君を想う ―キミヲネガウ―  1





どうして、一緒にいられないのだろう。
こんなに、想っているのに。
お前のことだけしか考えられなくて、憎しみしか生まれない。
何もかもが邪魔をする。
世界中が、俺たちを否定する。
ただ、一緒にいたいだけだ。
当たり前のように隣にいて空気のように必要な存在。
いつから、憎しみしか生まれない?
いつから、怒りしか表せられない?
涙が止まらない。
決して、嫌いだからじゃない。
何もかもより愛していた。
だから、生きよう。
いつか、笑える時がくるから。






「三年たったら、また会おう。それまでは、一切連絡は取らない」
震えが止まらない手が、頬を包む。
止まらない涙を、拭う。
「ここで終わったら、後悔する。何も残らない」
言いながら、泣いていた。
離したくないとばかりに、相手の服を掴む。
「俺たち、笑ってたときがあったよな。何もかもが、笑って許せて、幸せだった」
唇を噛み締めてないと嗚咽が止まらなくなりそうで、何も言えない。
「嫌いなんじゃない。もう一度、愛したいんだ……」
目を閉じて、頷いた。
「……好きだよ、レイ」
「愛してる。ずっと、ずっと。三年、我慢するから…必ず、逢いに来て」
額を合わせて、目を閉じた。
悲しくないなんて嘘だ。
でも信じてる。
また逢える。
笑って、また逢える。
信じてるから、一人でも生きていける。
お前の言葉なら、信じられるから。
自分よりも、信じてるから。
だから俺のこと、忘れないで。















夜の街は、うるさかった。
何もかもの、煩わしい音が耳に入る。
ただ光っているだけの店の看板。渋滞した車道で鳴り響くだけのクラクション。だれかれ構わず声をかける男たち。もう冷え込んできたこの季節に薄着で笑い合う女たち。騒音にしか聞こえないゲームセンターの音楽。それよりも大きな声でただ笑いあう子供たち。
それらを振り切るように、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま歩いた。
やはり、出てくるんじゃなかった、と後悔した。
ただ時間を潰すだけの会議に一日を追われ、疲れきっていたところを強引に誘われ飲みに出てきたけれど落ち着く気になれなかった。
だから先に一人で店を出た。よく行くその店は、その店自体は落ち着いたトーンの静かな音楽の流れる雰囲気の良いバーだが、場所が悪い。帰るにはどうしてもこの道を通らなければならないのが、欠点だ。
それに耐えるだけの容量が今日はない。
舌打ちをして、路地に入った。入っただけで、大通りとはなにもかが違う。煩い騒音は外界から切り離されたように、その光さえ入って来なくなる。駅まではしかし、この路地のほうが遠回りだった。
それでも煩いよりはましだと思ったのだ。
こんな気分の苛つく日は家で静かに本に没頭するに限る。今日もやはりそうしていれば良かったのだ。
どうにか騒音から切り離されて、息を吐いたその時、前方から怒鳴り声が聞こえた。
よくあることだ。上辺だけ明るいところから一歩暗いところに入ると、喧嘩や怒鳴り合いが絶えない。
「っざけんなよ!自分から誘っといてよ!」
前方にあるフェンスに、叩きつけられる音が響いた。そのままずるりと地面に座り込む。怒鳴った男はその蹲った体に勢いよく足で蹴り上げた。
「……っ」
うめき声すら抑えて地面に倒れる。それに唾を吐くように男は悪態だけをついて背中をむけた。すれ違う相手すら目に入っていないように、早足で路地を抜けた。
自分の通り道でもあるので、そのまま進むと、蹲った人間が身体を動かした。まだ少年と言えるような、細い身体を地面に転がし、上を見た。
そこには殴られた痕が残っていたけれども、綺麗な顔をしていた。ビルの隙間から漏れる明かりだけのなかでも、とくにその瞳は印象的だった。
それが笑った。男を誘う笑みだ。しかし、おそらく表面上だけだ。そんな顔をするのは慣れているのだろう、すでに皮膚が細胞が覚えているのかもしれない。そんな印象が残る顔で、口を開いた。
「ねぇ…お願いがあるんだけど」
声もやはり、少年のようだった。






