いつか降る雨のように 4 ピカピカに磨かれたカウンタ。店の片隅には綺麗に活けられた花。磨かれた床に、汚れひとつないソファ。 夜八時開店のバー「ネム」に、キナは照明が付くとともに足を踏み入れた。 グラスに注がれたいつものアルコールは唇を湿らせる程度で、減る気配がない。 指定席となっているいつものスツールの上で、キナは身体を少し捩りその椅子を回した。 しかし回転するわけではなく、途中で思いとどまってまた戻る。 それを何度となく繰り返し、天井の照明を映す磨かれたカウンタをなにをするでもなくじっと見入っていた。 やはり他に客が見えず、そんなキナだけを相手していたマスターである松下は、 「・・・っもう! 落ち着かないわね本当に! いい加減にしなさいよ!」 キナの名前を下げてあるボトルから、何も言わず自分のグラスへと注いだ。 それを呷る松下をキナはちろり、と視線を向けて、 「・・・なんだよ、回ってないだろ、今日は」 「回ってるほうがまだましよ! 回るのか回らないのか、どっちかにして! うざいから!」 「・・・・マスター、マジでそれ客に対する・・・」 「アンタは客じゃないって言ってるでしょ! 落ち込むなら落ち込むで、本当、どうなっても落ち着かない子ね!」 「・・・マスターに子、とか言われたくない」 「うるさい! 振られたならまたクルクル回ってなさいよ!」 「・・・・・振られてないし」 「その顔でよくもそんなことを言うわね!」 キナのキープしているボトルを飲み、松下は化粧の濃い顔でカウンタに座る常連を睨みつけた。 キナはむっ、とまるで子供のように唇を尖らせ、 「振られてない! つうか、もともとそんな関係じゃなかったし!」 「じゃぁどうしてそんな顔してるのよ、振られてないなら、今までと同じようにセフレとしてだけ付き合ったらいいでしょうが」 「・・・・・・好みじゃないから」 キナの出した答えに、松下ははっきりと顔を顰めさせた。 「アンタね、アレだけ獲物を見つけましたって顔して迫っといて今更なこと言ってんじゃないわよ!」 「うるさいな! もうどうでもいいって、終わったんだから!」 「だから終わったっていうならそこでいつものようにクルクル回ってればいいんでしょー!」 「回ろうが回るまいが俺の勝手だろ!」 「視界に入って気になるのよ、こっちが!」 「ああ狭い店だもんな、また客いねぇし!」 「居ないのはアンタのせいよ! 湿気た顔してウチの雰囲気壊してくれちゃって!」 「そりゃマスターの顔のが酷いだろうが!」 延々と終わりのないような低次元の言い合いを続けたときだった。 カラリ、と狭い店のドアが開いた。 それに思わずカウンタを乗り出して言い合っていた二人は声を止め、一緒に入り口を振り仰ぐ。 「・・・・っ」 それに驚いたのは入ってきたほうだった。 しかしそれも一瞬で、相手を確認したキナは隠しきれない動揺を抑えようとすぐに視線を外しスツールに座りなおし俯く。 それを見て、まず口を開いたのはカウンタの内側に居た松下だった。 「・・・お客さま、ウチはゲイバーです。冷やかしはご遠慮ください」 いつもの松下の声ではない。 怒鳴りあったときでさえ、作った裏声を崩さなかったというのに厚く塗った化粧の下から低い男の声を発した。 初めて聴いた松下の素の声に、キナは驚きカウンタの中を見つめたけれど、松下の視線の先にいた客――犬養には気にもならないことだったようだ。 「申し訳ないが冷やかしに来ているわけではない、それに来たくてここへ来たわけでもない」 久しぶりに聞いた犬養の声は低く、寒い外と変わらない温度に聴こえた。 「来られたくないのなら無理なさらなくてもいいでしょうに」 「仕方がないだろう、ここに来て捕まえるのが一番早かったんだ」 犬養は抑揚もない口調で言って、カウンタに向かったままのキナの隣へ足を動かした。 「どうして電話に出ない?」 俯いたままのキナへの質問で、カウンタの中の松下はとりあえず傍観することに決めた。 低い声に、キナは俯いたままで、 「・・・・登録してない番号には、出ないことにしてるから」 「俺のナンバーを、消したのか」 「消した」 「どうして」 「・・・・もう、関係ないから」 「関係ない?」 犬養の疑問の声は怒気を孕んでいた。 