いつか雪の降る街で 7 飛行機と電車バスを乗り継いで、羽田から六時間。 乗り継ぎの時間調整のために待ちが約二時間。 計八時間かけて、キナは七年ぶりとなる駅に足を踏み入れた。 向こうを出たのが朝だというのに、すでに時刻は夕方だ。 長閑な田舎風景は夕暮れに染まり、捨てたはずの郷愁をキナに与える。 仕事に使うよりも小さなボストンバックを肩から斜めにかけて、キナはさらりとした風を身体に感じた。 一年の半分は雪に覆われるような、北海道の小さな村。 けれど今は僅かな夏の間を楽しむかのように、景色は青く輝いている。 家を飛び出すまでの18年間、キナが過ごした場所だった。 忘れたはずなのに、目の前にあるだけで全てを思い出してしまうのはやはり、忘れきることなど出来なかったからだろう。 小さな村は、ここに居るときは誰もが知り合いだった。 挨拶をすれば、いつでも誰もが返してくれた。幼いとき、まだ元気だった草介を連れて散歩している風景が、何より好きだった。 駅前に進めば、数人の中学生たちがキナの隣を過ぎて行った。 振り返り、小声で何か言い合っているのが聴こえる。 キナが、観光客が一人でいるのが、目を引くのかもしれない。 キナの格好はもうこの場所に立っていた幼い頃のものではない。 全国紙の雑誌に名前が載るようなスタイリストで、確実にここに居た頃よりは垢抜けてしまっている。 どことなく視線を感じながら、キナはざっくりと編まれたサマーニットの帽子を深く被った。 Tシャツにジーンズというどこにでもあるような格好だけれど、キナはすでにこの場所では異質なのかもしれない。 学生達の顔は代わっても、住んでいる人たちは変わらない。 歩くたびに思い出す店先にいるおばちゃんなどは、一目で名前も思い出すほどなのに相手からはキナに気付くことはない。 声を掛けられない寂しさも抱えながら、それも楽でいい、とキナは誰とも目を合わすこともなくただ慣れたように足を動かした。 町中を通り過ぎて、ゆっくりと時間をかけて山の麓にある神社まで迷うことなく辿り着く。 幼いころから遊び場にもしていたここを、キナはやはり忘れてなどいない。 草介と遊んだ記憶も深く、神社を抜けた森に、キナしか解らないような小さな石の目印を見つけた。 小さな花屋で一輪だけ花を買った、名前はなんと言ったか覚えていないけれど、太陽のような赤い花びらのこれが、草介に似合っていた。 「ごめんね、草介さん」 飛び出したあの日から、一度も来てあげることが出来なかった。 草介の思い出は、全てこの村に繋がる。 それを忘れてしまいたかったキナは、草介のこと自体を思い出さないようにしていたのだ。 それを夢に見てしまったのも、何かのきっかけだったのかもしれない。 キナは小さな石の前に一輪だけの花を置いて、しゃがみこみ両手を合わせた。 「・・・草介さん、俺ね・・・全然成長出来なかった」 キナは誰にも言えない愚痴のような言葉を、この大事な飼い犬相手にだけは吐露することが出来た。 それは、今でも変わらないのかもしれない。 本気にならないように、浮気でいい、と自分から言った手前、キナは犬養に対してもあまり愚痴めいた言葉が出てこない。 嫉妬が渦巻いてどうしようもないのに、耐えられなくなるギリギリまで溜めてしまう。 キナは大きく息を吐き出して、ここまで来た自分に不安を感じた。 ――帰ってきて、どうしようっての。 何が待っているというのだろう。 家に帰ることすら躊躇っているというのに、その誰かに会えるはずもない。 「・・・やっぱり、無理かも」 目を伏せた顔に苦渋を浮かべて、このまま帰ろうか、と気持ちを弱くしてしまったとき、 「――――キナ!」 まさかここで今、呼ばれるとは、と驚いたままキナは背後を振り返った。 「・・・・キナ?」 キナの背中に向かって確かに呼んだ相手は、振り向いたキナに今度は確かめるように呟く。 観光客ではなく、この村の住人と解る格好をする相手は、キナより年上に見える女性で、キナも驚いて立ち上がり、相手を確かめた。 「・・・なっちゃん」 口にした名前に自分でも驚いた。 何年ぶりに、呼ぶ名前だろう。 家を出てから一度も、口にしたことなどない。 けれど姿を前にすれば、あっさりと声に出た。 立ち尽くしたキナに、相手はすぐに近づいて顔をもう一度確認するなり、 「・・・っの、バカっ!!」 パンッ、と森の中に小気味いい音が響いた。 その衝撃でどこかで鳥が飛び立ったような音も聴こえた。 