歌姫 2 新婚の二人に見送られて砂の街を出たのが朝方だった。 街を抜けて通りも砂なのか土なのかが分らないほどになり、瓦礫のような建物が並ぶ頃になると、どこかから甲高い声が響いた。 ツェンは腕に抱きあげたままの人形、アリタータが空を見上げたのを見て、 「グロウだ、街の中じゃ近付かないからな」 大事な相棒だ、と教えたそれは、天空から舞い降りて布を巻いたツェンの右腕にその身を乗せた。 間近で見ることが怖いほど大きな、黒鷲だった。 美しい毛並みの胸元に、その首に下げるように大きな碧色の石があった。 派手ではなく飾られているそれが、本物なのかどうかはアリタータには分らない。 「俺の行くところにはいつも一緒に行く。グロウ、アリタータだ。苛めるなよ」 ツェンは両腕に相人を乗せて――どちらも人ではないが――紹介をした。 アリタータはその大きな眼に黒鷲を映し、グロウもそれを見つめ返す。 「グロウ、ドゥーアンのオアシスに向かう」 ツェンが黒鷲に言うと、グロウは頷いたように小さく鳴いてその腕から飛び立った。 その航跡を見送る様にしたアリタータにツェンは笑って、 「そこまで三日ほどかかる。俺は金もないからな、野宿が続くが我慢してくれ」 そう言った言葉通りに、砂風を避けるように丘の窪みで一日目の夜を迎えた。 ツェンは小さく火を熾し、その脇に大きな布を広げて自分を包む。 それから胡坐を掻いた膝の上に、動いてはいても一言も話さず、表情も変えずまさに人形のアリタータを引き寄せた。 ツェンに抱き上げられても、手を引かれて歩いても何も反応しなかったアリタータが、その一瞬だけ躊躇うように身体を固めたのに気付く。 それは本当に一瞬で、他の人間だったら気にも留めないほどだった。 しかしツェンは今朝出発するときに、アリタータを一晩面倒見てくれたレヒェンに、 「一睡も、しないのよ」 大丈夫なのだろうか、と心配そうな顔をされていた。 ツェンは思い当たるように頷いて、そして膝の上に座らせたのだ。 「大丈夫だ」 腕の中にすっぽりと納まる小さな人形をしっかりと抱いて、絶対の気持ちを込めて呟いた。 「もう、お前に他の誰も触れさせやしない。必ず、俺が護り通す。だから眠れ」 アリタータの視線が少し見上げる位置にあるツェンを捉えたのを見て、 「Aタイプの性能は少しは知ってるつもりだ。日常はほぼ人間と同じだという・・・眠っておかなければ、明日が辛い」 ゆっくりと瞬いたアリタータの黒い目に、ツェンは自分が映っているのをはっきりと知る。 「ずっと、こうしていてやるから・・・眠れ、砂漠の朝は早い。明日、目が覚めたらとても美しい朝日が見れる」 黒い髪をかき上げて、その額に唇を落とした。 腕の中の人形が、ゆっくりと目を閉じて腕に軽すぎる重みを感じた。 ツェンは漆黒の空に広がる星を見上げて、自分の願いを確認した。 ドゥーアンのオアシスに立ち寄ったのは、人の足でこの砂漠を渡りきるのは難しいと知っているからだった。 駱駝を借り受けるため、馴染みの店に入ると、 「・・・おや、久しぶりだね、ツェン。最近ご無沙汰じゃないか」 恰幅の良い主人が笑って出迎えた。 ツェンは腕にアリタータを抱きかかえたままで、 「カジクが嫁をもらったからな」 お蔭で気軽に旅に出られなかった、と告げると、主人がツェンの後ろを探すようにしてから腕の人形を見上げる。 「そのカジクはやめて、子守に仕事を変えたのかい?」 「まぁそんなとこだ。すぐに借りられるか?」 「ああ、ちょうど三日前に帰ってきたのがいるよ」 この砂漠を渡りきったところに、この店より少し小さな宿屋があった。 ここで借りた駱駝はそこへ返し、またそこで借りた駱駝はこの店に返す仕組みだった。 「助かる、ちょっと急いでいるからな」 二人はそのまま駱駝のいる厩舎へ向かうと、 「その子供・・・アンドロイドかい?」 主人が声を少し落として訊いた。 砂埃を避けるためにマントを付けているものの、ツェンは良く周囲が見えるようにアリタータの顔を隠してはいない。 