君を想う ―キミヲネガウ― 4




レイは大学を受験した。
もちろん、瑛の大学だ。
英翔に行っていたというのは伊達ではない。ざっとおさらいをしただけで、受かってしまった。
費用は、叔父から出ている。本気で、瑛の家に移ることにしたとき、少ない荷物を取りに帰って叔父と話した。
「それくらい、出させろよ」
この叔父は、一族の厄介者だった。だからレイが預けられたのだ。カメラマンの叔父は、確かに家に居つくことはなかった。苦笑して、頭を下げる。
「悪かったな、ほったらかしで、お前になんもしてやれなかった。せめて、金くらい、出させてくれ」
レイは何も言わなかったが、頭だけ下げた。自由に生きるこの叔父が、嫌いではない。
「元気でな。たまには、顔見せろ。まぁ俺がいねぇか。世話になるお前の先生にも、よろしく」
瑛は相変わらず、忙しそうに生きている。
大学の先生なんて授業だけだと思っていたら、生徒より忙しそうだ。
レイが放っておかれることが、ほとんどである。たまに家に居ても、じっと本を読む。それ以外は、まったく何もしない。レイもそれが嫌な訳ではない。その横で、自分も本を読む。それでも、飽きてくると口を開いた。
パタン、と本を閉じて、棚に戻した。
「聖書なんてクダラナイ。信じるものは救われる、なんてさ、あるはずねぇだろ。なのにこんな本が世界一の売り上げなんて・・・」
「お前らみたいなのがいるからだ」
「え?」
レイは驚いて瑛を振り返った。返事が返ってくるなんて思わなかった。ただの独り言のつもりだったのだ。
「何も信じられない奴こそ、何かを信じたいんだろう」
本に目を落としたまま、瑛は呟いた。レイはその瑛を、じっと見つめる。なにか、心の中を見られた気がした。
「瑛さん、何でそんなに本読むの?」
「そこにあるからだ」
「……それって、答えになってない」
「誰かに答えを決めてもらうつもりはない」
「あそう……」
レイはいつもの口調に背中を向けて、部屋を出た。
来月から、大学に通うことになったレイは、基本的には、激しすぎる人見知りだ。そしてそれを気にしてはいない。必要な人間が、傍に居ればそれでいい。
その必要な人間ともっと傍に居たくて、受験をした。あっさり受かったものの、他の学生達の様に学生生活を満喫するつもりなどはない。ただ、瑛と同じ時間をもっと持ちたかっただけだ。
リビングでちょうど鳴り響いた電話を取った。
「はい」
「黎? 私よ」
間も開けず、遠慮のない声が返ってきた。
「今日の夜行くから、机、開けといてね」
「……忙しい」
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ、何にもしてないガキが。私は毎日人の愚痴聞いて疲れてんのよ、憂さ晴らしくらいさせなさい」
レイの返事を聞く前に、切れた。相手の紅理はいつもこんな調子だ。カウンセラらしい。ほかにあと二人、方士と高峰。方士は建築士、高峰はフリーのイラストレータだ。ここ数ヶ月で知り合った人間、よく話す相手はこの瑛の友人の三人だった。
三人とも大人で、他人にいちいち干渉しない。それが、レイには良かった。
「今、電話がなったか?」
部屋から瑛が出てくる。レイは受話器を下ろして、
「紅理さんから。今日来るって」
「そうか」
瑛はキッチンに入ってペットボトルの水を呷った。喉が渇いて出てきたらしい。
「冷蔵庫、何もないから、買い物行ってくる」
「頼む」
その金も、瑛のものだ。なにか買いたいものがあるわけではないからレイは金を持たない。欲しいものも、思いつかない。瑛が与えてくれるもので、十分に満足している。
アスファルトの照り返しのきつい外に出て、周りを見る。
働いている人間でいっぱいだ。
同年代の人間を見ても、みんなバイトに励んでいる。それを見て、そろそろバイトをしたほうがいいのかなという気にはなっていた。
コンビニで雑誌を見ても、ピンとくるものがない。
仕方なくビニール袋を提げて帰ると、郵便受けに手紙が来ていた。レイ宛で、珍しく叔父からだった。
「なんだろ」
たまに、叔父の写真を貰うことはあった。
封を開けるとまた手紙が出てくる。レイは苦笑して裏を見る。そして、凍りついた。
持っていた袋も、落とした。
古賀(こが) 千秋(ちあき)
三年間、待ち続ける、と約束した相手だ。