キナは叩かれた頬の痛みを我慢しながら、 「いって・・・い、いきなり、酷いよ、なっちゃん」 「グーで殴らなかっただけ有難いと思いなさいっ」 キナの言葉を遮るように言われて、震える拳を見るともう一度そのまま飛んできそうだ、と思った。 キナはその手から改めて相手を見つめる。 視線が、少し下がる。 相手が低くなったのではない。 キナが、高くなったのだ。 怒りにつり上がる目元は、感情からか少し潤んで見えた。 それがキナに良く似ていた。 すでに三十を超えているはずなのに、その顔はキナと同じで幼い。 やはり、同じ血が通っているのだ、とキナは改めて思った。 目の前で震える拳をもう一度キナにぶつけようか考えているのは、箕谷千夏。 キナの七つ上の姉だった。姓が違うのは、すでに結婚しているからだ。 キナは怒りのままに震える千夏に、少し困惑して、 「・・・なっちゃん、目元に皺が」 「バカ!!」 バチン、とキナはもう一度その掌を頬に受けておいた。 「七年よ!? 七年も連絡してこないなんて! 失踪届けを出していたらもう受理されてあんた死んでたとこよ! 戸籍もなくなって今更帰ったって死人扱いよ!」 「はぁ・・・」 本当に着の身着のまま飛び出したキナは、住民票の移動すらしていない。 怒りのままにぶつけられるが、まだ死んでいないところを見ると届けは出されていなかったらしい。 あれからキナは大人しく千夏の後を付いて久しぶりの家路を歩いた。 どこか気後れしていた道も、千夏の後ろなら抵抗もなく歩けることが不思議だった。 誰にも見つからないまま帰ろうか、としていたキナを千夏が見つけたのは偶然ではなく、雪深くない時期には千夏は毎日草介の墓へ足を向けていたらしい。 キナが帰ってくるとしたら、まずそこへ行くだろう、と読まれていたのだ。 ――それでも、七年も? キナは昔から逆らえなかったけれど、しかしキナを知っている姉の背を見て目元が緩んだ。 「どれだけ皆心配したと思ってんの!」 「・・・心配してくれなんて言ってないよ」 思わず口からでた子供のような反論に、自分でもしまった、と思った瞬間、千夏が勢いよく振り向いて二度叩いたのとは反対側の頬を叩いた。 「いった・・・!」 「バカキナ!」 絶対腫れてる、と泣きそうになりながらも、キナは睨みながらもその目が潤んでいる千夏の視線が痛かった。 千夏がもう一度背を向けて歩き出した後を付いて行きながら、小さく声を出した。 「・・・ごめん」 もう千夏は何も言わなかった。 その沈黙の中で、キナは鮮明に思い出した過去に沈みそうだった。 高校を卒業間近、キナはその進路が未定だったのだ。 家業を継ぐものと決めていた父親と毎日のようにケンカをして、どこにも向けられない怒りや不安を抱え込んでしまっていた。 さらにキナを追い詰めたのは、家族だ。 雪のまだ残る三月、卒業したキナを心配して家に来た千夏だった。 丁度半年前に結婚していて、その相手も一緒だった。 意固地に家を継げ、と怒鳴る父親に対し、母親と千夏はキナがしたいことをすればいい、とどんな進路でも受け入れる体制だったのだ。 けれど、キナにはその全てが受け入れられなかった。 キナと対面する家族。 両親と姉、その夫。 たった四人からの視線が、キナには耐えられなかった。 どこにも吐き出せなかった感情を一気に爆発させて、そこで自分の性癖を吐露した。 相手を傷つけるように自分がゲイだ、と宣言して、そのまま家を飛び出したのだ。 それまで大事にしてきた家族、幼いときから一緒だった友人。 全てを振り切って、キナは何も考えず小さな村を飛び出した。 家族のせいではない、と思いながらも、キナが追い詰められた原因は目の前の千夏にもある。 それを言うことは出来なかったけれど、以前と変わらない姉にキナはどこか安堵し、言わないままでいて良かったのかもしれない、と息を吐き出した。 「なっちゃん」 そのまま背を向けて歩き続ける姉を呼んで、 「・・・か、変わんないけど、みんな・・・変わんない、の?」 震える声を抑えて、一番ききたかったことを口にした。 その質問が全てだ。 変わっていて欲しくない。 けれど、変わっていて欲しい。 矛盾する感情に押されるままに、キナは訊いた。 「変わったわよ」 千夏の声は平然としていた。 それが当然だ、という声だった。 キナがショックを受けたのにも気にせず、千夏はそのまま続けた。 「家、誠人さんが継いでくれたの」 「――――」 キナは視界に姉の背を捕らえながら、真っ暗になった。 箕谷誠人は、千夏の夫であり、キナにとって感情を揺さぶられるほど忘れられない男だった。 |
to be continued...