕は、悲しくて、
   だけどそれ以外に何も出来なくて、
   下駄箱に入れる手が震えて、足が竦んで、倒れてしまいそうでした。
   それでも、僕は、
   僕と言う存在を知って欲しかった。
   せめて先輩が、卒業してしまう前に、
   知ってもらうだけで良かったのに』
その声だけで誰もを魅了するというのに、まさに想いを込められた手紙を読むそれは耳だけを敏感にさせた生徒たちの意識を奪った。
手紙、と言うより、告白文だった。
誰が誰に宛てたものなのかは分からないけれど、その声に読まれるだけで誰もの意識を奪い高揚させる。
綾部はしかし、その声を聞きつつゴクリ、と息を飲んだ。
その手紙はまさに「恋文」と呼ぶに相応しく、誰からなのかも知らないままに、動悸が早くなるのを感じたのだ。
「・・・・ッ」
食べかけだった昼食のパンも手から零れ落ちたのも気付かず、綾部はスピーカーから流れる声を聞き入っていた。
 ――まさか・・・これ
自分に都合よく聞こえるのは、気のせいだろうか、と綾部は全身が震えてしまった。
ただ想いを連ねただけだ、という手紙はあまりに情熱的で、お年頃な生徒たちを魅了するには充分だった。
綾部が動揺し自分の気持ちをどうしようか、と迷わせていると、目の前で昼食を取っていた友人である新聞部の部長は、どこか綾部の気持ちも見抜いていたのか、
「・・・行ってくれば?」
溜息混じりに背中を押した。
それを待っていたように、綾部は教室を飛び出した。


to be continued...



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