頭の中に、これまでのことが走馬灯のように駆け巡る。
あの幼い日から、決別を決めた校舎、千秋の涙。
そして瑛の顔―――






部屋に帰って、片付けもそこそこに、レイは寝室に入った。2LDKの瑛の部屋は、ひとつは寝室、もうひとつは瑛の書斎だ。その書斎にいま瑛がいる。一人になるには、寝室しかない。
震える手で、封を開けた。
覚えている。
懐かしい、レイが好きだった綺麗な字だ。ぽたり、と便箋に雫が落ちた。涙がこぼれるのを止められなかった。次々に、溢れかえってくる。















千秋と出会ったのは、小学生のころだ。気があって常に一緒にいた。同じ中学に進み、お互いの気持ちを解かって身体を重ねた。
千秋だけが、レイの窓だった。
人見知りはしても、今ほど酷くはなかった。同級生とも話すし、笑いあう。そこに千秋がいれば、一層世界は輝いた。
レイは今と変わらない容姿をしていたし、千秋も人気があった。
何の弾みで、そうなったのかはよく覚えていない。ただ、無償な怒りを覚えている。憎悪が生まれた。
千秋に話しかける人間は誰もがムカついたし、とくに擦り寄ってくるような女たちは、切り刻んで殺してしまいたいほどの衝動があった。それに気づいたのは千秋で、レイに感化されたのか、千秋も憎しみが生まれた。
レイが誰と話していても、疑ってくる。レイも千秋が信用できなかった。本当は女が、いいのではないか、と。憎悪だけで、憎しみだけで抱き合った。
それしか、二人を繋ぐものはなかったのだ。
そんな二人は、周りからみてもおかしい。最初に気づいたのは、両親だった。
高校に入って二度目の夏。レイは両親から問いただされ否定しなかった。 男と付き合っているのも、ずっと昔から身体の関係があったことも。
返ってきたのは、怒声と憎言だ。
殴られ、貶され、罵倒されながらも千秋とは別れない、と言い続けた。
レイの実家は真面目に、レールから外れることのない人生を歩むのが当たり前で、だから定職に付かずカメラマンをしている叔父がはみ出しものなのだ。
なんと言われようと、レイは千秋と離れることは考えなかった。思いも付かなかった。
夏休みの学校はいつもより静かで、そして夜になればその静けさが耳に痛いほどひっそりとしている。
日中の人の多さを思えば、嘘のように静寂で不気味さを漂わせていて、誰も訪れようとはしない。
それを二人はよく知っていた。密かに会える場所として、よく一緒にそこで過ごした。レイは親の目を盗んで、その学校に向かう。
校門の前で、誰かが待っていた。
会いたかった人間だ。涙が出るほど、欲しかった人間だ。
レイは千秋がいなければ生きていけないし、千秋もレイがいなければ生きていけない。お互いに、お互いの半身のような存在だった。
憎んで憎んで、どうして彼は自分じゃないのか。ずっとひとつでいられないのか。
狂いそうに想って、それでも愛していると気付く。失いたくない己の半身。
