いつか雪の降る街で 11 キナが帰郷して、すでに五日が過ぎた。 休みは一週間きっちりしか予定していないため、明日には東京に帰らなければならない。 さらに住民票だの保険だのとしつこく言う千夏のお蔭で、帰ってすぐに慌しくしなければならない。 そんなこともしかし、今はどうでもいいか、と穏やかに田舎の短い夏を過ごしていた。 始めに、義兄になった誠人に感情を漏らして以来、キナは泣いてはいない。 元々、気持ちを整理するために帰郷したことで、キナはずっと頭にあった犬養の顔をぼんやりと思い出す程度にしていた。 携帯の電源は入っていても、あの日眠っている犬養と別れて以来一度も連絡はない。 キナからすることもない。 今までずっと引っ掛かっていた蟠りが無くなると、キナは何を悩んでいたのか、と考えるほど穏やかにぼんやりとしていた。 七年も音沙汰無かったキナが帰ってきたと近所中が知ると、次々に知った顔が現れては心配していたと怒られ元気そうで良かったと喜び騒いで行く。 変わらない田舎の付き合いに懐かしく思いながらも、やはり戸惑いもあってその喧騒から逃れよう、とキナは草介さんに逢いに一人で出かけ、山の麓にある神社に登った。 一番下から続く石段を上がると、神社の本殿がある。 その裏にはまたもう一つ石段があり、山の中腹まで登り続けると祠があるのだ。 しかしそこまで登る人間は地元でもあまりいない。 キナはそれを知っているから、黙々とその石段を上まで登った。 見下ろせば小さな村がほとんど見渡せるほどの絶景で、キナは秘密の場所だ、と子供の頃から一人になるときはここに来ていた。 懐かしい景色を眺めつつ、キナは携帯を取り出した。 ギリギリではあるが、圏外ではない。 それでも、なんの反応も無い画面を見て、小さく息を吐いた。 ぼんやりと思い浮かべるしかないのは、キナが意識的に拒否しているからだ。 考えれば考えるだけ、思考は深くなりそして答えは無い。 考える、と言って出て来たものの、キナは何を考えたらいいのかすら解からなくなってしまったのだ。 犬養の気持ちを疑うわけではない。 疑うことが出来ないほどだからこそ、その後が怖くて仕方ないのだ。 犬養の顔を思い出すと顔を顰めてしまう。 苦しいほどの気持ちがあって、こんな想いをするならいっそ忘れてリセットしてしまいたい、と願うのにそれはいつまで経っても叶えられない。 もう景色も見ていたくない、と石段に座った膝に額を乗せてキナは顔を伏せた。 手にただ、鳴らない携帯を握り締めたまま時間だけが過ぎていくのを感じていた。 七年も時間が経てば、あんなに苦しかったはずの家族との蟠りもなくなってしまっていた。 では、あとどれくらい犬養に逢わないで過ごせば、この気持ちが落ち着くのだろう。 キナはそれが永遠に来ないような気がして、考えたくないんだ、と唇を噛み締めた。 ザッと誰かが石段を上がってくる気配に気付いたのは、その相手が目の前に来るほど近づいてからだった。 広くはない石段に座り込んでいたキナは、ここまで来るなんて観光客かそれとも神社の人か、と考えてしかし邪魔になるからどかなければ、と顔をゆっくりと上げた。 そして、目の前に相手を見て声も動作も失くした。 「・・・・・」 その時の驚愕は、心臓が止まったのでは、と思うほどだったのだ。 石段に座り込んだキナの前に立つ、観光客でも神社の人間でもない男。 涼しげな麻のスラックスに、薄い水色のシャツ。 ジャケットは下と揃いだけれど肩にかけて、落ちないように指先に引っ掛けている。 もう片方の手には、半分ほど吸った煙草から紫煙が流れていた。 の匂いは、キナの全てを一人の男に結び付けるほど嗅ぎ慣れたものだった。 「い・・・犬養、さん?」 「なんだ」 呼びかければ、あっさりと返事が来る。まるで幻では、と疑うのを打ち消すような、いつもの声だった。 「ほ、本物?」 「俺の贋物を他にどこかで見たのか」 その答えは確かに犬養らしいものだったけれど、キナはしかしどうしても信じがたい、と目を瞬かせて、 「だ、だって、なんで、ここ、」 ここはいつもの部屋ではなく、そして犬養に一度も教えたことのないキナの地元なのだ。 犬養はそんなことか、とただキナの手に握られた携帯を示して、 「電源が入ってる」 入っていれば、GPSの機能が働くようだった。 キナは頭を抱えそうに俯いて、 「・・・・っだから、それって犯罪なんじゃないの・・・っ?!」 「安心しろ、お前にしか使わない」 俺にだって使うな、と言いたいけれど、静かに紫煙を吹き出す相手には何も通じないのかもしれない、とキナは溜息を吐いた。 あまりに変わらない犬養の態度に、驚いたもののキナは諦めて溜息を吐くしかないのだ。 考えて考え抜いても、答えが出てこない。 もう考えることも放棄しようかと思っていたけれど、不意に犬養の顔だけは忘れられない。 キナは自分の思うようにならない感情も、全て目の前に居る男のせいだ、と睨み上げて、 「・・・・ここっ、禁煙だと思うよっ」 「そんな看板は見なかったな」 「なくても、普通そうなんじゃないの?!」 少なくとも、この境内の中で喫煙している誰かをキナは見たことがないのだ。 犬養は短くなったそれをポケットから取り出した携帯灰皿に押し消し、そのまま収めて、 「・・・落ち着かないんだよ」 「・・・え? なにが、」 「空気が綺麗過ぎて、落ち着かない。汚さないと立っていられない」 「・・・・・・」 犬養のあっさりとした感情は、今までのどの言葉よりも本心に聴こえて、キナは目を瞬かせて驚いたものの、堪えきれず笑った。 「っふ、はは、なにそれ。変だよ、犬養さんってば」 それを、犬養にじっと見下ろされて、キナは慌てて声を収める。 笑ったのが気に障ったのだろうか、と心配したのだが、犬養は深く溜息を吐いて、 「久しぶりだな」 と呟いた。 今更、ここに現れた挨拶だろうか、とキナが首を傾げると、 「久しぶりに、お前が笑っているのを見た」 あまりに真剣な声で、言われた。 犬養の声につられて、キナも表情を改めてしまう。 「傍でずっと笑っていて欲しくて、俺だけを見続けていて欲しくて、お前を捕まえていたはずなんだけどな」 「・・・・・・」 「キナ」 いきなり切り出された犬養の声は、言葉は、ずっと犬養のことを考えて答えを出せなかったキナを硬直させるほど、頭の中に厭な音が鳴り響くほどの威力があった。 聞きたくない、とどこかで感じているのに、キナはただ犬養を見上げてその口が続きを言うのをじっと見ているしかできない。 犬養の唇が、躊躇いなく動いて、 「俺の気持ちは、必要ないか。お前には――迷惑にしかならないか」 キナはただ犬養を見上げながら、自分が今、呼吸をしているのかすら解からなかった。 |
to be continued...