恋愛情緒  5




マンションのドアの前で、僕は一度深呼吸をした。
右手に握られたままの小瓶が、あったかくなってきたけど手が開けない。左手でインターフォンを押す。
けれど、反応がない。その代わりドアを一枚隔てた向こう側で話し声がる。内容はよく聞こえないけれど、なにか言い合っているようだ。
「・・・・?」
僕は思わずドアノブに手を掛けて回した。
開いた。
思わずドアを引くとそれはあっさり手についてきてその玄関が見えた。
「・・・・」
そこにいたのは二人。
廊下の壁に押し付けられた羽崎と、押し付けた菊池。
二人の視線と、僕の視線が絡む。一瞬沈黙が流れた。
僕は視線を外して俯き、ゆっくりドアを戻した。
ど、どうしよう・・・こういうときは、どうすればいいのかな。割って入ってもいいものなのかな。でも、僕が告白だけして、逃げてもいいのかな。
いや、その前に。
結果の解ってる告白って、こんなに辛いものだったんだ・・・?
瀬厨ごめん、やっぱり逃げたい・・・
僕はドアを閉めて通路を戻ろうとしたとき、ドアが勢いよく開いた。
「薫!」
呼ばれて、ドアから菊池が顔を出している。それから羽崎を部屋から押し出して、
「ほら、もう帰れよ」
ぶすっとした羽崎が鞄を抱えて出てきて、擦れ違いざまに僕をちゃんと睨んで帰って行った。
僕はその後姿を目で追って、
「・・・いいんですか?」
「いいよ・・・上がれ」
菊池は気にしないようにドアを開けて僕を迎えた。
玄関を入って、廊下の向こうが菊池の部屋だ。
でも僕はどうしてもそこに上がる気になれなくて靴を脱がないままそこで立ち止まる。
「・・・どうした?」
不審に思ったのか菊池は奥に向かおうとした身体を振り返らせた。僕はまともに顔を見上げれず、俯いた視界には菊池の足が映る。
「あの・・・」
僕は大きく息をして、これまで考えてきた言葉を反芻した。
自分を落ち付かせて順番を確認する。
「・・・まず、すみませんでした・・・」
「は?」
「お、思ってもないこと、言って、すみませんでした・・・」
羽崎とすればいいなんて、全然思ってない。そんなこと、して欲しくなかった。
「それで・・・」
あれ?
僕はどうしたいんだっけ?
菊池に、どうして欲しかったんだろう?
考えても、思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのはさっきの菊池と羽崎で。
ちらついて頭から離れない。
でも仕方ない。
僕は何かを飲み込んで、
「あの・・・す、好きです、僕は、先輩が・・・だから、だ・・・」
握り緊めた右手が熱い。
「・・・・抱いてください・・・」
擦れた声だったけど、言えた。言ってしまうと身体中の力が抜けた。安堵で目が潤む。
「い、一回で、いいですから・・・あんなに、酷いこと、言ったし、もう先輩のことは忘れますから、だから、一回だけ・・・・」
して欲しい。
思い出になるのかな。なっても、思い出すたび辛そうだな。僕の気持ちは、それで落ち着くのかな。
それまで何も言わなかった菊池は、急に僕の顎を掴んで上に向けた。
「・・・・・」
菊池の視線とぶつかる。すごく、機嫌が悪そうな顔だ。
どうしよう、やっぱり駄目だった?お、怒ってる?
羽崎を呼び戻して、僕は帰ったほうがいいのかな・・・
「・・・お前な・・・」
けれど、菊池は大きく息を吐き出して、
「一体、何がしたいんだよ・・・? 俺をどれだけ振り回せば気がすむんだ?」
「・・・振り回す・・?」
「好きだって言ってみたり抱いてって言ってもすぐに嫌だとか、他の男としろとか、また抱いてって、俺をからかってんのか?」
僕は首を振る。そんなこと、するはずがない。
「俺の忍耐ってあんまり使ったことないから、もうキレそうなんだよな。また思ってもないことなら俺のことはもういいから、帰れよ」
「・・・・・」
帰る? 帰れ? 思ってないって、なんで?