手を繋いで、校舎に入る。
千秋の温もりを感じて、レイは笑った。
安心する。これがないと、落ちつかないのだ。レイの顔を見て、千秋も微笑んだ。
「ひでぇ顔だな」
月明かりの中、教室の床に座り込んだ。
千秋がレイの顔を見て、呟く。殴られた痕はまだ消えない。
「大丈夫。千秋は?」
「俺んとこは、母親だけだからな……自分で始末つけろって、言われただけだ」
千秋の母親は、父親と別れたあと一人で千秋を育てた。自分の人生に自信を持っている人で、誰ににを言われてもちょっとやそっとじゃ落ち込んだりしない人間だ。その強さが、レイも好きだった。
笑うと顔が痛かったけれど、笑った。
「おばさんらしいね……」
千秋はレイを抱きしめた。レイも、腕を回す。
しばらく、そうして動かなかった。
「……レイ」
押し殺したような、千秋の声が聞こえた。
その名前で呼ぶのは、千秋だけだった。
初めて出会ったときそう、と読めずにレイ、と読んだのだ。しかし、何かが違って聞こえた。本当の、自分の名前に聞こえた。だから、そう呼ぶのは千秋だけだ。
込み上げてくる涙が止められずに、千秋の肩に目を押し付けた。
「……離れたくないよ、千秋」
「レイ……」
ポケットからナイフを出した。
アウトドア用の、頑丈なナイフだ。
パチン、と刃が出る。月の光で光るそれを、二人で見た。
「レイ」
千秋が口付ける。柔らかい感触が気持ちいい。
レイは力を抜いて、千秋を待っていた。心からそれを望んでいたし、それで楽になると信じていた。
しかし千秋の手は震えて、レイを掴んだ。痛いくらいに、レイの肩を掴む。
「レイ」
「……千秋?」
目を開けると、千秋が泣いていた。綺麗な涙だ。真剣に、辛そうな目だった。
「だめだ」
「……え?」
「死ぬな、レイ」
「……千秋」
「お前がいなくなるなんて、耐えられない。心臓が、潰れそうだ」
「俺も……千秋がいないなんて、やだよ」
だから、一緒に行こうとしているのだ。
千秋は首を振る。
「それから? どうなる?」
「……え?」
「死んで俺は、もう二度と、レイを抱きしめられないのか? 顔を見れないのか?」
愛し合うことも、出来ないのだろうか。
押し殺して、しかし真剣な声だった。
「――――嫌だ。一生、お前と、いたい」
「ち、あき……」
千秋はナイフを落とした。震える両手で、レイを抱きしめる。
暖かい、と感じる。千秋の体温が伝わる。
もともと、きっとひとつだったのだ。だからこんなにお互いが恋しい。こんなに、必要と焦がれる。
「千秋、……ちあ……」
涙で、何も見えない。
いつか、平気になるのだろうか。
いなくても、当たり前になるときがくるのだろうか。この苦しみがなくなる時が、来るのだろうか。
自分は信じられない。
だけど、千秋は信じる。
千秋しか、信じられない。
だから頷いた。苦しくなるくらい、頷いた。















