お願い、サヨナラと言って 9 高校の卒業を間近に控えた日だった。 「颯太?」 呼ばれて、颯太は振り返った。 「・・・・っなに、してるの・・・・っ」 母親が、驚愕の顔で立ち尽くしていた。 颯太が座っているのは、母親の鏡台である。目の前に広げているのは、母親の化粧道具だ。 楓子の為の服を着て、母親の鏡台に座り、颯太は黙って手を動かした。 驚いた母親を見て、笑った。 「ママ」 「・・・颯太・・・っ」 母親は声も出ないようだった。 颯太は、颯太ではなかった。 もう少女の声ではないというのに、相手を「ママ」と呼び、幼い笑顔で笑いかける。 その顔は、少女ではない。 思いついたように母親の化粧道具を取り、顔に思うように塗った。 化粧の仕方など、習ったこともない。 幼い子供がするように、歪な顔がそこにあって、歪むように笑っていた。 「ママ、僕、可愛い?」 褒めて欲しくて、可愛いと言って欲しくて強請る息子に、母親はヘタリ、とそこへ座り込んだ。 「颯太・・・っなんで、どうして・・・っ?」 息子の異変を感じて、動揺した母親と一緒に、父親もそんな颯太を見て愕然とした。 「颯太、もう、楓子の真似はしなくていいんだぞ? お前は、颯太なんだから・・・っ」 必死になる父親に、颯太は小さく首を傾げた。 「僕、颯太だよ? なに言ってるの、お父さん? お母さん、勝手に借りてごめんね、僕、ちゃんと出来てる?」 颯太は颯太だ。 自分で分かっている。 楓子ではない。 そこにいるのは、少年なのだ。 少女になりたかった、少年だった。 「僕、こういう格好がしたかったみたい。ずっと、このままでもいいみたい。だからお母さん、僕、このままでいいよ」 両親の嘆きは楓子を失くしたときよりも、酷かったかもしれない。 けれど、颯太は笑った。 異変に駆けつけた小母の一家も、颯太の変化に声もなかった。 高校を卒業した颯太は、家を出た。 母親は口を噤み、何も言えなかった。 父親は目を伏せ、声を出せずにいた。 颯太は、両親を傷つけたとはっきりと分かった。 両親を助けていたはずの息子が、一番酷く二人を傷つけた。 息子をこんなにしたと負い目のある両親が、変わってしまった息子に何か言えるはずがなかった。 颯太は、そのために罪を押し付けた。 傷付いた自分と同じくらい、傷付いてしまって、もう颯太を思わないで欲しかった。 いないものとしてくれれば良かった。 それまで一緒に育ってきた、いつも隣にいた修也にも声をかけることなく、逃げるようにその家を飛び出した。 それまで箱入りの状態で育てられた颯太が、外へ出て何が出来るはずもない。 行くあてすらない。 彷徨うように、街を歩いた。 その人にあったのは、その時だった。 松下正之助―まつしたしょうのすけ―身なりの良い、老紳士だった。 松下に出会ったことが、颯太にとって一番の幸運だったと言える。 箱入りの状態で育ってしまった颯太は、これから何をするべきか、何をすれば生きていけるのか、何も知らなかったのだ。 ただ、あの場所に居られない、という理由だけで飛び出した。 半ばどうなっても良い、というぼんやりとした颯太を、松下は連れ帰り拙く離す颯太の想いを聴いてくれた。 颯太を哀れに思ったのか、それは颯太も知らないままだった。 一度も聞いたことがないまま終わってしまった。 それでも、颯太はこれ以上にない愛情を受けたということだけが分かる。 身寄りが独りもおらず、このまま孤独に死んでゆくだけだったという松下に、颯太は出来るだけ側に居た。 松下の残す全てのものを受け取ってあげられるように、努力もした。 松下が息を引き取るときは、全てのものが真っ暗になるほど悲しんだけれど、颯太の人生は終わらなかった。 それはどこかで、待っていたからかもしれない。 未だ、気持ちの整理が付かない自分に。 終わりを迎えられないまま、宙に放り出された幼い颯太に。 いつか、終止符を打つ瞬間が訪れるかもしれない、と。 そのときが来たら、自分はどうするだろう? 颯太は考えたけれど、すぐにそれを放棄した。 仕方のないことだった。 そうなれば、そのときまた、考えれば良いのだ。 |
to be continued...