好きこそものの道理なれ −ミチル−




「ん・・・っあ、あ! ああぁっ」
身体中が強張った。
しかしその瞬間を乗り越えると、まるで形を失くしたもののように崩れた。
ベッドに四肢を投げ出した自分の身体が、どこまで自分のものなのか解からなくなる。
このまま意識を失ってしまいたい。
ミチルは荒い呼吸すら自分のものとは思えないほど自我を失くしていた。
その意識を引き摺り戻すのはいつも同じ場所だった。
覆いかぶさった男と、繋がった箇所。
じわりと感覚が戻り、肌が形を創り全身が振るえ、ミチルは再び身体を思い出す。
「ん、ぁ・・・も、ぅ駄目、だ、もう、いや・・・」
「・・・また、ミチルさんの厭、ですか?」
聞き飽きましたね、いい加減、とからかう声もいつもと変わらなかった。
感覚を取り戻した肌をゆっくりと手が伝い、ミチルを貫いたままの性器が蠢く。
「ぃや・・・っやめ、もう、できな・・・っ」
これ以上は無理だ。
いつもより激しく、長い情事だった。
ミチル自身は、もう何度達したのか覚えていない。
ゆっくりと腰を使い、ミチルを穿つ男、木村が何度達したのかも数えていない。
もう何も出ない。
そう泣いて請うのに、木村は色素の薄い目を細めるだけだ。
「もう少し、しておきましょう? 何しろ・・・明日から二週間も会えないんですからね」
その間、他所で浮気をしないように、と木村が行為の意味を教える。
ミチルは力なく首を振り、しない、と言うだけだ。
どこかへ行くのはそっちの勝手なのに。
ミチルは恨めしく思っても、口には出せない。
言えば相手の感情を煽るだけだともう知っているからだ。
この身体に、心に染み渡るほど、木村の想いは植えつけられていた。
「じゃあ、あと一回だけ・・・ほら、もうこんなになりましたから、引けないでしょう?」
「んあ・・・っあ、あっ」
いやらしく動く腰は、繋がったミチルを狂わせる。
達したばかりの木村の一回が、あとどれほど時間がかかるのか解からないだけにミチルは泣いた。
しかし泣いただけで、どうにも出来なかった。
身体は引き摺られ、掠れた声が喘ぎになって零れるだけなのだ。
明日の惨状を考え、ミチルは眉根を寄せた。
だが木村の言うように二週間、この濃密な行為から離れられる。
そう思うと強い抵抗も諦めた。
正直、清々する。
最近は特に執拗すぎて、逃げられもしない腕からどうにか逃げたい、と考えていたところだったからだ。
ミチルの思考を読んだように、木村の最後の一回は永遠にも思えるほど長かった。
ミチルがその終わりを、覚えていないほどだった。




夜が長く感じたのは、木村がイタリアに発って三日目のことだった。
木村が働いていたカフェのオーナーが新しくバールを作ると言い出したらしい。
そこの責任者兼バリスタとして木村が行くことになり、オープン前に本場も見ておこうとオーナーと連れ立って、木村はイタリアへ向かった。
「エノテカ・バールなんですよ」
だからミチルさんも来てくださいね、と木村は笑っていた。
ミチルはカフェとバールの違いもよく知らないし、バールに種類があるとも知らなかった。
木村の勤め先が変わるのだろう、と理解しただけだ。
毎日気付けば側にいる男が、二週間でも居なくなると知ってミチルは清々した気分だった。
そのはずだったのに、時間を持て余している自分に気付いた。
DVDでも見て時間を潰そうと、ビデオ屋に入る。
しかし何か見たいものがあるわけでもないので、陳列された棚を視線だけが過ぎる。
ないより、ましだ。
ミチルは新しく出たばかりの棚から、レンタルランキングが上位のものを中身も確認せず2本ほど抜き取った。
「ただいま・・・」
家に帰ると、つい口から零れた声に自分で驚く。
これで三日連続、言い続けている。
返ってくる声もないというのに。
今まで家に帰っても、誰もいないことが日常だったためミチルに帰宅の言葉の習慣はなかった。
この家に住みつくようにしている木村のせいだ、と苦々しく感じながらも受け入れるしかない。
今は居ないというのに、つい口から出てしまう。
それほど自分にも習慣づいているのに、釈然としない気持ちを抱えた。
ひとりだから料理をする気にもなれず、コンビニで買ったお弁当を広げる。
テレビをつけて借りたDVDをセットする。
画面からは予告から華々しくアクションものが始まった。
その音を聞き、無音ではない部屋がひどく静かに思えた。
お弁当の中身も、なんの味もしなかった。
少し箸をつけただけで、諦めて止める。
テレビ画面からは、本篇が始まったアクション映画がテンポよく流れ始めている。
以前は当然のようにしていた、ひとりの時間だった。
夜、眠たいのにベッドに入るなり伸びてくる手もない。
湯船に浸かっていれば、断りもなく乱入する身体もない。
何に邪魔されることなく、のんびりとした時間は、ミチルにとってリラックスする大事な時間だったはずだ。
ゆっくり休める。
ゆっくり眠れる。
そのはずなのに、ミチルは夜が長かった。
ベッドに入っても、睡魔はなかなか来てくれない。
うつらうつらを繰り返し、漸く迎えた朝はひどく疲れていた。
眠たい、といつも以上に寝不足を感じそれでも仕事へ行けば、同僚にも笑われるほどそれが顔に出ていた。
体力が、余っているのだ。
眠れない原因に気付いたとき、いつも疲れて眠る理由も気付いた。
あの男のせいで――
ミチルは目の前に居ない男を思い睨んだ。
一軒家といっても、ミチルの家は広くはない。
リビングもキッチンも、寝室やバスルームもひとりで暮らすには充分な広さと距離だった。
その家を見渡し、ミチルは自然と眉根が寄せられる。
自分以外は居ないはずの空間に、背の高い男の影がある。
視界ではなく、脳裏に出てくるのだ。
リビングのクッションの横、キッチンのシンクの前、寝室の入り口、長くはない廊下と階段。
当然のようにそこに居る男の姿に、ミチルは自分の顔が泣きそうになっていることに気付かなかった。
ただ、こんな落ち着かない気持ちにさせる男が憎らしかった。
木村が居ないのは二週間で、それを過ぎればまた帰ってくる。
そう解かっているのに、本当に帰ってくるだろうか、と何かが過る。
帰ってきても、いつかまた、この家にひとり残される、と思考が揺らぐ。
木村の自分に対する執着はよく理解しているつもりだけれど、目の前に居ないだけで簡単に崩れた。
いっそ引っ越してしまおうか、と住宅情報誌を買った夜、ベッドの中で身体に手が伸びた。




