いつか降る雨のように 3 「ちょっと! 落ち着きないわね、子供じゃないんだから止めなさいよ!」 いつもの、バーのカウンタだった。 キナは定位置に座り、高いスツールの上で身体を揺らしていた。 回転する椅子を右へ半分回し、また返し左へ半分回す。 その左右の動きをカウンタに手を付きタンブラを持ったままで繰り返していると、カウンタの中からいつもと変わらない化粧をした松下に睨まれたのだ。 「ほっとけよ、いいじゃん、回してないだろ」 「その動きが目障りなのよ!」 「ひど! それが客に向かって言う言葉か!」 「アンタはもう客じゃないわよ! そのにやけたカオ、止めなさいよいい加減に!」 言われて、キナは自覚のなかった顔に手を伸ばす。 「・・・・・そんな顔してるか?」 キナは正面の松下ではなく、隣の相手を振り向いた。 キナは珍しく、友人を連れてここへ来たのだ。 綺麗な顔の友人は、キナのお気に入りである。 洋服や小物、そのヘアスタイルもキナが切っているのだ。 キナよりも少し高い身長で、すらりとした身体はモデルのようだった。 友人はキナが振り向いたのを楽しそうに笑って、 「まぁな、ちょっと見ないな、そんな顔」 「・・・・そ、そうか?」 浮かれているのだろうか。 改めて言われると、そんな自分が恥ずかしくなってキナは落ち着きなく動くのを止めてグラスの中身を一気に呷った。 「・・・おかわり!」 酒の強い友人も、付き合ってもう一杯新しく入れてもらう。 カウンタの中で、松下だけが面白くもなさそうな顔で、 「まったく、ついこの間までセフレでいいとか言ってたのに・・・」 「なんだよ、俺は、別に・・・そんな関係じゃ、」 口篭るように言ったキナに、面白そうな顔をした友人が覗き込む。 「どんな関係なんだよ」 「・・・え・・・っと、だから、たまに会って、飯食ったり、セックスしたり、今までの相手とかわんねぇよ」 「・・・・その顔で言われてもな・・・」 「は?! なにがだよ!」 呆れたように視線を外した友人に、顔が赤いと自覚はあるけれど素直に認められないと刃向かってみる。 そして、その友人の伸びた髪に触れて、 「お前こそ・・・こっち側だけ、伸びたな? また、切ろうか」 「え・・・あ、ああ、うん・・・」 向かって左側の部分だけ、他よりも長くなっているような気がする。 キナが触れたことに、少し戸惑いを見せた友人に、勘が悪くないキナもにやり、と笑った。 「春則、どうして、ここだけ伸びるの早いんだ? お前、ここ触る癖、あったっけ?」 「・・・・・っい、いや、うん、えーと・・・・ほっとけ!」 キナが放っておけるはずはない。 「可笑しいなーお前は遠恋してるって譲二が言ってたけどなー」 「・・・・キナ!」 「はは、いいじゃん」 顔を赤らめて怒った友人に、キナは笑う。 こういう素直なところが、この友人の良いところなのだ。 声をかけられたのは、そのときだった。 「失礼、佐上キナさん?」 その声に振り向いたのは、キナと隣にいた友人も同時だった。 疑問で呼びかけられる相手は、その通りキナは見たことがなかった。 相手も、そうなのだろう。 確認するようにキナの顔を見つめてくる。 狭い店内だ。入ってくればすぐに解かるのだけれど、それにも気付かず話に夢中だったのだろうか。 キナは相手を確かめるように全身を見つめた。 髪は清潔に切りそろえられ、淡い色のトレンチコートの下に見えるスーツには、まったく隙が見当たらなかった。 そしてその表情も、崩れることなどないのではないだろうか、と思うほど感情が見えなかった。 こんな相手には、キナはまったく知り合いが居ない。 首を傾げて、 「えーっと・・・誰?」 「いきなりすみません、私は相田といいます」 相手は少しだけ頭を下げて、用意していたような名刺を差し出してきた。 キナには名刺を持ってもいなければ返す習慣もなかったので、ただそれを受け取る。 視線を落として、文字を読んだ。 「・・・・・犬養、弁護士事務所?」 言葉が戸惑っていたのは、知っている名前と、知らない言葉が混ざっていたからだ。 