いつか雪の降る街で  1





夢を見た。
キナは、夢の中でこれは夢だ、と知っていた。
けれどそれはあまりに鮮明で、そのうち本当に夢なのかどうか、境界線が解らなくなってしまった。
一年の半分が雪に覆われるような街で、それと見分けが付かなくなるような生き物は、姉が拾ってきたと言うのにその世話のほとんどをキナがしていたため、それはキナのものだった。
高校を出てから勢いで飛び出した未練も何もないはずの街を、今でも思い出すのはそれが居る風景だけだ。
 ――草介さん
キナは夢の中で、真っ白な相手を呼んだ。
雑種のくせに、身体も大きく毛足も長い、犬である。
キナを見れば、いつも嬉しそうに駆けてくる。
小さなキナも、草介が誰より好きだった。
その名前を付けたのは、拾った姉である。
その当時好きだった相手の名前だとかで、年の離れた姉に、そのころキナは敵わなかったのだ。
しかし姉が結婚した相手はその名前の相手ではなく、草介はキナが付けた、と姉は今でも誤魔化す。
朝、いつまでもベッドでまどろんでいる中学生のキナを、散歩に行こう、とその鼻先を摺り寄せて顔を舐めるのは草介だった。
「ん・・・っ草介さん、やぁだよ・・・もうちょっと、寝かせて」
ベッドに前足を乗せて、布団に潜り込んだキナを探すように鼻先を近づける。
口ではやめて、と言いながらも、キナはそんな草介が可愛い。
急かされるのを嬉しく思ってしまう。
くすぐったさに思わず笑ってしまう。
「草介さん、んっ・・・や、くすぐったい、って・・・」
身を捩りながら押し返して、手が何かに触れるのに気付いた。
 ――あれ? 夢だっけ?
もう、草介は居ないのだ。
まだ中学生のキナの腕の中で、静かに息をしなくなった瞬間を覚えている。
その時は悲しくて悲しくて、世界が終わってしまうような気持ちだったけれど、幸せな思い出としてあるのは、悲しいときより嬉しく楽しいときのほうが断然多かったからだ。
今も思い出す、半ば捨ててきた故郷の夢は草介のものだけだ。
それ以外は、思い出したくない。
決別を決めた、家族と思い出の残る街を、思い出そうとすれば全てが飛び出したあの日に繋がってしまう。
それは暗く辛いだけの記憶で、出来るなら蘇らせたくない。
キナは柔らかな夏布団にシャツと下着だけだった身体を絡ませて、ぼんやりと目を開いた。
「・・・・草介、さん?」
つい、口から出てしまったのは、夢と言うにはあまりに鮮明すぎる残像のせいだった。
寝室には一人だけだ。
見渡しても、ベッドの下にその姿はない。
「・・・あれ?」
確かに、誰かが触れた気がした頬を撫でて、身体を起こした。
寒くも暑くもない温度に保たれた空調の部屋で、やはりキナは一人きりだった。
見渡した部屋は広い。
寝室と呼ぶに相応しく、大きなベッドがあるだけだ。
この持ち主はキナよりはるかに良い体格をしているけれど、これを一人で使おうと思って購入したとすれば素晴らしく寝相が悪いのかそれとも狭いところが嫌いか、どちらかだと思うほど大きなベッドだ。
キナはその寝室を出て、その相手を探した。
ちょうど物音が聞こえたほうに足を向けると、玄関でスーツ姿の背中が見えた。
「犬養さん」
夏だと言うのに、きっちり着こなしたスーツを乱しもしない男はこの部屋の持ち主である、弁護士の男だった。
そして、キナの恋人でもある。
一緒に暮らそう、と言われ続けながらも、キナは自分の部屋をまだ片付けられずにいた。
しかし今はほとんどここに住んでいると言ってもいいほど入り浸っているので、犬養も最近それを口にしない。
革靴を履き終えた犬養に、
「もう行くの?」
「朝だからな。世間では一日がもう始まっている時間だ」
寝起きの格好で問いかけると、振り向きざまに低く言葉を投げつけられた。
その視線と声に、どこか怒っているような気がしたのはキナの思い込みではないような気がする。
スタイリストという職業上、キナは時間に不規則な生活だった。
朝早くから始まることもあれば、夜中を過ぎてもまだ仕事中だったりもする。
今日も昼からの打ち合わせが一日の始まりの仕事だ。
対して犬養は、自分で開いた弁護士事務所を抱えているのでほぼきっちりとした時間に出勤してゆく。
違うのは毎日の帰宅時間くらいだ。
仕事のあるときは遅くまで残業しているようだし、休日もない。
さらに家にまでそれは持ち帰ってもいる。
相手の機嫌の悪さを感じながらも、キナは深くまで気にせず、
「ねぇ、さっきさ、俺の・・・」
「悪いが、急ぐからもう出る」
「あ、ちょ・・・っ」
言いかけたキナの声を遮って、犬養はそれだけ言うとさっさとドアを開けて出て行ってしまった。
バタン、と閉められたそれを見て、キナは寝起きの頭で徐々に怒りを込み上げさせる。
「な・・・・っなんなんだよ!!」
きっと昨日までなら、犬養は見送りに来たキナに熱い抱擁をして名残惜しむように出勤するはずで、キナの言葉を聞きもしないことなどなかったはずだ。
その態度がはっきりと怒っていることを見せていたけれど、それに対してキナも機嫌を悪くしてしまった。
久しぶりに見た夢の中で、夢だと思っていたけれど、本当に誰かが頬に触れ、髪を撫でてくれていたのかもしれない。
そう考えると、相手は一緒にいる犬養でしか有り得ないのだ。
それを確かめようとしただけなのに、犬養は不機嫌なままキナに背を向けた。
 ――ヤキモチ妬きだから。
キナは閉まったドアを睨みつけて、手をぎゅっと握り締めた。
実際に、草介の名を口にしていたのかもしれない。
触れている犬養にとって、それは機嫌を悪くするには充分な要素だった。
もしそうならちゃんと説明しようと思っていたのに。
「――草介さんは、犬だぞっ?!」
もう聴こえない相手に向かって、キナは気持ち良く目覚めたことを台無しにされた気がして罵った。
「犬養さんの、バカっ」
キナにとって、犬養は本気で、長く付き合っていきたい恋人だった。
年齢も離れているし、生活圏内だってまったく違う。
すれ違う接点すらなく、あるとき犬養に舞い込んできた依頼さえなければ、一生出会うことすらなかったかもしれない。
そんな相手と出会えたのは奇跡としか言いようがないし、また続いているのも、奇跡だ、とキナは思った。
完全にゲイのキナと違って、犬養はキナと出会うまで同性をそういう対象としてみたことがない。
完全なヘテロの相手に惚れることほど、怖いものはないとキナは思っているのに犬養はそんなキナの気持ちを一蹴してしまう。
その深い気持ちが、やはり怖い。
それを失うことが、怖い。
犬養にのめり込めばのめり込むほど、キナは不安が募るのだ。
 ――好きな、だけなのにな。
ヤキモチを妬かれることは、実は嫌ではない。
キナを好きだから、起こる感情だからだ。しかし機嫌が悪く、こうして喧嘩のようになってしまうと不安でどうしようもなくなってしまう。
捨てないで、傍にいて、と縋ってみれば犬養は機嫌を直すのかもしれないが、変にゲイとしてのプライドがあるキナは、それがどうしても出来ずにいた。
 ――仲直り、すぐ出来るかな・・・
独りになれば、怒りを持続することが出来ずただキナは俯いて寂しさだけを表情に出して、溜息を吐いた。


to be continued...

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