いつか降る雨のように  1






ピカピカに磨かれたカウンタ。ズラリと並ぶ透明に磨かれたグラス。ソファテーブルが二席、あとはカウンタスツールが四つ。
店員はマスター一人。
街中の半地下、ひっそりとあるバー「ネム」。
佐上キナはそのスツールに座り両手でウィスキーグラスを持って、椅子ごと身体を回転させていた。
ゆっくりと三周回ったところで、
「・・・ちょっとキナ! そこは椅子であってアンタの玩具じゃないのよ! 壊れるでしょ!」
カウンタの中から低い声を裏返した声が飛んだ。
キナはゆっくりと回転を止めてカウンタにグラスを戻し、
「これ回る椅子だろ、簡単に壊れねぇし、つか、客にはもっと優しくしろよ!」
「アンタが客なもんですか! また振られたからってセフレ探してるんでしょ!」
「なんだよマスター、冴えてるな」
キナはカウンタの中で氷を砕いていた男を覗き込んだ。
多分、男だ。
細身の身体と、作った低い裏声。
しかしなによりこの男の目を引くのは顔だった。
バーマスターとして立つその相手の顔は、どこかの劇団ステージに立つかのようにキツイというより怖いほどに化粧が施されていた。
過剰な白粉、過剰なアイライン、赤すぎる唇。
素顔がまったく隠されている。
おかまだ、と言ってしまえばそれまでだ。
けれど身体はまったく男のものであるし、身を包む衣装もバーテンのものだった。
そのおかしすぎるバランスが、本当は素顔を隠しているのだ、とキナに気付かせていた。
しかし、それを言ってやるほどの関係ではない。
バーのマスターと客。その位置でそれ以上でも以下でもないのだ。
それにこのバーが、そういう人間の集まる場所なのだった。
マスターこと、松下はグラスの中身を舐めるだけしかしない客をそのキツすぎるメイクの目でキッと睨んだ。
「アンタがそこでクルクルしてるのは、振られて相手を探しているときよ!」
松下にここまで言われるほど常連以上に通い詰めているキナは、
「・・・・・ほっとけ」
否定もせず視線を落とす。
「あのさ、もっとはっきり言ったらいいじゃないの、自分からスキダって」
溜息を吐きながら手元の仕事を続ける松下をじろり、と睨むが相手の真っ赤な口は閉じられない。
「それがアンタの弱いトコよね、どうしていっつも先に身を引いちゃうのかしら。一度くらい主張してみれば、振られることなんかないかもしれないじゃない」
「・・・それって、どうして解るんだよ」
「知らないわよ、ワタシ、アンタのことなんとも思ってないもの」
松下はあっさりとキナを突き放した。
「・・・俺が誰と付き合おうと、俺の勝手だろ!」
「そうね、そしていっつも、振られるのよね、本命のいる男ばっかりと付き合うんだから・・・それって、わざと? 自分にライン引くように暗示でもかけてるの?」
「ほっとけっつってんじゃん!」
「ホントのこと言われると、人ってどうして大声出すのかしら?」
「煩いよ、このオカマ!!」
「まぁっ! 営業妨害よ! 人権損害よ!」
「営業ったって、客いねぇだろ!」
キナが指すように、店内にはこの二人しか見当たらなかった。
マスターである松下が下唇を噛み、
「・・・っまだ宵の口だからよ! アンタくらいよ、こんな時間から飲んだくれてんの!」
「うっせぇ、もう九時だろ!」
気の知れた言い合いが続いたそのとき、カラリ、と入り口のドアが鳴った。
キナは唇を尖らせた口を閉じ俯き、松下はその塗りたくった顔で笑顔を作った。
「いらっしゃいませ〜」
キナはその顔が営業妨害なんじゃねぇの、といつも思っていることをやはり口には出さないでおいた。
入ってきた客は店内を見渡し、それからキナのいるカウンタにスツールをひとつ空けて座った。
「ウィスキー、ロック」
「はい」
松下を初めて見る人間は少なからず驚き、慄く。そして引く。
何の抵抗もなくスツールに座った相手に、初めてじゃないのか、とキナは顔を上げてひとつ離れた隣に視線を向けた。
いい男だ。
それが、感想だった。
トレンチコートを羽織ったスーツ姿がよく似合う、厭味なほど格好いい男だったのだ。
意思の強そうな眉に、切れ長の瞳。後ろに撫で付けた髪。
あー手ぇ入れて掻き回してみたいー。
キナはぼんやりとそんな妄想を浮かべた。
そんなキナの視線に気づいた男は顔だけをキナに向け、
「・・・何だ?」
声も低くていいな、と思ったキナはにっこりと営業用の笑顔を浮かべた。
「いや、初めて見る顔だなーと思って」
相手は理解したように頷いて、
「ああ、初めてだが」
「え? うそ」
はっきりと驚き眉を寄せたキナに、相手も驚いたように同じような顔を見せた。
「嘘は言わない、こういう店は初めて入る」
「え、マジで?」
「・・・・おかしいか? そんなに驚くことか?」
「いや、だって、このマスターの顔見たら、初めは引くよ、確実に」
キナは行儀悪くも親指でカウンタの中の相手を示した。
「失礼ね!!」
その作った顔を顰めたマスターを男はもう一度見て、
「ああ、そういうものなのかと思った」
その返事にキナは面白い、と笑ってしまった。
「なに、こういう店、来たことないの?」
「ないな。初めてだ」
「初心者がココかよ〜・・・なんで? あんたみたいな男、女がほっとかないんじゃないの?」
「・・・・あいにく、興味がない」
「ああ、そうなんだ」
キナは出されたアルコールに口を付けている男へ手を差し出した。
「俺はキナ、あんたは?」
「・・・・犬養だ」
握り返された大きな手を見ながら、
「イヌカイ?」
「犬を養う、と書く」
「ふうん、飼ってんの?」
「動物を飼う趣味はない」
「・・・・趣味で飼うもんかな?」
交わされる会話に、キナは面白くなっているのに気付く。
離された熱に物足りなさを感じて、
「ね、こんなシケた店出て、どっか行かない?」
シケた店で悪かったわね、とカウンタの中から聴こえる声は敢えて無視する。
「・・・どうして」
真意を測るように聞き返した犬養に、
「興味がわいたから」
キナはにっこりと笑顔を作った。
それ以上の意味なんて、今はない。
そしてそれ以上の意味はなくても、いい。
少しの熱が、分け与えられればいい。
あまり深くなると、またこの椅子をクルクルと回すことになってしまう。
あまり、いい趣味でもない。
松下に言われるまでもなく、キナ自身も自覚があった。
本命がいる男ばかり好きになる。そのくせ、好きだと本気で縋れもしない。
臆病者の自分に。