ただ聴いていた松下にも解かったのだ、言われたキナにはもっと伝わっているはずだ。 「どうして関係がない? 遊びだと言っても、飽きたらなんの連絡もなく切って終わるのがお前の付き合いかたか?」 「・・・・・」 「答えろ」 無言で俯いたままのキナに、上からたたみかける様に圧力を込めた声を投げる。 そんな犬養に、キナは胸の中にあった消化しきれない靄が広がった気がした。 気分が悪い。 一方的な怒り。 それをぶつけられて、キナが大人しくなれるはずもない。 元はと言えば、犬養のせいなのだ。 こんなに落ち着かなくなるのも、次の相手を探すためにこのスツールで回れないのも。 考え始めれば、キナは自分がまったく悪くない、と結論を出した。 眉を顰めて漸く顔を上げれば、ヒタ、とキナを見つめる視線と絡む。 けれどキナはそれを跳ね返すように睨みつけた。 「悪いのは、犬養さんだろ? 用があるなら、すぐに訊けば良かったんじゃん、わざわざ抱いてくれなくても答えるくらいしたよ、それともそこまでしなきゃ答えないような厭なヤツに見えた、俺?」 「・・・・それは」 「それによく考えたら、俺答える義務ないよな? ミツミさんの奥さんとかならともかく、なんで関係ない弁護士とかにあんなにいけだかに訊かれなきゃなんないんだよ? 第三者じゃん、関係ないじゃん、全然。守秘義務がどうとかだって、俺には関係ないよな?」 滑り始めた口は、キナの意志では止まらないようだった。 最近臥せるように思い続けていたことが、思ったよりもあっさりと口から流れていく。 キナは自分で言い募りながらも、言っている自分をどこか違うもののように聞いていた。 「怒るの、俺のほうだろ? そりゃ、遊びでいいとも言ったし、誰かの代わりに抱かれるのだって慣れてるけど、傷つかないとでも思った? 嘘つかれて、なんとも思わないとでも思った? 男に抱かれるゲイだけどさ、普通に好き嫌いだってあるし、厭なことされたら同じように傷付く人間なんだけど、男だから大丈夫とでも思った?」 「・・・・そういうつもりで、抱いたわけじゃない」 唸るような、搾り出したような犬養の声にしかし、キナは止まることはなかった。 「じゃぁどういうつもりでやったの。好奇心? 性質悪いよな、ホント。確かに抱かれるの慣れてるけどさ、だから何でもしていいって考えてるのかよ、さぞ珍しいだろうけどさ、男に抱かれて気持ち良い男の身体なんて。でもあんなに遊ばれるようにされて、それでもいいなんて思うはずないだろ?」 「厭だったのか」 「決まってんじゃん。犬養さんからの連絡取んなくなったのは、もうヤダから。それ以外にないよ。もうちょっと相手のことも考える人のほうが良い。セフレだからって、玩具みたいにされるの、我慢できるはずないだろ」 キナは視線を外さなかった。 睨みつけた視線から、動揺し逃れようとしたのは威圧的に居た犬養のほうだ。 キナは言いたいだけ言った。 自分で思うより溜まっていたのだろう、言い切ってかなりすっきりした、と胸を撫で下ろした。 犬養はそれに漸く視線を外し、大きく息を吐き出した。 「・・・悪いが、何か入れてくれ」 カウンタの内側にいた、松下に向かった言葉だった。 「水? アルコール?」 「酒がいい」 注文した犬養に、松下はロックグラスに半分、ウィスキーを入れた。 もう半分を、水で割る。 それでもかなりの濃さのはずだった。 それを犬養は一気に喉へ流し込み、飲み干してもう一度息を吐き出す。 それで落ち着いたのか、伏せた目をキナに向けた。 「・・・・・」 言いたいだけ言い切ったキナに、もう言うことはない。 一度閉じた口を開くことができずに、ただその視線を受け止める。 犬養の口が開かれるのを、ただ待った。待つしか出来なかった。 本当は、このまま出ていきたかった。 同じ空間にいると、そばにいると、胸が痛い。 心が軋む。 熱い目で見つめられた、あのベッドの上の視線に捕らわれるよりも、痛かった。 この感情を、なんと言うのだろう。 遊びだったのだ。 セフレの一人に、嘘をつかれた。 ただ、それだけのはずなのに、心が泣きそうだ。 こんな気持ちは知らない。 もう、逃げ出したい。 キナが耐え切れず足を動かす前に、犬養が漸く口を開いた。 |
to be continued...