恋愛シーソー 前半戦1





秋篠は走った。
身体の至るところが痛くて、崩れ落ちそうだったけれど奥歯を噛み締めて走った。
涙など、流せるはずもない。
悔しくて、情けなくて、そして怒りで、身体中が震えていた。
歩けばほんの10分ほどの距離を、呼吸が覚束なくなるほどの勢いで走りぬけた。
いや、軋む身体を堪えて走ったから、より疲れたのかもしれない。だが落ち着いて歩いてなどいられなかったのだ。
一刻も早く、逃げ出してしまいたかった。
朝靄のかかる六月の早朝。
秋篠は自宅のマンションに着くなり真直ぐにバスルームに駆け込んだ。
纏わり付いた霧のせいで、シャツが湿りを帯びて思うように脱げない。
さらに腕や身体を動かすだけで、全身が痛かった。
もう構わない、と秋篠はそのまま浴室へ入って頭からシャワーを浴びた。
湯気の出る温度になってから、ようやく秋篠は一層纏わり付いた服を脱ぎ始める。
早朝からこれだけ音を立てても家人が気付かないのは、この家に今秋篠は一人だからだ。
母親は毎週末ごとに、単身赴任中である父親のもとに行ってしまっていた。
それに今日ほどほっとしたことはない。
濡れたシャツを首から引き抜いて、床のタイルに落とした。その時に腕が視界に入る。
左腕を見て、細いな、と自分で感じた。
体格は小さな子供ではない。至って平均な男子高校生のはずだ。
少しひょろりとしているかもしれないけれど、それは遺伝だ、と思うことにした。
それでも細い、と思ったのはその腕に赤く痣が付いていたからだ。
掴まれた、痕だった。
掴んだ相手の手は、簡単に秋篠の腕に回る。逃げ出さないようにしっかりと押さえつけられて、こんな痣になってしまった。
よく見れば、身体中に鬱血した痕跡もある。
秋篠は笑った。
顔を歪めただけだけれど、笑おうとした。
笑うしかない。
そう思ったのに、頬を濡らしたのは降り注ぐシャワーのお湯だけではなかった。
それに気付くと、堪えきれないように嗚咽も零れた。
耐えろ。
忘れろ。
消えてしまえ。
秋篠は暗くなる感情を流してしまえ、とただ泣いた。
弱い自分を情けないと感じた。
酷い相手を赦せないと感じた。
それでも秋篠は決めたのだ。
最後に賭けをしようとした。
これは、譲れないプライドのせいだ、と思いながらも秋篠はもう決めてしまった。
だから逃げ出したのだから。


to be continued...



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