軽い羽毛布団を被り、視界を隠した。
何度も躊躇した。
しかし丸まった身体の足の間に挟んだ手を、さらりとした肌触りのパジャマの中に入れるまでだった。
下着の中の自分の性器に触れると、すでに熱を持っていたのを知る。
「ん・・・っ」
息を殺すように、両手で扱く。
先端が濡れてくると、片手が肌の上を這い上がり胸を掻いた。
「ぁ・・・っん、んっ」
荒い息と一緒に口を開けると思わず声が出そうで、咄嗟に唇を噛む。
今まで受けてきた愛撫とは程遠いような指で、爪で乳首を弄る。
優しく触れるだけでは足りない。
それを知っているから酷く自分を掻き、膨れ上がる性器を握り締めた。
「ぁふ、あ・・・っや、あ、い、やだ・・・っ」
自分で追い立てているのに、目を閉じて抵抗した。
滑稽な姿なのに、何もかもが抑えられない。
「いや・・・っあ、あっい、く・・・っ」
焦らされることもなく、一瞬身体を強張らせ、下着の中で濡らした。
布団の中で繰り返す呼吸は、いつもより苦しかった。
だというのに、濡れた手で性器に触れたままいると、また落ち着かなくなる。
首を振って、自分で否定した。
「いや、だ・・・っも、やめ・・・っ」
指先が、裏の窪みを撫でた。
――また、厭、ですか?
「いや・・・っ」
――ミチルさんの厭は、良いってことですから、止めてあげられませんね
耳に届かない声が、頭に響いた。
声音も、口調も、吐息さえ鮮明に記憶は蘇らせてくる。
それだけで、ミチルは身体が熱くなるのだ。
「厭、だ・・・あ! も、う・・・っ」
ミチルは今まで、自慰をしたいと思ったことがない。
欲求は、誰かとセックスをしたときに起こるものだったからだ。
相手も居ないひとりの身体を、持て余したこともない。
身体が疼いて、どうにかしなければ落ち着かない、まるで禁断症状でも出たような気持ちに襲われることなど初めてだった。
「あ、あ・・・! レキ、フ・・・ミ!」
――良いですよ、イッてください
「あ、ああぁ・・・っ」
幻の声に煽られて、ミチルは二度目に手を濡らした。
さすがに苦しさと熱気に、ミチルは布団から顔を出す。
真っ暗にした寝室の中で、自分の呼吸だけが響いて、どうしようもなく泣きたくなった。
自己嫌悪だ。
情けなさに泣きたくなりながら、疲れた身体だけが今夜は眠れることを教えてくれた。
汚れた下着とパジャマで濡れた手と身体を乱暴に拭い、そのまま脱ぎ捨ててベッドの下に落とした。
素足を丸ませるようにして、ミチルは強引に眠った。
それを一週間繰り返した夕方、家に帰ったミチルを出迎えたのは明るい玄関だった。
「ミチルさん?」
リビングから顔を覗かせて出てきたのは、二週間ぶりに見る男だ。
「お帰りなさい。疲れてませんか? 風呂、もう入れてありますよ」
「・・・・・・・」
木村の姿は、旅立ったときと何も変わっていなかった。
まるで居なかった間がなかったように、いつものラフな格好に縁のある眼鏡で色素の薄い瞳を覆っている。
玄関に立ち尽くしたまま凝視していたミチルに、木村が首を傾げる。
「ミチルさん?」
「・・・・あ、」
もう一度呼ばれて、ミチルは我に返って目を逸らす。
俯いて、噛み締めた唇を隠した。
何も変わらない木村に、ミチルは何も言えなかった。
それを誤魔化すことも出来ず、廊下に上がり木村の横を抜けて浴室に繋がる洗面所へ入る。
どうして、いきなり。
ミチルは動揺した自分の心にまた驚いた。
二週間経ったのだ。
ならば、木村は帰ってきて当然だった。
なんだ、これは。
不安と動揺。
そして、歓喜だ。
ミチルは自分の荒れる感情に慌てた。
不意に洗面台を見ると、自分の顔がそこにあった。
改めて見て、顔が赤いことを知る。
困惑していた。
嬉しいと思う自分を持て余し、いったい自分はどうしたんだ、と自分の顔を見ていられないと目を逸らす。
洗面所の中に低い声が響いたのは、そのときだった。
「ミチルさん・・・何をしているんですか」




to be continued...



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