目を閉じてなどいられない ―ミチル―






「何です?」
思い切り訝しんだ顔をされた。
礼を述べたと言うのに、ここまで嫌そうな顔をされたのは初めてだ。
心に凪がある。
柘植に最後通知を受けたというのに。
心がこんなにも穏やかでいられる自分が不思議だ。
もっと全てが怖いと思った。
もっと何もかもが崩れてゆくのだと思った。
けれど、世界は何も変わっていない。
昨日の自分と今日の自分。
きっと明日の自分を取り巻く世界にさえ、変化などない。
何故?
ミチルは目の前で眉間に皺を寄せた男をじっと見つめた。
髪は相変わらず短く、目元を覆うのは縁のある眼鏡。
耳にピアスの痕はない。
目立たないようで、とても実は整った顔立ちだ。
柘植のような目を引く派手さはないけれど、気が付くと視線が向いている。
眼鏡の奥が少し薄いように見えるのは気のせいだろうか?
木村暦史という男は。
いったいどうしてミチルの前にいる?
「どういう意味です」
木村は顰めた顔を崩さず、もう一度言った。
「意味が解からないか?」
「解かりませんよ」
「なら、解からないままで良い」
ミチル自身だって、よくは解からない。
けれど、それが一番に声となって出たのだ。
木村にとって、ミチルはただの玩具にすぎない。
綺麗なものは汚したい。
形あるものは壊したい。
ミチルは木村にその通りにされた。
年下相手に良いように遊ばれた。
けれど、ミチルは今穏やかだ。
それがきっと、木村のせいなのだろう。
はっきりと言葉で言い表せられないけれど、木村のせいであることに間違いはない。
ミチルはそのまま用を終えたと木村に背を向けた。
それを、後ろから手を引かれ止められる。
大きな手が、ミチルの腕を掴む。
「待って下さい」
「・・・・何?」
「どういう意味です、はっきり言って下さい」
ミチルにだって解からない。
木村の顔に少し困惑が浮かんだ。
どうしてそんな顔をする。
壊して遊んだ玩具には、もう興味はないだろう。
次の誰かを、また壊しに行けば良い。
木村は遊んでいるのだ。
ミチルと同じような誰かを、ミチルと同じようにして遊んでいる。
遊びだ。
木村には笑える相手がいる。
ミチルをいつも見るような、蔑むような笑みではなく、本気で微笑み隣に並ぶ相手がいる。
それをミチルは知っている。
ミチルは、遊ばれたのだ。
ならば、気が済んだならこの手を離して欲しい。
そんな顔をしないで欲しい。
「もう気が済んだだろう」
「何です?」
「俺を全部、壊し尽くしただろう」
「・・・・・・」
「気が済むまで遊んだだろう、なら、もう離してくれ。良いように遊ばれたくせに、こういうことを言うのもどうかと思うけれど、年上として、最後に言っておきたい」
「・・・・・ミチル、さん」
「本気な相手がいるというのに、こんな風に遊び続けるのはどうかと思う。彼女に失礼だし、遊ばれた相手が可哀相だろう?」
ミチルは可哀相なのか?
いや、ミチルは壊して欲しかった。
柘植に壊される前に、全てを壊して欲しかった。
木村には礼を言うべきだ。
けれど、木村はやはり良い男だ。
遊ばれたと知ったとき、相手は可哀相だろう。
「・・・・ッ」
木村の掴んだ腕が軋んだ。
痛い。
そんなに強く掴まれると、痕になる。
「ミチルさん」
「・・・手を、離してくれ」
「・・・・ミチルさん、」
「木村くん、手を・・・」
「レキフミです」
「え?」
「レキフミですって、言ってるでしょう」
名前を呼べと言う。
今になっても?
どうして?
「ミチルさん」
見上げると、そこには真剣な目と重なった。
「ミチルさん、今の、どういう意味ですか」
「どういうって・・・そのままだ」
「酷いですね、ミチルさん」
酷い?
俺が?
「酷いのは君だ」
「俺の何処が」
「本命がいるというのに、遊んでは捨ててゆく男は酷いとは言わないか?」
「ミチルさんのが酷いでしょう」
「何?」
「その身体で、今までどれだけの男を誑かしてきたんです、何人の男を堕としてきたんです」
「な・・・ッ、俺、俺は誑かしてなどない! 今まで一度だって、遊びで付き合ったことなんか・・・ッ」
「俺は堕とされましたよ」
何?
真っ直ぐな視線が絡む。
今、なんと言った?
「俺は貴方に、全てを堕とされましたよ。そして今、捨てられようとしている」
捨てる?
誰が?
木村は今、何を言っている?
「ミチルさんほど酷い人はいません。こんなにも俺を掻き回して、壊して、攫って、どうして俺の前に現れたんだ」
「・・・・なに、」
「ミチルさん、俺にミチルさん以外の誰がいると言うんですか?」
俺以外?
絡んだ視線は外せない。
逃れられない。
腕を掴まれているからではない。
足がここに縫い止められたようだ。
動けない。
瞬くことすら出来ない。
呼吸が出来ている?
喉が渇いて、上手く声が出ない。
「・・・前、に、街で・・・っ一緒に、いた、女の人、が、」
木村は初めてミチルの前で舌打ちをした。
「姉です」
「・・・・何?」
「姉貴です」
姉?
木村に?
姉弟がいてもおかしくなどない。
けれど、この感情はなんだ?
湧き上がるこれは、いったい何?

嬉しい?
俺が?

木村に本命がいないと知って?
ミチルだけを見ていると知って?
視界が揺れた。
胸が上下するほど、息が苦しい。
駄目だ。
離れられない。
離せなくなる。
この、強い視線に囚われてしまう。
早く、離さなくては。
見ては、駄目だ。
そんなの、可笑しいだろう?


to be continued...

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