Green Monster 20
路上に捨てられたような貴弘のスポーツバックを見たときは、沸騰した感情が突き抜けて無意識に紀一の胸倉を掴み上げた。 冷めたようにも見える夏流の視線を受け止めて、紀一はただ、 「落ち着け」 壁に押し付けられて喉を絞められても平静に答えるだけだ。 「落ち着いている」 紀一よりもさらに低い声で答えるけれど、もちろん冷静でないのは自分が一番良く知っていた。 何もかも、この男が悪い、と感情が決め付けている。 貴弘が今ここに居ないのも、アシュレイが現れたことも、その前に二週間もイギリスに足止めされたことも、今この状況の全てが、この男のせいだ、と冷えた怒りが湧き上がる。 いっそこのまま絞め殺してしまいたい、と胸倉を掴んだ手に力が入るのを、 「夏流、今そんなことしても仕方ない」 洋平が視界に入るように紀一との間に割り込んで手を抑えた。 全身の力を込めて押し付けたというのに、相変わらず紀一はケロリとしたままで、 「アシュレイに発信機がつけてある。部屋に戻るぞ」 すでに辺りは日が落ちて真っ暗だった。 夏流はついさっきまで腕の中に居たはずの存在がどこにも見えなくて、正直崩れそうだった。 それを保っていたのは、怒りだけだ。 何よりも憎い紀一に、この世に存在する全てのものに対する怒りだ。 全てが消えてなくなれば、もうこんな気持ちにはならなくてすむのだろうか、と沈んだ気持ちのまま夏流の部屋に帰る二人の後ろを追った。 アシュレイが居ないことに気付いたのは、不覚にも貴弘が帰ってしばらくしてからだった。 貴弘と紀一が帰ってきたときから、夏流の意識は貴弘にしかなかった。 紀一は洋平と事後処理とどこかへの連絡や対処で、正直放置していた、と言える。 貴弘が帰ってから、夏流はこの後のことで紀一とまた睨み合い帰れ帰らない、の口論をして、パソコンに向かって手を動かしていた洋平が、 「・・・アシュレイは?」 と部屋を見渡し、あのどこに居ても目立つ存在感がないことに気付くまで誰も気に止めなかったのだ。 「その辺にいるんじゃないのか」 すでにどうでもいい、と夏流は顔を背けるけれど、紀一は素早く広い部屋を見て回る。 その姿がどこにもない、と気付いて、外へ探しに出て路上で見覚えのある鞄を見つけたのは夏流だった。 住宅街の路上に、投げ捨てられたように置かれた存在に一瞬で状況を把握ししかし、それを認めたくない、と同時に強く思った。 アシュレイ本人には知らせてないが、その奥歯に小さく発信機がある、と紀一はパソコンを開きながら説明する。 何度も標的にされるので、父親と相談して決めたことだった。 天空にある衛星を通しているので世界中どこにいても分かる、と紀一はすぐ捜索を始めた。 夏流は一応確認のために貴弘の家に連絡を入れると、 「貴くん、まだそっちにいるの?」 電話に出た貴弘の義姉が夏流に訊いてくる。 「・・・はい、今日はこのまま、泊まらせたいのですが」 低い声は冷静にも聴こえる。 義姉にもしかしたらアシュレイのとばっちりを受けて攫われたかもしれない、と不安を押し付けることもしたくない、と夏流は淡々と告げた。 その電話をしている間に、洋平はアシュレイの父親に連絡を付けたようだった。 「すでにコンタクトがあったみたいだよ、アシュレイが誘拐されたのは間違いないみたいだ」 「貴弘は?」 夏流にとって、アシュレイはもうどうでも良い存在だった。 押し付けられた形で面倒を見ていても、自分から出て行ったのならそれはアシュレイ本人の責任だ、と判断したのだ。 洋平の顔が困惑の翳りを帯びて、 「そこまでは・・・」 まだ分からない、と最後まで言えなかった。 夏流の表情は一見いつもと変わらないようにみえる。 冷静で無表情に、何もかも自分にとって興味のないもののようなものだけれど、幼馴染だという洋平に分からないはずはない。 怒っている、という表現では表せないほど、静かに怒気を孕んでいる。 周囲に解かるそれではないけれど、その胸のうちは地表にマグマがゆっくりと浸透するように――それは全てを多い尽くすような、音もなく遠くからは判らないけれど、しかし確実に死が解かるような冷えたものだ。 付き合いの長い分、夏流が怒るとどうなるか知っている分、洋平は何も言えなくなる。 紀一が以前に、 「夏流は、怒らせなくないな」 と呟いたことがある。 