いつか雪の降る街で 10 慌てて涙を擦ってドアを開けたけれど、キナの顔を見た誠人は苦笑して、 「相変わらず泣き虫だな、キナは」 「そ、そんなことない、よ。先生、どうしたの」 誤魔化しきれないと解かっていても、キナは言葉で否定して見せて相手を迎え入れる。 傍にいることが、千夏の傍に居られることがあんなに苦しかったというのに、今はそれが当たり前のようにキナは受け入れられた。 その自分の気持ちが変化していることにも驚きつつ、つい慣れた呼び方をしてしまった。 誠人はそれに笑って、 「俺はもう先生じゃないよ」 「・・・・だって、なんて呼んだらいいか、わかんないし、」 「まぁ・・・キナが呼びやすいのでいいけど。ほら、千夏が食べろって」 そう言って差し出した手にはおにぎりとお茶の乗ったお盆があった。 「あれだけじゃ、絶対にお腹が空くからって、足りないだろ?」 「・・・・・・・」 確かに、足りなかった。 泣いたせいでさらに消耗した気がした。 しかし全てを読まれている気がして、キナは素直に受け取れなかった。 「・・・食えっていうなら、食うよ」 「っは! はは、お前、全然変わってないな・・・」 それすら誠人には笑われたが、キナはもういいや、とそれを受け取り大人しく食べることにしたのだ。 テーブルのないキナの部屋に二人で床に座り、キナはさっそく握られたばかりの暖かなおにぎりを頬張る。 誠人はただ、食べ終わるまで穏やかにそこに居るだけで何も言わない。 キナも何を言えばいいのか解からず、黙って食べ続けた。 最後のご飯を飲み込んで、お茶を飲んだところで誠人の手がキナの頭を撫でた。 「・・・先生?」 「キナ、ごめん」 「・・・・・」 いきなりの謝罪が何に対してなのか、キナは測りかねた。 キナを追い詰めたことに対してなら、当然の言葉なのだが、今の家族を見れば誠人の選択が正しかったのだ、とキナも解かる。 「せ、先生、俺・・・」 「お前を傷つけたのに、助けてやるどころか、俺が追い込んだよな。本当に、悪かった」 「・・・・あ、だ、だって、」 「千夏には言った」 「――――え?」 さらりと言われた言葉に、キナはその意味を考えて固まった。 何を言ったのか、疑って誠人を見ても、そこには真剣な顔しかない。 「お前と付き合っていたことを、ちゃんと話した」 「な・・・・・んで?!」 キナは驚愕するしかない。 穏やかに生活を続けているところに、不必要な波紋を立てることはない、とキナは驚いたのだ。 けれど誠人は首を横に振って、 「もう、五年前に、だ」 「・・・ご、五年って、」 「ミナが、産まれたときかな・・・小さい子供を見て、それが本当に可愛くて、どうしようもなく自分が情けなくなって――涙が出て。お前を傷つけて、一人にさせて、追い込んだ自分がどうしても許せなかった」 「そ・・・そんな、こと、だって、」 最早うろたえるしかないキナに、誠人は大丈夫だ、と笑って、 「うん、それは俺の自己満足に過ぎないというか――千夏に許しを請うても許してはくれないとも思ったけど、キナには許してもらえないと思いながらも、千夏に惚れてるし、産まれたばかりのミナも可愛い。あの時はさすがに――離婚されるかと思ったけど、どうにか許してもらえて、」 「り、離婚って、なっちゃんが?」 疑いつつも、あの気性の千夏ならその勢いもありえる、とキナは今更と知りながらも焦ってしまう。 「俺――俺、今、先生のこと、怒ってもないよ、なっちゃんと一緒にいるの、幸せそうだなって、ちゃんと思ってるよ、だから・・・」 「・・・キナ」 誠人は穏やかに微笑んで、キナの髪を梳いた。 「お前は本当に変わってないな、もっと我儘になったっていいのに、どうしてそんなにいい子なんだ」 「・・・・い、いい子って・・・先生、俺、もう25なんだけど」 「はは、そうだっけ? でも変わってない。