いつか雪の降る街で  5





三日間、キナは自分の部屋に帰ることはなく仕事にのめり込んだ。
特に大きかったのはCM衣装のサンプルで、打ち合わせから入り込みその間に前倒しできる仕事はこなせるだけこなした。
その間泊り込んだのはやはり友人の家で、仕事の段取りだけ終わらせてから漸く自分の部屋に足を向けたのは、もうその翌日になろうとしている深夜だった。
「うー・・・眠い」
寝る間も惜しんでやっていたせいで、さすがに疲れが顔に出ているほどだった。
この三日間、携帯に電源は一度も入れなかった。
不便だったけれど、必ずどこか連絡の付く場所にいるようにして、乗り切ったのだ。
 ――あの人が、勝手にGPSなんか付けるから・・・
キナは自分の携帯にある機能を恨んで、それでも手許から一度も離したことはない。
最後の雑誌撮影を終えて、これからキナは一週間の休みに入る。
夏休みと決めて取ったものだった。
 ――何にもしないで、とりあえず、寝たい・・・
犬養のマンションに比べれば小さく、完全な独身用マンションの自宅に着いていつもほどの荷物を抱えなおし、鍵を取り出した。
埃っぽい部屋で寝ることも、もう仕方ないか、とキナは諦めてその部屋に足を向ける。
しかし、そのドアの数歩前でそれを止めた。
「―――・・・なん、で」
疲れて閉じかかっていた目を見開いて、息を飲むほど驚いた。
犬養が、自分の部屋のドアの前で立っていたのだ。
驚いたのはそれだけではなく、いつも乱れなく着こなしているスーツはどこかくたびれていて、ネクタイも解いてその襟元にはない。
ジャケットは脱いで脇に抱え、背中をドアに付けて口に煙草を咥えていた。
紫煙の中にあるその顔は、髪は自分で手を入れたのか乱れ額にかかり、疲れとも焦燥とも言うようなものを表情に漂わせて、それでいて感情がないように見える。
 ――誰?
キナは改めて思うほど、今まで付き合ってきた男の豹変振りに声を失くした。
その犬養は身体をドアに傾けたまま、視線をキナに向けて咥えていた煙草を下に落とした。
キナはそれを目で思わず追って、落ちたところを革靴で踏まれるのを見て、また驚いた。
「な・・・っに?!」
犬養の足元に、大量に落ちている吸殻。明らかに、犬養が吸って落としたものだった。
弁護士という職業からか、その性格からか、犬養はキナの前で一度も吸殻をこんなふうに放置することなど見せたことはない。
汚れた自分の部屋の前に、怒りが湧くのを感じて、
「なにしてんの、人んちの前で! ちゃんと片付けろよ!」
勢いのままにそれに歩み寄って大量の吸殻を指した。
久しぶりに間近で見た犬養に、キナはもう一度怯んだ。
じっと見下ろされて、その視線に何の感情も温度も感じられなくて、思わず逃げそうになってしまう。
けれど、先に犬養の手がキナの腕を掴んだ。
「どこに行っていた?」
低い声に、また後じさりそうになり、しかし掴まれた手に動けず、
「・・・仕事、だけど」
俯くように答えた。
「部屋にも帰らず?」
この吸殻の量を見れば、犬養がここで待っていたのは今日一日ではないと知れる。
キナはそれでも顔を上げる気になれず、
「友達の、家に行ってたんだよ、この部屋・・・掃除してなくて、埃っぽい、し・・・」
「ずっと?」
「そう、だけど」
「それは友達か? それとも、またナンパでもして捕まえた相手か」
「な・・・っにを」
さらりと言われた言葉に、キナはまた怒りが沸点に達した気がした。
「勝手なこと言ってんの? そんなこと、犬養さんに関係ないじゃん!」
「関係がない?」
「関係、ない! もう、犬養さんとは、俺・・・」
「なんだ」
ドン、と気づけばキナはドアに背を付けていた。
そこに覆いかぶさるように、犬養が視線を下ろしてくる。
「俺と、どうだって言うんだ」
「そん、なの・・・っわか、ってる、くせに、」
「解らないな、俺には。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「ちょ・・・っと、止めてよ、こんなとこで、誰が見てるかもわかんないのに、弁護士さんの経歴に傷が付くんじゃないの、ゲイとのもつれ話なんて、」