手紙を読んで、レイは息を吐いた。懐かしい字が綴ってあった。大学に進んだこと。やりたいことを見つけたこと。紹介したい人がいること。
ずっと、会いたかった。
忘れたことなど、なかった。
約束の三年が過ぎて、逢いたいこと。
言いたいことがたくさんあって、書ききれないこと。
幸せですか、と書いてあった。
連絡を待つ、とその先が書いてあった。
「……俺もだよ」
レイはぽつりと呟いた。
逢いたい、と。
レイは大切に手紙をたたんで、涙を拭いた。
ゆっくりと、昔を思い出す。
それから、今を思う。瑛のことをどう話すか、考える。
レイも、心に呟いた。
しあわせですか、と。






レイはいつまでそうしていたのか、もう完全に日が落ちている。リビングのほうで、声がする。寝室を出ると、瑛の友人が来ていた。
「よう、黎」
屈託無く笑うのは、方士だ。
「こんばんは」
「相変わらず細いな、ちゃんと食ってんのか?」
からかいの口調でも、瑛の友人の中で一番の気遣いだった。周りの空気を読み、誰よりも気を使う。
レイが瑛の次に、信用を置く大人だった。
テーブルにさっと作った瑛のつまみと、方士の買ってきた惣菜、お酒が並んでいる。始めは食卓のこのテーブルも、最後には雀卓になるのだ。
「瑛さん、電話貸して」
「ああ」
レイは返事を聞くとコードレスだけ持ってまた寝室に入る。方士はそのレイを見て珍しいな、と言った。
確かに、珍しい。電話をかけるレイなど見たことがない。
レイは緊張しながらコードを押すと、懐かしい声が聞こえた。千秋ではない。その、母親だ。懐かしかったけれど、長話をするより伝言を言った。
千秋に、逢いにいきます、と。
リビングに再び戻ると、すでに全員集まっていた。
「黎、乾杯するわよ」
四人がけのテーブルに、ひとつ椅子が足された。紅理はいつ会ってもテンションが高い。仕事は暗いからだと前に聞いたが、本当かどうか怪しい。
「なんに、乾杯なの?」
「なんでもいいのよ、今日も一日、仕事が終わった、ことにお祝いよ!」
「あそう……」
レイはそれに付いて追求はせずグラスを合わせた。さっさと食事を口に運びながら、方士が口を開く。
「黎、さっき、どこに電話してたんだ?」
「電話? 黎が? 珍しい!」
その話題に紅理が飛びつく。レイは顔を顰めて、
「ちょっと」
それから話題を変えたくて、瑛に向いた。
「瑛さん、週末、何にもなかったよね?」
瑛は訊かれて、壁に掛かったカレンダに視線を移す。何も書かれていないが、しばらく考えて首を振った。
「いや、会議が入った」
「え?!」
必要以上にレイが驚いたので、全員が見た。
「……なんか、あったのか?」
高峰が遠慮がちに聞くと、眉を寄せたレイは瑛を睨みつける。
「用事があるときは、カレンダに書いとくって、言ったじゃん」
「書き忘れた」
あっさりと返ってくる言葉に、苛立ちを覚える。いつもの瑛の調子だ。そのトーンが崩れることは、めったにない。
「……」
レイが無言でグラスを睨みつけているのを見て、方士がフォローしよう、と優しく声をかける。
「大事な用が、あったのか?」
「……別に」
「別にって顔じゃないな」
方士が苦笑すると、瑛がいつもの口調で話す。
「いつ仕事が入るか分からないと言っておいたはずだ。大事な用なら、もっと早くに言え」
さすがに、友人たちも口を噤んでしまった。俯いたレイに、困惑の視線だけ投げる。しばらくして、そのレイが口を開く。
「……別に、大事な用じゃない。瑛さんがいなきゃいけないわけでもない」
低い声で言われて、紅理が思わず口を挟む。
「何の用だったの? 瑛じゃないとだめ?」
代わりは立てられないのか、と訊いた。
「別に、付き添いがいるわけじゃないよ」
拗ねたような口調に、苦笑してしまう。方士も高峰も、乾いた空気にグラスを傾けた。
「昔の男に会うだけだ」
「ぶっ!!」
吹き出さなかったのは、瑛だけだ。
大人の三人は慌てて口を押さえて、
「む、昔の男って……!」
「昔、一緒に心中しようとした相手」
その言葉に、三人は言葉をなくした。
レイは誰の返事を聴くでもなく、立ち上がって奥に消える。だからひとりだけ表情を変えない瑛を見た。
「瑛!」
「なに」
「なに落ち着いてんのよっ、いいの? ひとりで行っちゃうわよ」
「迷子になる年でもないだろう」
「そおゆう問題じゃなく……!」
瑛がいつもの無愛想を晒して、友人たちに攻められているとき、レイはベッドに転がって瑛を想う。
決めたことは変えない人間だ。だから、言葉を信じられる。傍にいたいと思う。でも信じているからこそ、少し辛くなっただけだ。
瑛の過去に興味はない。これから先一緒にいられるなら、そんなものいらない。レイも過去を忘れられないけれど、瑛とのこれからが大事で、必要だ。
ひとりで生きていけない。だから少し泣いた。強く、言い切れない。
瑛のように信じきれないから、たまにわがままを言ってみたくなるだけだ。


to be continued...



BACK  ・  INDEX  ・  NEXT