犬養陽二。32歳。独身、サラリーマン。
一晩でキナが聞き出したことはそれだけだった。
セフレの一人になってくれればいい。
そんな気持ちで、それ以上突っ込んだことは聞かないことにした。時間が合うときに身体を埋めてくれれば良い。
どうせ、心はいつだって埋まらない。
ホテルのベッドの上でキナは満足していた。
「・・・上手いね・・・」
脱力感で動けない身体で、睡魔に閉じてしまいそうな瞼をどうにか開けてキナは立ち上がった犬養を見上げた。
「そうか?」
まだ終わった状態のままで動きもしないキナとは違い、犬養はすでにネクタイをもう一度締めているところだ。
キナはうっすらと笑って、
「うん・・・」
確かに、上手かったのだ。
思わず我を忘れてしがみ付くほどには。
犬養はキナの横たわるベッドへ腰を下ろし、汗の引いた額から髪をかきあげてキナを覗き込んだ。
「いつも・・・こうして男と寝ているのか?」
「・・・・? うん、そう、だけど・・・?」
「相手は? 決まっているのか?」
「ん? 別に・・・いろいろ? 決まった相手もいたり、貴方みたいな、初めての人もいたり・・・なんで?」
どうしてそんなことを訊くのか、とキナが首を傾げると、
「いや・・・また、会ってもらえるのか、と思って」
その答えに、キナは嬉しくなってしまった。その感情のままに笑顔を見せて、
「・・・うん、もちろん・・・? また遊ぼうよ・・・?」
「・・・遊ぶ? お前、付き合ってるヤツはいないのか?」
「? いないよ・・・? なんで?」
「いや・・・お前ほどの容姿なら、本命もいてもおかしくないだろう?」
「はは、上手いね、犬養さん・・・俺、遊びでしか付き合わないから・・・」
「どうしてだ」
「・・・・うーん・・・面倒くさい・・・」
「それだけ?」
キナは覗き込んできた男を見上げて、
「・・・それ以外に、理由いる・・? 犬養さんは・・・?」
「なに?」
「本命、いるの?」
「・・・・え?」
「ああ、いても、いいんだけど・・・たまに、こうしてセックスできれば」
「・・・・・いいのか?」
「いいよー」
キナはにっこりといつものように笑った。
「俺、代わりとか・・・平気だし・・・とりあえず、セックスできれば・・・」
「お前・・・」
犬養のその言葉の続きを聞く前に、キナは重たそうな瞼を落した。
「ん・・・ね、寝てもいい・・・?」
「ああ、いいが・・・」
「うん、ほっといて帰って・・・いいから」
「おい・・・?」
犬養のその後を、キナはもう聴こえなかった。
疲れた身体と一緒に、意識は深く沈んだのだ。


to be continued...

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