自慰行為 ―皇紀―





「鬱陶しいな・・・落ち込むなら、自分の部屋に帰れ」
会社から帰るなりシャワーを浴びた皇紀は、ミネラルウォーターのペットボトルを持って床を見下ろす。
そこに居たのは、もうここに住んでいるのではないかというほど入り浸っている恭司だ。
それは鍵を渡した時点で、想像がついたので諦めてもいるのだが、ただでさえ図体がでかく、一人で何人分も騒がしい年下の男が、何も言わず身体を丸めているのにも目障りだ、と皇紀ははっきりと顔を顰める。
「ひ・・・酷い、皇紀さん・・・っ」
打たれ強いはずの恭司が目に見えて落ち込んでいるのは珍しいと思うが、理由を知ればだから何だ、と皇紀は呆れるしかないのだ。
「俺が・・・俺がこんなに落ち込んでるのにー」
「気にいらなきゃ辞めろ。お前の年齢ならまだ何度でもやり直しがきくだろう」
「簡単に辞めれるなら、悩んでねぇし!」
「辞められないなら、悩むだけ無駄だろう。与えられたものをするしかない」
「そうだけどー、こうさ、恋人がさ、落ち込んでたら、優しく包み込んで甘えさせてくれるのが年上の・・・」
ガン、と皇紀は恭司の言葉の途中でキッチンシンクにペットボトルの底を打ち付けた。
その衝撃で中身が零れようと、気にはしない。どうせ水なのだ。
それだけで皇紀の機嫌を察した恭司は慌てて、
「いえ、何でもないです、すみません・・・」
「そういう相手を求めているなら、すぐに荷物をまとめてここから――」
「求めてない!」
出て行け、と皇紀が言う前に恭司が遮る。
「そんな人がいいんじゃなくて、皇紀さんがそうしてくれたら、俺、嬉しすぎて昇天しそうって思っただけじゃん・・・」
「そのまま還ってくるな!」
「無理ー皇紀さん残して、俺どこにも行けねぇ・・・むしろ死んでも死にきれねぇ。きっと浮遊霊になって自縛霊になって・・・」
「そのまま寺へ駆け込んでやる」
「ううう・・・」
床に顔を伏せる恭司が、泣きまねなのを知りつつも、皇紀は立ち昇る怒りを溜息を吐いて霧散させ、
「本当に・・・今さら悩んだってどうしようもないだろう。もう辞令は下ったんだろう? それも経験と思って、受け入れるしかないだろう。なんだってやる前から敬遠してちゃ何も出来ない」
社会人の先輩として、皇紀は諭すように口を開く。
実際、恭司がここまで落ち込むのも無理はないか、とも思うのだが、やはりそれも経験だと思えば受け入れるしかないと思う。
この春、恭司は勤めていた出版社で部署の移動を言い渡された。
その行き先が、「少女漫画」だという。
恭司は今まで、そのものを読んだことがないと落ち込んでいるのだ。
「だってさぁ・・・キラキラしたりうるうるしたり始終恋愛のナントカだけで浮かれて沈んで終わって・・・」
今まで携わっていたのが社会派のノベルズだっただけに、衝撃が大きかったらしい。
「よくわかんねぇんだもん・・・」
「いい大人がもん、とか使うな!」
「だぁって皇紀さんー・・・」
「だっても禁止!」
落ち込む恭司の前に立って見下ろすと、情けない顔をしたままで見上げてくる。
縋るような目に、皇紀は最近これが苦手だ、と思う。
甘えるな、と怒りつつも、甘えてくるのがどうも可愛く見えて突き放しきれないのだ。
皇紀はもう一つ溜息を吐いて、
「・・・だから、左遷とかそう思うまえに、会社に認められたってことだろう」
「・・・なんで?」
「まったく知らないジャンルなんだろう? 長く出版社に勤めたいなら、端から端まで知っておかないと将来上にはいけないだろうが。それを知れ、と敢えて用意してくれたのかもしれないだろう」
毛嫌いする前に、どんなことも勉強だと受け入れろ、と諭す。
「皇紀さん・・・」
目を潤ませて見上げてくる犬のような相手に、皇紀は思わず笑みを零して、
「それに、お前は充分素質があるしな」
「へ?」
「何がウルウルキラキラが解からない、だ。この暑苦しいくらいの恋愛体質のくせして」
皇紀に対して始終浮かれたり落ち込んだりしている男は、皇紀から見ても恋愛を中心に生きているようだった。
恭司はそれに少しだけ眉根を寄せて、
