いつか雪の降る街で  3





犬養がシャワーを浴び終えて出て来たとき、丁度キナは荷物を纏め終えた。
「キナ?」
いつもの鞄二つ分を抱えて、玄関からまさに出て行こうとしたとき、ラフな部屋着に着替えた犬養が声をかける。
「どこへ――行くんだ」
その状況は、まるで家出をする子供のような格好で、しかしキナはすぐに振り返り、強い目で相手を見上げた。
「明日の仕事先、家のほうが近いから、帰る」
「キナ? 何を言って・・・」
「朝早いんだ」
キナはそれだけを口にして、両肩に荷物を持ったまま玄関のドアを出て行く。
「キナ!」
閉まったドアの向こうで、犬養が驚いている声が聴こえる。けれどキナにはもう、どうだって良かった。
怒られようとも、嫌われようとも、もう喧嘩もしない。
纏めた荷物は仕事のものだけでなく、キナの身の回りのものも含んでいた。
それに犬養が気付くころ、すでにキナは追いつけない場所まで離れているはずだ。
犬養のマンションを飛び出したキナの表情は硬く、夏の噎せ返る気温の中だというのに冷たく固まっていた。
湧き上がる感情は、ただ怒りだけだ。
両肩が沈むほどの荷物を抱えながらも、タクシーも拾うことなくただ足を速めた。
「――ふざけやがって・・・!」
爆発しそうな怒りが、どんどん湧き上がってくる。
耳にまだ残る、機械を通した相手の声。
身体を突き抜けた言葉に、崩れそうなほど震え、恐怖が支配した。
けれどすぐにそれを怒りに変えて、キナは行動した。
つまり――荷物を纏めたのだ。
犬養の車でもなく、タクシーも拾わないときに使う駅は、すでに通り過ぎた。
一駅分ほどは、その怒りだけで走り抜ける。
しかしさすがに疲れたのか、歩調を緩めて大きく息を吐いた。
けれど、足は止めない。とにかく一刻も早く、帰りたいのだ。
やはり、家を移らなくて正解だった、と自分の判断にほっとしながら、その反面情けなくなった。
目の奥が、漸く熱を持ち始めたのだ。
「泣くかよ!」
こんなことで、とキナはそれを気のせいにしたかった。
慣れているはずなのだ。
誰かの浮気で終わることも、遊びで付き合うことも。
元々、キナはそれを自分の恋愛として生きてきたはずだった。
深く付き合ったりはしない。
そうしないと、別れが辛く醜くなるのはよく知っているからだ。
相手を好きになればなるほど、別れが辛いものだと、キナは知っていた。
そんな経験は一度でいいと、決めていたはずだったのに。
拭ってしまいたくても、耳に声が蘇る。
 ――聡明で落ち着いて、大人の女性であれば顔は二の次だ、なんて言うのは君くらいだ
「顔は二の次って、なんだよ?」
 ――国立大学で、研究室に入っておられる、そして文句のないほど美人だろう?
「国立大学って、なんだっての!」
 ――まったく彼女こそ、君に相応しい。彼女ほどの女性を待っていたというのなら、君が結婚しないでいたのも頷ける
「相応しいって? 誰が?」
 ――明日、もう一度昼食を一緒にしよう、相田くんに頼んで仕事の調整をしてもらうから
「相田さんも、いっつも仕事仕事って言うくせに・・・!」
キナの学歴は高卒に過ぎない。
一人で上京して、そこから自分の力だけで今の地位まで伸し上がったのだ。
後ろ盾になる人間もいなければ、全てが自分の実力だけで終わる。
「聡明でなくて悪かったな!」
自分は確かに、学歴もない馬鹿だ、とキナは低く罵った。
「落ち着いてもないし、大人でもないし・・・っ」
子供だと言うことは、丁度今日、再認識してきたところだった。
止めようと思っても、目が熱くなってしまう。
せめて足は止めないように、と前に進んだ。
その視界が滲んでしまっても、キナは足を止めなかった。
「―――女じゃなくて、悪かったな・・・!」
口にしてしまって、とうとう涙が抑えられなかった。
聞けば聞くほど、犬養の理想はキナと正反対である。
ヤキモチを妬かれて、嬉しくないはずはなかった。
けれど、同時に怖かった。
嫌われるのを恐れて、我儘を言わず、ただ犬養に尽くして縋っていればそんな不安もなかったのかもしれない。
しかしキナの性格からそんなことは無理だった。
今まで一人で生きてきた生活がある。
それで培った性格でもある。
今更変えようとして、変えられるものではない。
それさえ失くしてしまうと、キナはキナでなくなってしまう。
そのプライドだけは、捨てられなかった。
だからいつも、こんな結果で終わるのだろうか、とキナは怒りを滲ませた口許に笑みを浮かべた。
「・・・馬鹿だな、こんな・・・」
 ――好きになったところで、永遠にそれが続くはずはないのに。
ゲイではないのなら、尚更いつか終わりが来ることは知っているはずだった。
節操がないと言われ、遊び人だと思われても、キナは恋愛方面に関してその付き合い方を変えるつもりはなかった。
傷付くのは、一度でいい。
故郷を捨ててきたときに、一緒に忘れていたはずの想いが蘇る。
「あんなこと、一回で懲りろよ、俺も・・・」
気付けば、泣きながら三駅分ほどを歩ききってしまった。久しぶりに自分の部屋に辿り着いたところで、携帯が鳴り響く。
着信相手を見て、キナはそれを切った。
犬養だったのだ。
留守電に残ったメッセージを聞いて、慌てているのかもしれない。
誤解だ、と言い訳をしようとしているのかもしれない。
キナはそう思ってから、笑ってしまった。
 ――あの人が慌てる? 言い訳をする?
キナを繋ぎ止めておくために。
そう思うと一度笑い始めたら止らなかった。
泣き笑いになっている、と知りながらも、笑ってしまった。
 ――そんなことをして、何になる?
追ってくるのは、恐怖だ。
何か解らないけれど、それに捕まったらもう戻って来られない気がした。
笑って目を逸らして、誤魔化せるならどんなことをしてもそうする。
キナにも解っていた。
現実を、直視したくないだけなのだ、と。
 ――子供だな、俺。
知りつつも、これ以上自分を傷つけたくない、と防御のつもりで、耳を塞いだ。
携帯の電源を落とし、すっかり埃っぽくなってしまった部屋に荷物を放り込んでまた外に出た。
「こんな夜に、一人でなんて居られないよなぁ」
呟きながら足取りは確かに慣れた友人の家に向かっていた。
もうあの隠れ家のようなバーには行けない。
他に行き付けの店は落ち着けるような場所ではない。
騒いで忘れたい気分ではあるけれど、大勢の中にいるとますます孤独を感じてしまいそうだった。
一人だ、と確認してしまいそうだったのだ。
夜も更けているけれど、連絡をしなくてもこの友人は家にいるはずだった。
通いなれたマンションを訪ねて、出迎えた相手に笑った。
「春則、身体空いてるよな? セックスしよ」
いつのまにか涙も止ってしまっていることに、キナはその時になってから気付いた。


to be continued...

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