「俺は遊んでるように見えるかもしれないけど、お前には本気で惚れてるって言ったろ? なのにお前は俺の気持ちを全然理解しないし振り回すだけ振り回していったい俺をどうしたいんだよ」
僕は顔を振った。
目に溜まってた涙が零れたけど、気にしなかった。
「ち、ちが・・・だって、僕は、だ、抱いてもら、お、と思って・・・」
「嫌なんだろ? するの、痛いの嫌だって言ったじゃんお前が、どうやったって痛ぇよ。最初は女だって痛ぇよ。それが嫌なんだろ」
「だ、だから、これ・・・」
僕は握り緊めた右手を見た。
「いいから、もう帰れ。これ以上そこにいるとマジで襲いそうだし」
菊池はあっさりと背を向けて部屋に戻ろうと僕から離れる。
「あ・・・」
待って欲しくて、行かないで欲しくて、僕は足を踏み出した。
けど、靴を履いたままだったのと、思ったよりその玄関の段差が大きくてそこで躓いてしまった。
「たっ!」
どん、とそこに膝を突いた。
段差にぶつけた膝が痛い。思わず付いた手は、右手は小瓶を握り緊めたままだったし、左手も鞄を持っててうまくつけずにどこかにぶつけた。
痛い。
ぶつけたところが痛いのか、胸が痛いのかよく解らなかった。
けど痛い。
「・・・・っ」
痛くて涙が出た。
そこに、菊池が目の前にしゃがみ込んで、
「・・・ぶつけたのか? 大丈夫か? どこが痛い・・・?」
身体を起こそうとしてくれた。
僕はそこに座り込んで、傍に戻ってきてくれた菊池に安堵する。
目の前にいる。それだけで、嬉しい。良かった。
「い、痛くない」
「は?」
「痛く、ないように、これ貰って、来たから、だから」
「・・・なに?」
僕は右手を菊池に差し出して、
「だ、だから、しても、痛くないって・・・これ、使ったら大丈夫って・・・」
「・・・おい、なに言ってんだ?」
「痛くないから、して欲しい・・・」
「こら、薫・・・落ち着けよ、なにがどうだって?!」
「せ、瀬厨くんが、これで痛くないからって・・・」
「は? なにを・・・」
「じゅんかつゆ・・・」
「・・・・・・・・はぁ?!」
握り緊めた右手を菊池は凝視する。
僕はそれを差し出して、
「あ、甘い匂いがして、嘗めても大丈夫って、瀬厨くんが・・・だから」
「・・・・ちょ、待て! 薫、お前これ、なにか理解してんのか・・・?!」
「・・・痛く、なくするもの・・・? 薬? 僕が飲むのかな・・・」
「いや! 飲むっつうか、塗る・・・」
「あ、そっか」
そんなことを瀬厨も言っていた。
じゃぁ、塗ったら平気になるのかな。
「だから、言いたいのはそこじゃなくて、お前がどうしたいかって・・・」
「どう・・・? だ、抱いて欲しいって・・・」
だから、こんなものまで貰ってきてるのに。これで出来るなら、初めから貰っていれば良かった。
僕は握り緊めたままの右手を開こうと力を入れるけど、何故かそれが開かない。
どうして?
その形で固まったみたいに、中身を見せたくないみたいに、動かない。
「あ、あれ・・・? なんで?」
「薫・・・」
「なんで、開かないの? ちゃんと、貰ってもってるのに、ホントに、ちゃんとあるんです、手に、持ってるのに・・・」
僕は左手でこじ開けようとしても、左手も震えて上手く使えない。
熱くなった小瓶の感触があるのに、手から離れない。
「なんで? ほんとに、持ってるから、これ、使って、出来るから・・・っちゃんと貰っ・・・」
なんだか情けなくなってきて、涙が止まらなかった。
けど必死で手を開こうとする僕の言葉が途切れる。
菊池が、唇を塞いだ。
見開いた目に見える、間近な菊池の顔。
涙で潤んでるけど、ちゃんと菊池だ。触れてる唇があったかい。
唇が離れても、僕は菊池を見つめた。菊池の顔が苦笑するように歪んで、
「大丈夫・・・落ち着けよ、分かってるから」
指で涙を拭ってくれて、僕の固まった右手を手のひらに包む。そのまま僕の目の前で顔を近づけて、力の入った右手に口付ける。
すごく熱くなってるはずなのに、菊池の体温が別に伝わる。
どうしたんだろう。 力が抜ける。
思ったら、菊池の手でゆっくりと指が開かれた。
力を込めすぎて白くなった手の平の上に、小さな小瓶が転がる。菊池はそれを取って床に置いた。
僕を正面から見る目は、真剣だ。
「あのな・・・別にこんなの使わなくっても、代用ならなんだって出来るし」
「・・・そう、なの・・・?」
僕は落胆した。
使わなくてもいいの?