人間より綺麗な顔は表情がない。 どことなく温度を感じないものに、主人も気付いたようだった。 ツェンが頷くと、相手は少し困惑した顔を見せる。 「どうしたんだ?」 「いや・・・最近、ここも物騒になったからねぇ・・・そんな綺麗なものを見せ付けていれば、攫われやしないかと思って・・・まぁ、ツェンが居れば大丈夫か」 主人は最近横行している盗賊紛いの人間がいることを心配したが、すぐに馴染みの客の腕を思い出して首を振った。 「ああ・・・確かに、殺気立った視線をいくつか感じたな」 「気をつけて行きなよ。この間も抵抗しようとしたものが殺されてねぇ」 「ふぅん・・・分かった、気を付けておこう」 ツェンはそれだけ受けると、簡単に別れの挨拶を済ませて借りた駱駝を引いてオアシスの出入り口に向かう。 商店などが立ち並ぶ中心より、砂の混じった場所はやはり閑散としていた。 ツェンは右手に駱駝の綱を持ち、左腕にアリタータを抱えながら不敵に口端を上げた。 「ふん・・・つけて来られても面倒だな、ここで始末しとくか」 椰子の木の密集するオアシスの外れに駱駝を結びつけ、その背にアリタータを座らせた。 それから空を見上げて、 「グロウ、」 名を呼ぶとすぐに黒い鷲が大きく両翼を広げて舞い降りてくる。 「アリを頼んだぞ。アリ、ここで、じっとしているんだ。動くなよ」 黒鷲がキィ、と小さく了承の声を出したのに、ツェンは人形に一言一言を言い含めるように真っ直ぐに目を見て言った。 アリタータが何も答えずただ、目を見つめ返すのに、ツェンは笑って背を向けすぐに見えなくなった。 * アリタータにとって夜は好ましいものではない。 嫌悪にしかならない腕が伸びて、小さな身体を好きなように扱ってゆくからだ。 それらを何も感じないように機能を止めていたはずだけれど、先日より動き出した自分の身体はその時の恐怖を思い出していた。 自分を綺麗に洗ってくれた人間の雌に優しく抱かれてベッドへ横たわらされても、アリタータは眠れなかった。 いつ、どこから腕が伸びてくるか分からなかったからだ。 しかし、自分の名を呼んだ人間の雄と旅に出た夜、その言葉をアリタータは信じた。 「もう、お前に他の誰も触れさせやしない」 初めて聴いた声と同じそれに、アリタータは何故か目を閉じた。 人間の雄の腕の中だというのに、アリタータはここでなら眠れる、と知ったのだ。 その時から、アリタータにとって夜は怖いものではなくなった。 その言葉通り、人間の雄の腕に毎晩包まれて眠れたからだ。 その人間の雄が、砂漠の移動には欠かせない、と駱駝を借りに行ったときだ。 アリタータを駱駝に乗せて、護衛に黒鷲を置いて、どこかに消えた。 すぐ隣に黒鷲がいるけれど、アリタータは全身を不安が襲うのを知る。 しかし、それがなんなのか自分でも理解出来なかった。 ずっと動かさないでいた表情も変わることはなく、声を上げることもなく、しかし真上にあった太陽が傾いて、それが真横に沈みゆっくりと空が不安な色に染まると初めて手を動かし黒鷲に触れた。 自分から、手を動かしたのは随分と久しぶりだ、と思いつつ、艶のある背中を少し撫でた。 「クゥ、」 ずっと黙ってそこにいた黒鷲が、その時だけ鳴いた。 まるで、心配するな、とアリタータに告げたとき、人間の雄が消えたほうから同じ影が現れた。 「・・・アリ、」 消えたときからずっと動かずにいたアリタータを見ると、その顔が嬉しそうに笑った。 「ちゃんと動かずにいたな、良い子だ」 大きな手が髪を撫でて、黒鷲にも労うように首もとを指で擽ってやっていた。 消えたときと変わらないように見えるけれど、人間の雄の身体はどこか埃っぽかった。 そして、間違えようもない血の匂いがした。 しかしどこかに怪我をしているようにも見えない。 アリタータを抱き直す仕草の、そのどこにも綻びも感じなかった。 アリタータはそれでも、今日もこの腕の中で眠れるのだ、と知って安堵していた。 |
to be continued...