歌姫 4 ツェンが目を覚ますと、豪奢な天井が見えた。 ここはどこだ、と身体を起こすと、その身体が軽いことに気付く。 気を失ったことは覚えていた。 冷えた北の街中で、力を失くして目を閉じた。 さすがに一ヶ月何も食べないとどうなるのかは、理解していたのだ。 体力もなくなっていたはずなのに、身体が意のままに動くことに驚いたのだ。 その腕に針が刺さり、そこから管が付いていた。 どうやらそれが動ける理由のようだ、と理解して、ツェンは横たえられていたベッドの脇に座る人形に気付く。 「・・・アリタータ」 綺麗な絹の衣装に着替えさせられていたけれど、その顔を間違えるはずもない。 艶を失くしていたゆるくくせのある黒髪も、どこか霞んでいた肌も、美しく輝いていた。 となれば、ここが目指していた博士の城なのだ、と知る。 「綺麗になったな」 笑って手を伸ばすと、アリタータの手がそれに触れた。 まさか握り返されるとは思わず、驚いたところで部屋のドアが前触れもなく開いて、 「・・・あ、目が覚めた! 博士! シェリー! あの人気付いたよー!」 シュリと呼ばれていた少年だ、とツェンは思い出す。 表情が良く変わり、人間に見えたけれどここに居るのならアンドロイドだったのだろうか、とツェンが思っている間に、その扉が大きく開き新たな人間が姿を見せた。 一人はシュリと一緒に居たブルーという男で、もう一人は背中まで髪のあるアリタータと同じ表情をした一目で人形と分かる少年だ。 そして、右目にモノクルをし口許をゆるく笑みにしたままの男がツェンに近づく。 「ツェンエータ?」 呼ばれて、ツェンはあの二人に名を名乗ったことを思い出す。 確かにそれは自分の名前なので素直に頷いた。 「アリタータを連れて帰ってくれたことに、感謝しよう。これは私の初期のものでね・・・所在を示す機能を付けていないものだから、姿を消されて困っていたんだ」 少しもその顔に困ったことなど表しもしないで、男が笑う。 アリタータを創ったというのなら、この男が博士なのだ、とツェンは理解した。 「アリは、もう誰のものでもないな?」 主人は居ないのだろう、とツェンは確かめておきたかった。それを博士はすぐに頷いて、 「アリタータを買った主人は、すでに死亡を確認しているよ。それより・・・一月も絶食する君の意向を知りたいね」 「自分の知る、一度だけ願いを叶える方法だと信じているからだ」 一日に二度、両手に掬う水を飲むことだけは、許されていた。 願いが叶うまで、そのほかには何も口にはしない。 そうすればやがて、願いは聞き届けられて叶うのだ、とツェンは伝え聞いていた。 博士は少し驚いた風を見せながら、 「未だそれをする人間がいたとはね・・・ツェンエータの名前は伊達ではないと」 笑う博士に、戸惑いつつも訊いたのは後ろに居たブルーという男だ。 「200年前に、滅んだと聞いたけれど、」 「だから・・・末裔と言うのかな? ようこそ北の城へ、風の王」 ツェンは驚いて、二人の男を見比べる。 その名前はもう、誰も知らないはずだったのだ。 ツェンはその名前を使っているけれど、正式にはツェンエータが本当の名だった。 その意味は博士の言うように、風の王。 流浪を続ける一族の、王の名前だった。 そしてブルーの言うとおり、その一族は200年も前に滅び、一族に伝わる言葉も同時にこの世から消えた。 ガクライ語は、風の一族が操る今は亡き言葉で、ツェンはアリタータの身体を見たときに驚いたことを思い出した。 その失くなった文字で、身体に刻まれていたアリタータの名前。 ツェンはどこかに因縁を感じた。 博士は変わらない笑みを持ったままで、 「それで・・・神様は君の願いを叶えてくれたのかな?」 「俺の願いを叶える神は、あんただ」 ツェンは真っ直ぐに博士を見上げた。 ベッドに座ったまま、その手には無言のアリタータの手が握られたまま、 「アリタータが、欲しい」 この腕に抱いて、他の誰にも触れさせないと決めた。 もう、怯えて眠れない夜を過ごさせないと決めた。 その隣にいて、その名の通りの声を聴くのは自分であるのだ、と決めた。 ガクライ語で、歌姫、と呼ばれる名前の人形を、ツェンは誰よりも欲した。 「代金は・・・見ての通り俺は金もないが、財産に変わるものは一つだけだ。俺の傍にいた黒鷲の首にかかる石、あれだけだ」 碧色の宝石は、本物だった。 