「構わない」
相手を怯ませようとして言ったことに、自分が傷ついた。
けれど、犬養はそれにも全く気にせずキナを追い詰めようとする。
「誰がどう見ようと、俺は構わない」
「ちょっと・・・本気? そんなこと、一時の感情だけで先走ったこと言うと、後悔するよ、絶対」
「しないな、そんなこと。一時の感情だと思うか? 試してみるか?」
「・・・え?」
「ここで、してやろうか」
「・・・・・っ」
何をするのか、聞かなくても解った。
見上げた犬養の目が、どこか獰猛に濡れている。
表情はやはり暗く、疲れなのか焦りなのかは解らないが、翳りが見える。
そのせいで、一層凶暴な顔が覗いていた。
ここでキナが抵抗すれば、本当に犬養はやり通すだろう。
「ここで、するか。部屋の中でするか。選ばせてやる」
低い声と同じ温度の視線に、キナは耐え切れなくなって目を伏せた。
「・・・鍵、開ける、から・・・手、離して、」
押されるようにそう口にして、犬養がじっと見守る中鍵を開ける。
ドアを開けてやはり埃っぽくなった部屋に入りながら、キナはどうしてこんなことになっているのだろう、と考えた。
けれど、答えが見つかるはずはない。
 ――怖い。
犬養が、怖いのだ。
犬養の見せる執着が、怖い。
好かれれば好かれるほど、それが解るほど、キナには怖くて仕方がない。
携帯を切り、連絡を取れなくして、行方をくらますようにした。
けれど、こうして見つけ出してくれることを、キナはどこかで期待もしていた。
感情の中に沸いた気持ちに、嘘は付けない。
けれど変わり果てた犬養の姿に、恐怖を感じたのもまた事実だった。
 ――なに、犬養さん、どうしたの・・・
キナの部屋は荷物で溢れていた。
ほとんどが仕事用のそれだけれど、ベッドのある部屋と、その半分ほどの広さのキッチン、その奥にバスルームと部屋の壁にあるクロゼット。
一度で見渡せるそれが、キナの部屋だった。
とりあえず動悸の激しくなる自分を落ち着けて、どうにか話し合いで終われるようにキナは頭を働かせて、
「・・・それで、犬養さん、なにしにここに・・・」
充分落ち着かせた声で振り返り聞いたつもりだった。
けれど、その身体をどん、と押された、と思った瞬間には倒れていて、ベッドに背中を付けていた。
「・・・えっ」
驚いて、見上げたときには上から犬養に圧し掛かられていた。
噛み付くように首筋に素早く唇が触れていて、手はシャツの裾から肌を探っている。
「な、な・・・っんで?! ちょ、ちょっと、やめ・・・っ」
「どうして」
「ど・・・してって! やだ! ちょっと!」
「するって、言っただろう、部屋の中を選んだのは、お前だ」
「それは・・・っ」
その選択をして部屋に入れたわけではない、とキナは相手を押し返すけれど、疲れた顔とは裏腹にどこからそんな力があるのか、抵抗など全く相手にされなかった。
「やだって! したく、ない・・・っ」
「どうして、誰かに、抱いてもらっていたからか」
「そんな・・・っ」
言われた言葉の冷たさに、声の感情のなさに、キナは目の前が暗くなった。
それが晴れると、視界はすでに滲んで見えた。
「や・・・っなん、で、俺なの・・・っ女のヒト、抱いてれば、いいじゃん!」
「性欲が湧かない」
「う、そつき・・・っ」
「俺は嘘は付かない」
「犬養さん、怖い・・・っ怖い、よっ、なんで、俺、なんだ・・・?」
「お前は、」
まるで餓えた獣のように犬養はキナの身体に歯を立てて、その痕を残す。
恐怖を感じることも事実で、キナが正直にそれを口にすれば、泣き顔を、その髪を掴むようにされて視線を絡め捕られた。
「お前は、いつまで経ってもそうなんだな」
「・・・・っな、にが・・・っ」
「他人行儀にそう呼ばれる俺は、いったいお前の中でどのあたりにいるんだ?」
犬養の声は、今までのどれよりも冷たく、そして苦渋が含まれていて、深くキナの心に刺さった。


to be continued...

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