「はい、秘書をしております」 「秘書・・・・?」 あっさりと肯定された言葉に、キナはもう一度相田と言う男を見上げた。 相田は時間を無駄にするつもりはまったくないようだった。 すぐに用件を口にした。 「うちの先生がいま請け負っている依頼の件で、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」 「依頼?」 「はい、こちらの方を、ご存知ですね?」 言って内ポケットから取り出した写真に、キナは素直に目を移した。 そして、驚いた。確かに、覚えていた顔だったからだ。 「・・・ミツミさん?」 「そうです、三津見氏です。貴方と以前、ご関係があったと失礼ながらも調べさせていただきました」 「・・・・なに?」 突然の展開に、キナは眉を顰めて相田を見返した。 けれど、相手はそんなキナの表情は気にもしないのかそのまま言葉を続ける。 「依頼人のプライベートに関わりますのであまり深くはお教え出来ないのですが――ご関係があったと、認めていただけますか?」 「・・・え、これ、なに? なんでそんなこと訊くんだ?」 一方的な展開にキナはさすがにストップをかけたかったのだが、相田はただキナを見つめて、 「依頼人の守秘義務がありますので、それはお教えできませんが」 「いや、そう言われてもさ・・・確かに、ミツミさんとは前に関係があったといえばあったけど、でもそれが何になるんだ?」 「・・・それは、こちらで決めさせていただくことになります。ただ、事実を確認させていただきたかっただけですので。確認さえとれればお手を煩わせることはありません」 「いや・・・・ちょ、待って、ミツミさんに、なんか迷惑が・・・」 「いえ、佐上さんにはご迷惑をおかけしませんので・・・むしろ、こちらが少々被っているくらいで」 「こちら・・・って?」 キナの目に、はっきりと動揺が浮かんだ。 けれどそれを見つめた相田には気に留めるものではなかったようだった。 「うちの先生に、です。たったこれだけのことをお聞きするだけだというのに、他の仕事に差し支えるほど時間を取っていますので・・・元々イレギュラーの依頼ですし、早々に片付けてしまいたかったので」 「先生って、い、犬養さん・・・・?」 キナの疑問に、相田の表情は漸く少しだけ変化を見せた。 今更なにを言っているのだ、と首を傾げたのだ。 「先日も、お会いしていたと思うのですが?」 会った。 錯覚を受けるほど、目眩を起こすほど、真剣な視線で見つめられた。 腕を取られ、泣き顔を舐められ、何度も攻められた。 キナ以外と、付き合ってなどいないと言われた。 浮気ではない、とはっきりと告げられた。 その全てが、嘘ではなかったのだろう。 ただ、それ以上ではなかっただけだ。 キナの思い過ごしだったのだろうか? 初めて、想いを絡めたのだ、と思ったのだが。 やはり期待などすることが間違いだったのだろうか。 キナが呆然としているあいだに、相田は礼儀正しく頭を下げて店を出て行っていた。 「・・・キナ?」 思わずも、その一部始終を見てしまった友人の気遣うような声に、キナはゆっくりと身体をカウンタの上へ乗せるように折り曲げた。 「・・・・・こういう、展開は初めてだ・・・」 心臓が痛い。 脳裏に残る、あの視線を思い出すと胸が軋む。 それが、もう自分には向けられないのだと思うと、心が壊れるほど痛い。 だから、遊びで良かったのに。 こんな想いをしたくなかったから。 キナは額をカウンタに押し付け、磨かれたそこへ吐息を吐き出した。 壊れた心から、涙が零れることはなかった。 店を出ると、顔に雫が落ちた。 空は暗い。夜の闇ではない。 厚い雲が空を覆っている。 息を吐くと白く濁るけれど、まだ白くちらつくほどの気温ではないようだった。 ぽつりぽつりと、零れるように空から落ちてくるそれをキナは身体で受け止めた。 涙のないキナの代わりに、ゆっくりと空が濡れていくようだった。 |
to be continued...