「バスはその奥だ」
言われて、少年は身体を不自由そうに動かしながらも部屋を奥に進んだ。
それを横目で見ながら、ジャケットをソファに投げてその勢いでそこに座り込む。それから煙草を取り出して火をつけた。吸い込んで、ため息と一緒に吐き出す。
自分でもどうしてそうしたのか解らないが、少年のお願い通り連れて帰ってしまった。ただの気まぐれか、なぜかそうしてしまった。時々こういうことが起こる。苛ついて仕方ないのに、流れに逆らわない。どうでもいいと思っているからかもしれない。ただ、少年の目だけは頭に焼きついた。笑っていても、その目には全く表情がなかった。
男は鷹澄 瑛(たかすみあきら)という。三二歳ですでに私立大ではあるが助教授という肩書き付きだ。
ソファに凭れ掛かったまま外を眺める。雑音がどうも好きになれないので、郊外のマンションの一室に部屋を買った。そこから見る夜景は、はるか遠くにイルミネーションが輝き、後は家の明かりが夜を埋めているだけだ。
いつもの風景を見ながら、耳はシャワーの音を捉えていた。自分がリビングにいながらシャワーの音を聞くのは初めてじゃないが、落ち着かなかった。
考えても仕方のないことは、特に自分のことに関しては考えないようにしている。いつも、流れに任せている。これが友人たちには無関心と言われる所以かもしれない。だからまた、思考を閉じた。頼まれて連れてきただけだ。それも気が向いたからだけのことだ。これからどうするかも、相手が勝手に決めるだろう。
煙草を一本吸い終わる頃、バスルームの扉が開いた。
おざなりに身体を拭き、腰にタオルを巻いたのみで少年はリビングに足を入れた。伸びた髪からは水滴がいくつも落ちている。
「ちゃんと拭いてでて来い。床を濡らすな」
「……着替えがない」
瑛は煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
「俺のしかないぞ」
クロゼットからTシャツとジャージ、下着を一緒に渡した。
少年はその場で着込み、まだ濡れた頭を二、三度振った。
「おい、だからちゃんと拭けって言ってるだろ」
「すぐ乾くよ」
「床を水浸しにしてか?」
瑛は多少強引に、タオルで頭を拭いた。
「いた! 痛いよ! 拭くんならもっと優しくしてよ!」
「贅沢言うなくそガキ」
瑛は自分のネクタイを解いて、代わりにバスルームに入ろうとした。
「その突き当りが寝室だ。先に寝てろ」
奥のドアを指して言って、すぐにドアを閉める。






自分もシャワーを浴びてすっきりして寝室に入ると、まだ少年はベッドの上で起きていた。
「なんだ。寝てろって言ったろ」
「……しないの」
「何を」
「セックス」
「誰が」
「あんたと、俺」
「どうして」
「だって、……」
ベッドの端に座ったままの少年を一瞥しただけで、瑛はベッドに倒れこんだ。身体が疲れている。瞼は重たいが、それでも視界に少年を入れた。
「あのな、あの時お前はここで寝るのは嫌だから連れて帰ってほしいと言った。だから連れて帰ってやった。シャワーも浴びせてやった。これで寝れるだろう、俺は疲れてるんだ、これ以上疲れさせないでくれ」
「……なんで連れて帰ったの」
瑛は目を閉じて、ため息を天井に吐いた。
考えても仕方のないことなのだ。
「気まぐれ」
「……」
何も言わない少年に、瑛は会話終了と勝手に背を向けた。
後ろで少年も布団に入る気配がした。居心地をよくするためか、何度か身じろぎをして、しばらくして一定の呼吸が聞こえた。瑛はそれを聞きながら、自分も睡魔に落ちていった。






翌朝、瑛がいつもの時間に目が覚めて身体を起こすと、隣で寝ている少年がいた。犬のように丸まって、耳を下に押し付けて。顔に付いた不似合いな痣を見ながら、ため息を吐いてベッドから抜け出した。
顔を洗い軽く髭も当たって、シャツとズボンに身を通した。それからリビングの四人がけのテーブルに座り、煙草に火を点ける。煙を吸い込むと、頭がはっきりしてくる。一本すい終わるころに覚醒して、立ち上がり玄関に向かう。郵便受けに刺さっている新聞を取り、ソファに座り込み広げた。その間にまた煙草を銜える。
惰性で文字を追っていると、人の気配と視線を感じて顔を上げた。
寝室のドアのところから、無言で立って見ている少年がいた。
「起きたのか」
少年は頷き、ソファのそばまで近寄った。
「俺はもう出る。ここはオートロックだから、出るなら気にしないで出ろ」
「……」
瑛は新聞に目を落としたままで、
「出ないなら散らかさないように大人しくしてろ。冷蔵庫の中のもんは勝手に食え」
「……居て、いいの?」
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、少年を見上げた。
「行くとこないならな」
無表情な少年の視線としばらく絡んで、瑛は時計を見た。出勤の時間だ。
新聞を畳んで立ち上がる。クロゼットからネクタイとジャケットを取り出し、ネクタイは首にかけただけで玄関に向かう。
「……どこいくの」
少年はその後を着いてきて小さく訊いた。
「大学」
その答えに驚きながらも、少年は靴を履く瑛をじっと見ていた。
「お前――」
「レイ」
「え?」
「レイ、俺の名前」
無表情なのに真剣な瞳とまたぶつかって、瑛はそれでも外さなかった。
「……鷹澄 瑛だ、レイ」
瑛は赤黒くなった少年、レイの目の縁や口に触れた。
「悪かったな、薬くらいつけてやれば良かったな」
レイの目が一瞬見開いて、首を振った。
「…ほっといたら治る」
「そうか」
瑛はそれだけでドアから出て行った。
ドアを閉めて、地下の駐車場に向かう。
変な気分だった。居心地が悪いような、くすぐったいような。
人に見送られるのは、随分久しぶりだった。それが、悪くない。悪くないと思っている自分が、どうも落ち着かなかった。
瑛が出ていったドアを暫く見つめて鍵が自動的に閉まる音を聞き、背を向けた。リビングに戻ってさっきまで瑛が座っていたソファに座る。
戸惑った。
いつもの調子であしらえない、自分のペースが出せないことに戸惑った。
ここ一年ほどで身につけた自分を守る防衛術のような外面。それが出せないで、いた。初めは新しいカモがいたとしか思わなかったのに、夕べからの瑛の行動にその外面さえだせないでいる。思わず名前を言ったことも、自分に驚いた。
お前、と呼ばれるより、名前を言って欲しかったのだ。しかも、レイと呼んで欲しかった。
荻谷 黎(おぎやそう)。それが本名だった。レイは愛称でそれをつけてくれた相手しか呼んだことはないが、いや呼ばせたこともないが、しかし瑛にはレイ、と言った。
頭で考えたことではない。瞬間に、本能がそう答えていた。
朝日の入るリビングで、レイはうつらうつらとし始めた。再び襲って来た睡魔に逆らうことはしない。
ソファに小さくまた丸まって、寝ることにした。
ここは、居心地がいい。






