いつか雪の降る街で  2





「もう一杯! スクリュードライバー!」
「ウォッカ抜きでしましょうか?」
「それじゃただのオレンジジュースじゃん!」
「そうなりますねぇ」
「客の注文が聞けないの! この店は! だからいつまでたっても流行んないんだよっ」
「流行らなくて結構ですから」
カウンタの中で怒りのままのキナをあっさりとあしらう相手を睨みつけて、キナは呻りながら綺麗に磨かれたカウンタに額を乗せた。
街中にひっそりとあるバー「ネム」は相変わらず店員はマスターの松下一人きりで、客もカウンタにキナが座るだけだった。
ちいさなソファボックス席も掃除が行き届いていて綺麗ではあるけれど、そこに座る客はまだいない。
しかしまだオープンして一時間もならず、また平日の最中で宵の口ならばこんなものだ。
このバーのマスターは以前、素顔を隠すようにしていたけれど今はまったく雰囲気を変えて、すらりとした姿態に似合う綺麗な顔を見せていた。
そのお蔭もあってか、このバーは以前より客数が増えたのだ。
けれど元々特殊なバーでもあり、静寂を好む客層が多かったためか口コミで広がるのも多くはなかった。
来る客はマスターが顔を覚える常連がほとんどで、特にキナは少しプライベートでも絡むことがあって常連の客以上に親しい。
松下はカウンタの中でグラスを磨きながら、
「また喧嘩ですか、仲が良いですねぇ。痴話喧嘩は犬も食わないって本当ですかね」
「うるっさいなぁ! そんなんじゃないよっただ、犬養さんが勝手に怒ってるだけだもん」
とっくに成人している歳であると言うのに、子供のような口調が似合ってしまうキナに松下は苦笑してしまうしかない。
 ――弁護士さんも、苦労するはずだ。
その気持ちはしかし口には出さず、
「怒らせたまま、お仕置きされる前に帰ってご機嫌を取ったほうが良いと思いますけどね」
「お・・・っお仕置きってなんだよ!」
「なんだもなにも・・・いつもされてるでしょう?」
可愛がられているくせに、と松下が笑顔の下に含んで返すと、キナは頬を染めて睨み返し、
「そんなこと、されてたまるか! 俺が悪いんじゃない! 犬養さんのセックスなんて、ただしつこいだけだ!」
「しつこいんですか」
「しつこい! いい歳したオッサンのくせに! いつまでもいつまでも、あのエロオヤジ・・・っ」
そうさせているのはキナのせいだ、と松下は口には出さず、
「三十代でオヤジになるんですか・・・」
自分もそう言われてもおかしくないかもしれない、と吐息を零す。
それにキナはスツールに座りなおして、
「・・・そういえば、マスターって何歳? 犬養さんくらい?」
「弁護士さんよりは、年下ですけどね。どうしてです? 老けて見えますか」
「ううん、若く見える。でも、そうやってカウンタで落ち着いてるの見たら、年齢不詳」
素直に答えながらまじまじと相手を見ても、その肌は自分と変わらないかもしれない、とキナはいつも思うのだ。
カウンタの中で相手はグラスを取り替えながら笑って、
「それはどうも?」
そのあしらう仕草にも、キナは思いついて相手を覗き込んだ。
「なぁ、マスターって、どうなの?」
「どう、とは?」
「性欲。昔と今と、やっぱり違う? 少しは衰えるもの?」
「・・・・・・・」
いきなりのキナの質問に、その内容にも松下は慌てることはなく、しかしこめかみを押さえるように目を伏せた。
この衒いのなさが若さなのだろうか、と思いながらも、
「秘密です」
一言、答えた。しかしキナはそれで納得することはなく、
「なんで! 俺も教えるからさぁ!」
「結構ですよ。キナは今も、きっと十年後も一緒だと想像付きますから」
「何言ってんだよ、十年後はもっと大人になって、色気も付いてるよ」
大人の色気が、と言うキナは自分がまだ若い子供だ、という自覚はあるつもりだった。
けれどカウンタの中で、松下はグラスを拭く手を止めて苦笑してしまった。
スツールに座るキナは今日もその外見に似合う格好をしている。
スタイリストという職業とはいえ、その本人がこんなに綺麗に纏まっていても良いのだろうか、と松下は疑問に思うところだった。
肩先までしかないシャツは襟を立てて、前は胸元まで大きく開けてしまっている。
そこからシルバーのアクセサリが覗いていて、腰のラインで穿くバギーパンツは、ごってりとしたビーズで飾られたバックルの付いたベルトでますますその細さが強調されているように見える。
左腕にレザーベルトの大きな時計と、右腕には麻の紐を何重にも巻いてブレスにしている。
顎のラインを見せるようにシャープにカットされた髪は表情をはっきりと変える顔によく似合っていた。
十年後の色気と言うけれど、すでに充分男を惹き付ける要素は備わっている、と松下は溜息を吐いた。
犬養がヤキモチを妬き続けて不機嫌になるのも解らないでもない、と思うのだ。
そんな松下をキナはもういい、と会話を打ち切るように、
「お代わりちょうだい」
カクテルグラスをカウンタの向こうに押しやった。
松下はそれに視線を落としながら、
「何杯目だと思ってるんです?」
「まだ5、6杯しか飲んでない!」
「・・・キナが強いことは知っていますけど」
「小学生から飲んでたからね」
「・・・・どういう教育をされてきたんです?」
「子供でも酒を飲む環境だったの」
どんな環境だ、と思いながらも松下は詳しく訊くことはなく、
「せっかくのお酒を、味もないように呷る相手に入れたくありません」
きっぱり言われるように、キナは作って出されるそれを一息で飲み干すようにグラスを空けてきたのだ。
度数のある洋酒でも飲んでいればペースも落ちたかもしれないけれど、今日のキナはそれを飲みたい気分ではない。
松下の言い分も理解できるキナは拗ねたような顔を隠さず、
「・・・・ソルティドッグでもいい」
「ウォッカ抜きで?」
「だからそれじゃグレープフルーツジュースだって・・・!」
「シャーリーテンプルならすぐ作りますよ」
「それただのジュースじゃん!」
また言い合いを始めたところで、入り口のドアがカラリ、と鳴った。
この状況で現れる相手を想い描いて、キナは慌てて振り返る。
けれど、そこに立っていたのはサマースーツを崩した男だった。
「今日は早いですね?」
声をかけた松下は、その相手に挨拶のひとつもなくそう首を傾げる。
「そうか?」
短く答えたのは、常連だけが知る松下の恋人、楷薙だった。キナはそれにはっきりと警戒の色を見せて黙り込む。
あまり会話と言う会話をしたことがないけれど、この相手には良い印象がないのだ。
さらに犬養とタッグを組めばなんだか考えたくないようなことになりそうで接点をなくしたい、とキナはここ最近この店に来るのさえ躊躇いがちだった。
そして松下の恋人が来れば、このバーは閉店になるのが最近の流れで、
「上がってる」
「はい」
楷薙は一言言っただけで、カウンタの横を通りその奥の、二階の住居部分へと続く階段を上がっていった。
キナは小さく息を吐いて、
「・・・・帰る」
「まだ、いいですよ」
立ち上がったのを松下はあっさりと引き止める。
「でも、あの人来たし」
「子供ではないのですから、暫く一人でも平気です」
言われて、キナは松下が気を遣ってくれているのが解った。
詳しく何があったのか言っていないにしろ、犬養との間にまた確執が出来たのを目敏く気付いたのだろう。
しかしキナはもう一度首を振って、
「ううん、やっぱり俺も、帰る。家に寄らないで、今日ここに来ちゃったし」
立ち上がったキナの足元には、その細い身体で持てるのかどうか怪しいほど大きな鞄があった。
仕事帰りのまま、ここへ来るのはやはり珍しいのだ。
犬養と顔を合わせるのを、子供のように拗ねて避けてみたけれど、実際にずっと避けてなどいられない。
犬養と会わずにいられることなど出来ない。
喧嘩をしていても、怒って怒られていても、キナは犬養に会いたいのだ。
それほど思い込んでしまっている自分に少なからず呆れながら、キナは松下に付き合ってくれた礼を言って鞄を抱えた。
あの広いマンションに帰り、犬養が帰っていないならそれを大人しく待ちたい。
もし先に帰っていたら、朝の怒らせてしまった誤解を解きたい。
きっと、他愛もないヤキモチだったと、犬養は赦してくれるはずだ。
何しろ、キナが不安に思うほど犬養はキナに惚れているようなのだ。
キナが感じるほど、それはよく解っているつもりだった。