これがあれば大丈夫って思ってたのに。やっぱり僕は何も知らない。
だから駄目なのかな。
その僕に菊池は舌打ちをするように顔を歪めて、
「いや! 使っていいってんなら、コレ使うけど! 使わせてもらいます!むしろ使いたいし!」
慌てて言う菊池を見て、僕は少しほっとした。
この顔が、なんだか久しぶりだ。僕を安心させようといつも必死で、そしてちゃんと安心させてくれる。
もしかして僕は、何度もそうさせてきたのかな。何度も、こうして菊池を困らせてきたのかな。
それが安心できたけど、嬉しかったけど、菊池にとってみればそうではない。
「ご、ごめんなさい・・・」
「は?」
「僕、人を好きになったの、先輩が初めてだし、付き合うのも、どうしたらいいのか分からなくて・・・セックスもなにしたらいいのか、わかんないししたいのかどうかもわかんないし」
「・・・わかんねぇのかよ・・・」
呟いた菊池に、
「でも、傍にいたい・・・ぎゅってしてほしい、気持ちいいから、もっとキスして欲しい」
僕は素直に言った。どれも、本当のことだ。
これで駄目でも、僕は辛くないわけじゃないけど、大丈夫だ。逃げてはいない。
菊池は顔を歪めて、それから力を抜くように大きく息を吐いた。
「・・・あのな、んなこと言われて・・・すげぇ、抱きたいんだけど・・・」
なら、抱いて欲しい。
僕はそう思っているのに、菊池は首を振って、
「でも、嫌だろ・・・? あんなに、嫌がってたじゃん、抱かれるの」
「だって・・・わかんないから・・・」
「知ってるだろ、お前んなか入れて、痛かろうがどうだろうと、ぐちゃぐちゃにしたいの」
「・・・・いい、です。我慢、します」
「だから! 我慢されてしても嬉しくもなんともねぇよ!」
「なんで・・・? それでもするって言ってたじゃないですか・・・」
「い・・・っ言ったけど! そうはしたくねぇんだよ、マジで! お前が嫌がることはしたくないし、でもやりたいし!」
「・・・矛盾してます」
「分かってるよ、んなことは!」
僕は少し落ち着いた。
菊池も、困ってるし悩んでる。僕のこと、すごく考えてるから、悩んでるんだ。
「僕は・・・本当は、よく分かりません」
「なに?」
「なんで触るのかも、嘗めたりするのかも、どうしてそんなことまでするの?」
「・・・・・ぜ、前戯だから・・・?」
「ゼンギ?」
「だから・・・入れるだけがセックスじゃねぇの、その前に、お前に気持ち良くなってもらいたいし、前戯なしじゃセックスじゃないし」
「・・・・そう、なんですか?」
菊池はそうなんだよ、と疲れた声で肯定した。
なんでこんな講釈するんだ、と首を傾げながら。
それからふ、と息を吐いて笑って、
「お前の身体、俺が触ってもなんにも感じなかった? 嘗めても?」
「・・・えっと、よく・・・わからなかった」
正直にどうも、と菊池は苦笑して、
「初めてなんだから、そんなもんだろ・・・」
「そうなんですか? みんな気持ちいいものじゃないの・・・?」
「いや・・・・それは、人それぞれで・・・最初っからいいわけじゃなくて、イイトコを探していくって・・・」
「・・・?」
「解らないよな・・・じゃ、前に、俺がココ、嘗めたのどう思った?」
菊池は僕の制服の上から胸の上に触れた。大きな手が、僕の薄い胸を触る。
僕は思い出して、なんだか居心地が悪くなってきた。
どう、だろう・・・
なんだか、落ち着かない。
「・・・よく、解らないけど、なんか、変な感じ・・・? 落ち着かないようなじっとしていられないような・・・」
正直に答えると、菊池は笑顔で、
「見込みはあるよな」
見込み? って、なんの?
僕が首を傾げている間に、菊池は僕の身体を抱き起こして子どものように抱きかかえた。
「せ、先輩・・・」
驚いていると、菊池は片手で僕の靴を脱がして下に落とす。そのまま奥の部屋に移動した。
ベッドの上に僕を降ろして、
「・・・・抱いていい?」
僕がびっくりして菊池を見上げていると、菊池は床に置いたはずの小瓶を見せて、
「コレ使って痛くないようにしてやるから、気持ちよくなるまで、付き合ってやるから」
「あ・・・・」
僕は一度俯いて、ベッドを見た。
それは今まで寝ていたように乱れていて、なんだか苦しくなってきた。
今までここにいたのは、菊池と羽崎だ。
ドキドキが苦しくなってきたけど、顔が歪むのを必死で抑えながら頷く。
でも菊池はそんな僕の顔にすぐ気付いて、
「・・・いやなら、しないって言ってるだろ、正直に言え」
「ち、ちが・・・」
僕は菊池を見上げると、何故か涙が浮かんだ。
だって仕方ない。
僕が、言ってしまったことなんだ。
「さ、さっき、ここで、先輩とあの羽崎って人がしてたって思ったら、やだって思って・・・じ、自業自得なんですけど、僕がそう言ったからなんですけど」
嫌だっただけだ。
やっぱり、他の人となんてして欲しくない。
今更だけど、僕がしたら、もう他の人とはしないでいてくれるのかな。
「あ・・・って、これは!」
菊池はびっくりした顔で、それから慌てて、
「してない! 羽崎とはしてない! ここは俺が寝ててそのままなだけ!羽崎は最近うろちょろしてるけど、なんでもないからな?! してないから!」
今日も突然来ただけで、さっきは追い返そうとしていただけだ、と菊池は必死で弁解している。
そう・・・なんだ。 そうだったんだ。 なんともないんだ。
僕も単純だ。
それだけで、こんなに嬉しくなってる。
菊池を見上げて、
「・・・して下さい」
菊池は一度顔を顰めて、
「・・・理性もつかな」
ぽつりと呟いた。


to be continued...



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