いつか雪の降る街で  8





キナの生家は酒屋だ。
旅館や隣町のホテル、土産物屋にも卸す傍ら、自営の酒屋だった。
酒飲みの父親に勧められるままにキナは幼いころからアルコールを飲み、今ではどれだけ飲んでも簡単には酔いもしない。
酒屋の仕事が嫌いだったわけではなく、漠然といつかは継ぐのだろう、と自分でも幼い頃から感じていたことだった。
けれどそれに戸惑いを覚えたのは自分の性癖に気づいてからだった。
幼友達の示す、テレビ画面の中のアイドルや女優、グラビアに載る女性。
それらがどうしても性的対象にならなかったのだ。
はっきりと気付いたのは、中三の時に赴任してきた教師に確かな恋愛感情を持ったときだった。
しかしキナはそれを誰に気付かせていたわけでもない。
こんな小さな田舎で、自分の性癖がどれほど異常に映るのかは充分に自覚していた。
しかし抑えられなかったのは、その教師と視線を絡めるようになり、キナは誘われるように近づき、身体を重ねた。
基本的に素直だったキナは真っ直ぐに相手を見つめ、隠し通さねばならない初めての恋愛に後ろめたく思いつつも、多少興奮していたのは仕方なかった。
田舎の中学校に赴任してきた相手は違う街の人間で、キナには誰より大人で格好良く、何も考えていなかった将来も、この相手となら誰に後ろ指を指されようとも生きていける、と幼いながらも真剣だった。
けれどのぼせ上がっていた恋愛も終わりがあるのだ、と知らされた。
高校に上がって三年目。ほぼ三年続いた関係をあっさりと終わらされた。
キナは別れを切り出されたあの瞬間を、今でも震えそうになるほどの恐怖として覚えている。
怖くて辛くて、キナは納得できない、と何度も相手を詰ったけれどその決定が覆ることはなかった。
どうすれば落ち着くのか解からない感情を抱え込んだまま、それは酷く醜い傷となってキナに残り続けた。
どうすればいいのか、誰にも相談することも出来ずただ沈んでいたキナを、さらに突き落としたのは年の離れた姉である千夏が結婚相手を連れてきたときだった。
その相手は確かに、三年も付き合いを続けて、幼いキナを夢中にさせて、最後には突き放した男だったのだ。
教師だった誠人はすでに違う町の学校へ赴任していて、小さな村で暮らしていれば二度と見ることのないはずの顔だった。
けれど千夏が紹介してくれたときには、キナの存在を知っていたのかその目に戸惑いがあったのをキナは気付いた。
溜め込んだ感情をぶちまけてしまおうか、としたキナの目に入ったのは誠人本人ではなく、幸せそうな姉と、両親だった。
キナは口を噤んだ。
そこで噤んでしまったために、キナはそれから一度も本当の感情を口にすることが出来ないままだったのだ。
どうすれば良かったのか、キナには今でも判断出来ない。
吐き出してしまいたい言葉を抱えたまま、それだけは結局一度も言えることはなく、キナはそのまま家を飛び出した。
家族になった義兄からの視線が、誰よりも一番キナには辛かったのだ。
当てもなく上京したキナは、流れるままに誰かに寄生するように生きて、そして今でも付き合いのあるホストの友人と出会ったのだ。
その相手の紹介で今の仕事の見習いとしてバイトを初め、のめり込むようにキナはそのまま力を付けた。
後ろ盾もないままキナが今の仕事にあるのは、全て友人やそれを通して出来た仲間のお蔭だ。
彼らに可愛がられながらも、しかしキナは誰かを好きになることだけが、怖くて仕方ない。
もう一度あの恐怖を味わうことが、幼い子供のように怖くて出来ないままだった。


「――キナ?!」
夕暮れの中を千夏の後ろを付いてただ歩いていると、いつの間にか家に着いていたようだった。
見上げれば、記憶と違わない懐かしい店先を構えた家がある。
その店先で、店番をしていたのか佐上酒店のエプロンを着けたままの母親が驚いて立ち尽くしていた。
「・・・お、」
お母さん、とキナの口は動いたけれど、声は出なかった。
その前に駆け出されて勢いのまま抱きつかれ、存在を確かめるように力を込められた。
「キナ・・・元気だったの、大丈夫だったの、」
泣き声のそれを聴いて、キナは初めて自分が逃げ出したことを後悔した。
細身の自分より、母親はもっと細く小さかった。
それでも必死にキナを抱きしめてくれている。
ごめんなさい、と口にしたくても、何故か声が掠れて出てこない。
店の前での抱擁にキナが戸惑っていると、配達用に使っているライトバンが近づいて、止まった。
思わず身構えたのは、父親だろうか、と思ったからだけれど、そこから降りてきた相手に息を飲んだ。
長身の身体は変わりがないけれど、その腰に佐上酒店の前掛けをしていて、やはり七年分年を取った相手が驚いてキナを見つめていた。
先生、と昔から呼んでいた言葉が、出てこなかった。
義兄となった誠人を前に、キナは硬直してしまう。
そんなキナに迷いなどないように誠人は近づき、キナの顔を確かめてまだしっかりとキナを抱いていた母親ごと、キナを抱きしめた。
「・・・・・っ」
もう一度息を飲んだキナの耳に、掠れたような声が届いた。
「――良かった、生きてて、」
身体が崩れ落ちそうだったけれど、思わぬ抱擁に抱えられてキナは動けなかった。
その一言で、失踪届けも捜索願も出さなかった理由をキナは知った。
怖かったのだ。
探しても、キナが見つからなかったときのことが、キナが大事だった家族も、怖かったのだ。
ごめんなさい、ともう一度言おうとしたキナの視界に入ってきたのは、先にキナと会って抱擁を母親と旦那に任せていた千夏が、止まったままのライトバンの助手席から小さな子供を抱きかかえて降ろしている姿だった。
千夏に抱きかかえられた子供はどこかで見たことがあって、笑う千夏に、そして幼いころの自分の顔にそっくりだ、と思い出した瞬間に、
「・・・もー・・・なんなんだよ」
力の抜けるような声が出た。
いきなり現れた現実はあまりにもキナの想像もキャパも超えていて、キナは眩暈がしそうだ、と視界が潤んで霞むのに目を伏せた。


to be continued...

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