マンションに帰ると、そこにすでに持ち主の靴が揃えてあった。
「あ、帰ってる」
キナは玄関を慌てて上がって、リビングに顔を出した。
けれどそこに犬養は見当たらない。
耳をすませば、廊下の向こうに人の気配を感じる。
浴室のドアが開いて、中から水音が聴こえる。キナは少し息を吐き出してリビングに戻った。
自分の多すぎる荷物を片付けようかとしたところで、携帯ではなく、家の固定電話が鳴り始めた。
「・・・あー、どうしよ」
迷ったのは、キナは犬養の電話に出るつもりがないからだ。
ほとんど一緒に住んでいる状態とはいえ、キナ自身にかかる連絡は携帯のみで終わる。
犬養は仕事の件もあるのか、時折固定電話を使用しているようだった。
シャワーを浴びている犬養に伝えるかどうか、迷ったところでコール音が切れ、留守番電話に切り替わる。
聴こうと思ったわけではない。
ただ、その場所に居れば必然的に音が聴こえてしまっただけだ。
「・・・川内だ、今日はいきなりですまなかった。突然で戸惑ったかもしれないが、相田くんを責めるのはやめてやってくれ。私が無理に頼んだんだ。だが、いい女性だっただろう、君が結婚相手の条件につけたものを、全てクリアしている素晴らしい女性だ」
耳を塞いでしまいたかった。
キナは今すぐ、流れてくる声を止めてしまいたかった。
けれど意思とは逆に足は、身体は動いてはくれなかった。
録音されていく声が終わるまで、キナはリビングで立ち尽くしてしまったのだ。


to be continued...

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