「あのさー? だって俺、もともとこんなヤツじゃなかったんだぜ? 恋愛も適当だし、付き合いも適当だし、そもそもこんなに長く誰かと付き合ったこともないし。俺が恋愛に必死なの、皇紀さんがつれないからなんだけど!」
だからもっと相手をしろ、と手を伸ばしてくるのに、皇紀は顔を顰めて、
「・・・充分相手をしてやってると思うが・・・」
「まだ! まだ足りない! 全然足りない!」
「何が足りないんだ・・・」
「ヤリ足りない! ッでぇ!」
ガツッと拳のほうが傷付くほど強くその頭を殴りつけた。
未だにこの躾けの方法は変わらないことに皇紀は怒りで顔を染め、
「お前はどうしてそれしか考えないんだ!」
「いってぇーーーっ! 皇紀さん、今つむじモロ、だった・・・っ」
「自業自得だ!」
「皇紀さんー」
「うざい! 纏わり付くな!」
「うざいの解かってるけど・・・しなきゃならないのも解かってるけど」
仕事は仕事。恭司は愚痴りながらも受け入れるつもりではいるらしい。
けれど逃げようとした皇紀の足に縋るように手を伸ばし、
「けどさぁ、こう、慰めて欲しいときとか・・・あるじゃん? 男として、慰めるのって普通にするけど、たまには慰められてみたいとかー・・・」
うっとりと強請る年下の相手を皇紀ははっきりと顔を顰めて睨み、
「お前のそういうところが、少女漫画でうざいと言うんだ・・・!」
「うーわー・・・ひっでぇ言われよう・・・でも慰めて・・・」
「おい、こら、やめろ・・・っん!」
下から足の形を確かめるようになぞられて、抱きついた腰に顔を寄せる恭司に皇紀は焦ってしまう。
どうにか引き剥がそうと部屋を見渡して、
「わ・・・解かった、慰めるから!」
「・・・ほんと?」
「本当だ、だから離れろ!」
離れなくてもこのまま、と絡む手を振り切って、皇紀は鞄の中から雑誌を数冊取り出して恭司の前に投げた。
「・・・・これ、」
それはどれも、住宅情報、と書かれた表紙が並んでいた。
皇紀は躊躇って、どこか落ち着かないものを持て余しながらも仕方ない、と口を開く。
「付箋が付いているのが、訳アリでも受け入れてくれるとこだから、そこから好きなのを選んで・・・」
口調がぶっきら棒になるのは、照れを隠しているのだと自分でよく解かっている。
しかし、皇紀の性格上今さら素直になれるはずもない。
男同士で同居する場合、まったくの他人というのは敬遠されるものだ。
今の隣同士の状態でも変わらないかもしれない、とも思うのだが、使っていない物置状態になりつつある恭司の部屋が、不経済だ、と思うようになった。
ほぼ同棲状態の今に慣れて、皇紀はこのままだと一緒に住んでも変わらないだろう、と判断しとうとうこの決断をした。
「どうだ、慰められたか、まぁすぐじゃなくてもいいからじっくり選んで・・・」
「・・・・っ皇紀さん!!」
「うわ!」
どか、と大きな塊に勢い良く抱きつかれて、皇紀は反動で床へ倒れこむ。
「危ないだろう、この莫迦!」
「皇紀さん、皇紀さん皇紀さん・・・っ」
頭を打たなくて良かった、と怒鳴るのに、恭司は感情を抑えられないとばかりに名を呼んで力いっぱい抱きしめてくる。
きっと尻尾があったら、引きちぎれんばかりに振っているだろう恭司に皇紀は天上を見上げて呆れ、
「・・・解かったから、いい加減落ち着け、これくらいで、もう・・・」
「皇紀さん、皇紀さんー・・・っ」
「はいはい、もう・・・ってこら! お前何してる!」
大人しく抱かれているのを良いことに、恭司の手がシャツの中に入り込んで顔を首筋に埋めてくる。
「俺は、シャワーを浴びたばかりで・・・っ」
「うん・・・良い匂い、たまんねぇ・・・」
「そうじゃ・・・っ莫迦、おい、もう・・・っ」
「ごめん、我慢出来ない・・・」
皇紀さん、好きだから。
恭司はだから許して、と強請る。
皇紀は大きく息を吐き出して、最近本当に、甘くなった、と自分に呆れた。


to be continued...



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