瑛が帰ると、リビングのソファで丸まっている子供がいた。昨日拾ったレイだ。
今日は早くに仕事が終わって、沈みかけた夕日がまだ少し見える。その中で音も立てずに、寝ていた。
「……レイ」
その真上から、呼んだ。
「レイ!」
「…っ?!」
きつく呼ぶと怯えたような顔で慌てて体を起こす。その目で瑛を見つけると、驚いたような視線を向ける。
「なんでこんなところで寝てる? ちゃんとベッドに行け」
「あ…あれ、今……」
レイは今気づいたように、辺りを見回した。部屋が暗くなってきている。眠ったときは、完全に明るかったはずだ。
それに気づいたのか、瑛は眉を寄せた。
「お前、いつから寝てる?」
「……朝」
「…寝すぎだ。目が溶けるぞ」
瑛はジャケットを脱いでクロゼットにかけた。苦しそうなネクタイも解いて、放り投げる。
「お前、飯も食ってないんじゃないのか?」
レイが頷くと、瑛は呆れたようにため息を吐いて、キッチンに立った。
「ちゃんと、飯は食え。ただでさえ細いのに、そのうち栄養失調で死ぬぞ」
「……」
レイはソファに座ったまま、足を抱えた。
そのうちにいい匂いが部屋に漂う。
「レイ、こっちに来い」
従ってキッチンの椅子に座った。その前にスパゲティが乗ったお皿が置かれる。コップには水が入っている。
「食え」
「……」
瑛はレイの正面で、すでにフォークに絡めていた。片手で厚い本を広げながら、口に運ぶ。その無音の中、レイもスパゲティを口に入れた。
しばらくして、その無音に気づいたレイが口を開く。
「……ここ、テレビないの?」
「必要ない」
雑音は嫌いだった。自分にとって、まったく無用の情報しか流されていないものだ。
瑛は早食いで、レイが半分ほど食べたときにはすでにフォークを置いて本に集中していた。それでも、レイが食べ終わるまではそこに座っていた。
レイが食べ終わると立ち上がり本に目を落としたまま、
「食器は流しに浸けておいてくれ」
言って、さっきまでレイが占領していたソファに腰を下ろした。レイは言われた通りにして、それから瑛の前まで歩いて、座り込んだ。
本の表紙を見るとそれは日本語ではなく、レイには読めなかった。それを押しのけて、瑛の顔に近づいた。
「……」
唇が重なって、離れるとレイは瑛のシャツを脱がそうとする。本を横に置いたまま、瑛はその行動を見ていた。自分のベルトに手がかかったときに、口を開いた。
「何のまねだ?」
低い声に、レイの手が止まる。
「…俺、お金もってないよ」
「だから?」
「なにも返すもんがない。この身体くらいだ」
「冗談はよせ」
瑛はレイの身体を自分から引き剥がした。
「お前になにかして返してもらうつもりはない」
「じゃあ、なんで? 俺をここにおいてくれるの?」
「お前が帰るとこがないと言ったんだろが。お前の身体で払ってもらうつもりはない。俺の邪魔をしなければいつでもいていいし、何をしてもいい。ただ、そうゆうことは止めろ」
「そうゆう?」
「身体で払うようなことだ」
瑛は言って、再び本を読み始めた。
レイはしばらくその瑛を見上げていたが、そのうちそのソファを枕に、目を閉じた。
翌日、瑛はレイに合鍵を渡した。閉じ込めるつもりはないし、いつで帰ってこれるようにだ。
レイはその部屋に居るときは本を読んだ。どんなジャンルの本でも、なんでも読んだ。瑛の部屋にはそれしかない、というほど本がある。友人にそのうち床が抜けるぞ、といわれたほどだ。


to be continued...



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