いい子だ」 「・・・全然、いい子じゃないよ、俺。それに・・・あの頃は、先生が・・・いい子にしてろって、いっつも言ってたんじゃん」 「・・・ああ、そうだっけ、そういや俺言ってたな、そんなこと。うわー俺酷いヤツだな昔から」 「そうだよ、生徒に手ぇだす酷い先生だよ」 キナは笑った。 笑いながら言えたことに、今まで背負っていた何かが降りた気がした。 微笑んだキナに、誠人も笑って、 「・・・で? 今付き合っている人は、どうした? ケンカか?」 「・・・・・・・だから、付き合ってなんか、ないってば」 「っふは、だから、その顔で言うなって」 充分に拗ねたような顔になっていたのに、キナは笑われてから気付く。 最早隠しても仕方ないと感じて、キナは深く溜息を吐いた。 いつまで経っても頭から消えないままの男が、キナの中にいた。 付き合っていないと言いながら、思い浮かべるのは一人の男だけだ。 「こ・・・恋人とか、付き合うとかじゃ、なくて・・・ただ、セックスしてるだけで良かったんだけど、」 笑顔のままだったキナは、徐々に顔が俯いて、誠人の顔が見えなくなると完全に笑みは消えた。 ただ気の合うセックスフレンド。 その関係だけを求めたはずだった。 キナはいったいどうして、どこからこんなにも変化したのだろう、と疑問が湧いた。 「犬養さん、男に興味なんかなかったのに、俺なんかに手ぇ出しちゃって・・・」 「犬養さん、って言うのか?」 「・・・うん、犬養さん、弁護士なんだよ? ちょっとさ、大変じゃん、そんな人が男と付き合ってたらさ、だから俺、結婚してって頼んだのに・・・女の人と付き合って、俺は浮気相手でいいって、言ったのに・・・」 「キナ」 いきなりの告白に、誠人の声が硬くなる。 しかしキナ本人はそれに気付くことはなく、零れ落ち始めた気持ちにどこで止めればいいのか解からず、俯いた顔からただ声が流れた。 「なのに、結婚してくんないし、俺のこと本気だとか言うし・・・っ」 「キナ、それはお前・・・本気で惚れられてるんじゃないのか? 何が厭なんだ?」 「本気なんかやだよ」 何が厭なんだ、と同じ質問をされた、とキナは顔を上げて誠人を睨む。 その顔が濡れているのにも気にせず、キナは相手を見た。 「本気になんかなりたくないし、なって欲しくない」 「・・・・キナ?」 「好きになんか、なりたくないのに・・・っ」 「キナ、どうして・・・好きなら、それでいいんじゃないのか?」 戸惑った誠人にキナはただ首を振って、否定する。 それでは、駄目なのだ。 キナが本当に安心出来るのは、それではない。 「怖い・・・」 「怖い?」 「振られたら、俺どうすんの? もう、きっと・・・立ち直れないよ」 だから、怖い。 誠人は、両思いの幸せの中にあるはずのキナの感情が読めなくて眉を寄せて、 「まだ、振られてなんかないだろ? 本気で惚れられてるのに、どうしてそんなことを考える?」 「先生だって、本気だって言ってた」 「――――」 相手が本気になればなるほど、キナは感情にブレーキがかかる。 嬉しく思いながらも不安に堕ちる。 その全てが、初めてした恋愛のせいだと言われれば、誠人は愕然として子供のように涙を流すキナに動揺した。 「キナ――」 泣き顔を引き寄せて、しっかりと抱きしめた。 ただ、自分に出来ることはそれしかないのだ、と誠人は自分のしたことがキナをどれほど傷つけたのか改めて知って、ただ後悔した。 「ごめん・・・悪かった、キナ、全部、俺が悪いんだ・・・お前のせいじゃない。お前を好きだって言う、犬養さんも俺とは違う。だから、信じてくれ」 信じる? キナは必死になる誠人の声に、ぼんやりと頭に浮かぶ相手を思い首を傾げた。 ――どうやって、信じるの? |
to be continued...