それから? 3
期末が終わると、みずきはバイトに励んだ。 あの日から、あの家には行ったことがない。 極力二人きりになるのも避けた。 仕事に没頭しながら、ほっとする。 カウンタの中で話しかけてくる客の相手をしながら、注文をこなす。 ふとその客が途切れたとき、前から声がした。 「ブランデー、ロック」 次の客だ、と思って返事をしながら顔を上げて、持っていたグラスを落としそうになった。 落とさなかったのは、奇跡的だ。 「・・・・笙子さん・・・」 ここで働いていて、初めて血の引く思いをした。 それでも青い顔は暗い照明で解らなかった。 笙子はカウンタに肘をつきながら、笑う。 「? どうしたの?」 みずきは深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとした。 「・・・ロック、ですね」 振り向いて後ろの棚から瓶を取った。 グラスに注いで、素早くコースターを敷いて出した。 「・・・どうして、ここに」 笙子は口に運んで笑った。 「おいしい。どうしって? 私の知らないことなんかないわ」 「・・・・砕には、」 「一応、言ってないわ。一緒に食事をしたけど、仕事だからって先に帰した」 ため息を吐いて、心臓を落ち着かせた。 「・・・・言わないで下さい」 「どうして、駄目?」 「・・・危ないでしょう」 「あの子、そんなに弱くないのよ?」 「知ってます・・・俺が、危ないんです」 笙子は首を傾げた。 砕そっくりな仕草だ、とみずきは思った。 「・・・周りを見てくださいよ。こんな野郎ばっかりなんですよ。独りで大人しく座ってるだけなんて有り得ない」 みずきは俯いて、唸るように続けた。 「・・・俺が、耐えられません」 笙子は驚いて、思わず吹き出した。 グラスをカラリ、と鳴らして微笑みながら憮然とするみずきを見る。 「一応・・・想ってはいるのね、」 「・・・遊びや気まぐれだとでも思いますか?」 「そうは思いたくないわ」 「俺は・・・女が好きなんです、どうしようもないです。だけど・・・」 みずきはそこで言葉を切った。 笙子はグラスを置いて、カウンタに乗り出すように囁いた。 「遊びや一時の迷いなら、手を引いてくれないかしら。あの子にはもっと良い人を探すわ」 みずきは目を見開いて相手を見た。 その目は、真剣だ。 逆らえない輝きが宿っている。 意思の強い瞳だった。 その目に負けそうになりながら、しかし目を逸らさなかった。 「今なら、まだ間に合う。前とは違うってこと、理解するはずよ」 「・・・・・」 解っているのだ。 見抜かれていた。 みずきが、迷っていることに。 決心は偽りではないけれど、まだそれを口に出せないでいる。 その自信がないからだ。 そして笙子は、そんな臆病者は要らないと言っている。 はっきりと切り捨てる。 相手がただの高校生だろうと、砕の一生を抱えるならすぐに真剣な答えを出せという。 しばらく見つめ合ったまま、しかし先に視線を外したのは笙子だった。 「ごちそう様」 そのまま、カウンタを離れてそしていつのまにいたのか、影の如きボディガードと一緒に外に向かった。 れをみずきはずっと見ていた。 同僚に呼ばれるまで、動けなかった。 みずきはその翌日、砕の家に足を向けた。 いつもは躊躇っていたその一歩も、気にせずに踏み込む。 睨まれる様な挨拶にも、はっきりと答えた。 「笙子さん、いらっしゃいますか」 すぐに、と案内されて入った部屋は初めて笙子と会った部屋だった。 同じようなスーツを着て、しかし態度は寛いでいた。 テーブルに肘をつき、その細い指の先に煙草の紫煙が上がっている。 みずきはその前に、同じように用意された座布団には座らず、よけてきっちりと足を揃えて座った。 それから、手を付き頭を下げた。 「砕を、下さい」 驚いたのは笙子だけではない。 人払いもしてなかったので、笙子の秘書のような組頭も居たし、案内してきた男も、開け放たれた向こう側の襖の向こうにも何人かはその声を聞いた。 笙子はしかし、口端を上げただけで、煙草をもう一度吹かした。 「・・・それが結論?」 「そうです」 「あの子は私の後を継ぐわ。あの子と一緒に、この家に入ってくれるのかしら」 「いいえ。俺は、何もしません」 きっぱりとみずきは言い切った。 「砕は一人でも出来るはずです。むしろ、俺が勝手に入ったら邪魔になるだけです」 「・・・・でも、あの子にはこの家が、付いてくるのよ」 「結構です。それでも、俺には砕が必要です。一生」 初めから、こうすれば良かったのだ。 つまらないことで悩んでいないで、逃げ道を作らなければ答えは見えた。 はっきりと手に入れたほうが自分の性にも合っているのに。 覚悟したときから決まっていたのに、何を悩んで迷っていたのか。 欲しいもは一つで、それに替えは利かない。 答えは、一つしかない。 「・・・嫁にはあげないわ」 「嫁に、欲しいと言っているんじゃないんです。俺以外の人間に触れさせたくない。だから、他の人間を勝手に近づけないで下さい」 「・・・近づけても、あの子が相手にしないと思うけど・・・」 「俺が、我慢できないんです。忍耐強くないと、昨日言いました」 笙子はみずきの強い視線を受けてしばらく黙ったが、ふと視線をずらした。 みずきの後ろを見て、 「・・・砕は、どうしたいの」 いつのまに来たのか、みずきが来たことを知って降りてくると笙子への宣言で、声をかける隙がなかったのだ。 驚いて、立ち尽くしている。 みずきも振り返ると、砕はみずきを見つめて動いた。 みずきの隣に座り、母親を見つめる。 「俺は母さんの後を継ぎます。でも、みずきと一緒に居させて下さい」 きっぱりと言った息子の目に、笙子は目を細めた。 それから煙草を灰皿に押し付け、深々とため息を吐いた。 「・・・こんなに早く、人にあげるつもりなんかなかったのに」 呟いて、しばらく続いた沈黙のあと、そばに控えていた組頭である、坂藤東吾<さかふじとうご> が口を開いた。 「・・・なんだか、父親と娘の会話のようですねぇ」 傍観するしかなかった外野はまさにその通りの感想だったので、思わず頷いた。 そしてみずきが真剣な顔で、 「・・・とすると、俺は一発は殴られなきゃならないんでしょうか・・・」 あまりに切実な声だったので、思わず砕は吹き出した。 それにつられて、笙子や周りからも笑顔が零れる。 波紋が広がるように、笑が大きくなった。 それから、みずきは引き留めようとする砕にバイトだから、と引き離す。 「・・・そういえば、どこでバイトしてるの?」 「・・・・・・」 思わず、黙ってしまうみずきに砕は詰め寄る。 「俺が、行けないところ?」 「・・・・また、今度」 詰まるみずきは、にやにやと笑っている笙子に気付き、ため息を吐いた。 「・・・・笙子さんと一緒ならな・・・」 それしか、言えなかった。 |
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