その時、すでに充分怒らせていたのだけれど、今はそれと比較するにもおかしいほど怒っていた。 元々が整った造りだけに、怒りを含む表情は恐怖を植え付けながらも同時に目を離せない美しさを持つ。 幼馴染の顔に久しぶりに見入ってしまっていると、パソコンに向かっていた紀一から声がかかり呪縛から溶けたように身体が動いた。 「見つけたぞ、かなり動いてるな」 「どこだ」 洋平よりも先に反応したのは夏流だ。 紀一を押しのけるように画面を見て、 「移動してるぞ」 「車にでも乗ってるんだろう、後を追う。洋平、行き先を携帯に連絡しろ」 俊敏な身体は偽りではなく、紀一がすぐに動き出すのを洋平が頷いてパソコンを受け取った。 夏流が画面を見て落ち着いているのに、洋平はもう一台パソコンを開いて並べ、どこかに連絡をとっているのか手をキーボードに滑らせる。 洋平が紀一のバックアップをしているのを知っているから、その行動も解かるけれど夏流は地図が映し出された液晶の中を点滅する印が移動するのをじっと見入ったままだ。 「夏流・・・」 洋平は手を止めて今はかけ離れている生活をしている幼馴染を見上げ、 「良かったのか、一緒に行かなくて」 紀一は自分の車で、すぐに後を追った。 動かない、と決めれば一ヶ月でも二ヶ月でも平気でじっとしていられる男だが、行動を決めた時は誰より早い。 アシュレイの誘拐は時間との勝負だけれど、普段ならもう少し状況を完全に把握し戦況を見極めるまで、動かないのがいつもの紀一だ。 しかし今、飛び出すように行ったのはこの夏流がここに居るせいだ、と気付いた。 そう思いつつも、洋平はさっきまで行動にも怒りを見せていた夏流が無言で、動きもしないのに首を傾げる。 夏流は洋平の隣に座り、 「あいつの隣に座れって言うのか?」 紀一の車は早い。 性能の良さを好んで買うものだから、何よりも早い。 しかしシートは二つしかなかった。 その意見も最もだ、と夏流の感情を知る洋平は頷くけれど、しかし貴弘とアシュレイが一緒にいることはほぼ事実だった。 洋平が手を置いていたほうのパソコンがメールが来たと知らせ、その内容を確認して洋平は携帯にインカムを付けて紀一に繋いだ。 「紀一、二回目の交渉があった。ボスの態度は変わらず。それから対象は西へ向かってる」 紀一の返事は簡潔だっただろうが、洋平はそのまま通話を一度切る。 そこから沈黙が落ちるリビングに、先に耐えられなくなったのも洋平だ。 「・・・・ごめん、」 小さく、謝った。 幼いときから一緒だった片割れと、道が別れたのはまだそんなに昔のことではない。 それまでは、きっとこのまま同じ未来へ進み、どんなことがあっても一緒に居るのは変わらないだろう、と思っていたのは事実だった。 それがきっかけ一つで、今は距離的にも心情的にも、かけ離れてしまっている。 洋平は紀一と不安定に見える道を進み、夏流は留まり無感動な人生を送ることを決めた。 夏流を気にかけながらも、洋平は紀一の腕を離せない。 洋平が放せば、紀一はあっさりと離れていくだろう、と知っているからますます放せない。 それが夏流に対しての裏切りだと思われても、洋平は紀一を掴んだ。 その夏流が今、変わっている。 何の感動もなかった夏流が、世界の全てを動かそうとしてしまうほど、変化した。 それが、貴弘というたった一人の存在のせいなのだ、と解かっていた。 ここで貴弘を失うようなことになれば、夏流は本当に壊れてしまうかもしれない、と洋平は幼馴染を危惧する。 本当に、一緒に世界を壊してしまうかもしれない、と恐怖が襲う。 この状況に巻き込んだのは、明らかに自分たちなのだ。 そう知っているから、目を伏せた。 夏流はまるで何も見ていないように視線を固まらせたままで、 「何がだ」 「・・・全部。貴弘に何かあったら、俺、責任取るから」 「お前はお前だ。誰の代わりにもならない」 責任を取って、何かの引き換えにしてもいい、と言ったのに、夏流はそれさえ受け取らない。 洋平は少し考えて、 「絶対に、助ける」 もしかしたら、と考えることを止め、決して楽観視だけしたわけではない未来を予想した。 夏流は少しだけ口端を動かし、 「当然だ」 低い声に洋平は気持ちを切り替えた。 |
to be continued...