金額にすれば、貴族の地位を買えるほどのものになる。 博士は理解したように頷き、 「しかしあれは・・・君が王であるという証だろう?」 確かに、一族の王に受け継がれるものだ。 それが、ツェンが風の王であることを示す唯一のものだった。 しかしツェンの意思は決まっていた。 「一族は、滅びた。あんたたちの言うとおり、200年も前に。俺からそれを受け継ぐものは居ない。もう、必要のないものだ」 誰よりも欲しいのは、アリタータだった。 あの暗い部屋の中で、初めて見つけたときからツェンの気持ちは決まっていた。 いや、何かに導かれてあそこへ辿り着いたような気もする。 壊れたもののように動かないアリタータの、初めてその目の中に自分が映ったとき、ツェンはこの人形に囚われてしまったのだ。 手に、アリタータの温度を感じた。 ツェンはそれを強く握ると、微かながらも小さな手が握り返してきた。 それまで何の反応もなかった綺麗な人形が、ゆっくりと口を開いた。 微かに動いた口が、何かを言おうとした。 「アリ・・・」 「リュ シータ」 ツェンが訊き返す前に、その口がはっきりと声を出した。 その言葉に驚き、しかし握り返された力は本物なのだ、とツェンは嬉しさに笑った。 「・・・やっと、お前の声を聴けた」 アリタータの表情が初めて崩れ、それは感情が溢れるように涙を零し誰に断ることもなくその身体をツェンに摺り寄せた。 泣き顔でありながら、気持ちをツェンに見せたアリタータをツェンはしっかりと抱きとめる。 その行動をただ見守っていたシュリという少年が、首を少し傾げて、 「・・・あの人、ツェン何とかっていうんじゃないの? リュなんとかって?」 それに答えたのは、隣に並ぶブルーという男だ。 「リュ、はガクライ語で一番尊い敬称だよ。シータは、一番輝く星、という意味で・・・」 「一番輝くお星様?」 直訳したシュリがまた不思議そうに首を傾げるのに、博士が楽しそうに笑いつつ、 「一族で、輝き続ける星は王だよ、つまり王の名だけれど、広く使われているのは、その気持ちを込めて最愛の者に使う呼び名だ」 仕方ないな、と博士はツェンに抱えられたアリタータを見る。 「せっかく帰ってきたと言うのに・・・私の可愛い人形はもう新しい主人を見つけてしまった」 「では・・・」 腕の中に居る確かな存在を、ツェンはしっかりと抱きとめて、自分の願いが叶えられたのだろうか、と確認した。 博士はどうしようもない、と頷いて、 「私の人形は、自分で主人を決める。これは私にもどうしようもない。しかし・・・これも運命かな」 「なに?」 「アリタータを最初に買い求めたのは、ツェンタータ――200年前に、一族と同時に滅びた風の王だよ」 「――――」 一族が滅びたのは、その知識のせいだ、とツェンは伝え知る。 それを自分のものにしようと周囲の国と部族が争い、それに巻き込まれ他のものになるよりは、と一族は滅びることを願った。 「アリタータがその争いに巻き込まれて消えたとき、どうしても見つからなかったのは、新しい主人を知って待っていたからかな」 博士は自ら創り上げた人形ながら、人智を超えるこの存在に改めて感嘆したようだった。 「・・・ねぇ、博士って、いったい何歳なの?」 ブルーという男の隣で、シュリが訝しんだ顔を見せる。 それに博士は笑って流しただけだ。 しかしツェンはそんなことももうどうでも良かった。 どれだけ時間が流れていようとも、どんな場所で生きていようとも、あの瞬間まで居たのは自分を待っていたのだ、と思うだけでツェンは身体が温かくなるのだ。 「リュ シータ」 泣き顔で、もう一度ツェンを呼ぶ人形は、もうツェンのものだった。 ツェンはその涙を掬うように口づけて、何よりも強い願いを込めた。 「アリタータ、もっとお前の声を聞かせてくれ」 * アリタータの世界は輝いた。 押し込められていた記憶が開き、穏やかに笑っていた過去が溢れてくる。 その間は暗闇に押し込められながらも、アリタータは待ち続けていたのだ。 自分で知っていたことではないが、何かが決められていたのかもしれない。 不安と恐怖に落とされながらも、アリタータは待ち続けていたのだと、今なら分かる。 光を持って、自分の主人が迎えに来てくれるのだと、アリタータは信じていたからだ。 どれほど気の遠くなるような時間を越えようとも、アリタータはそれが間違っていなかったと確信した。 自分を抱きしめる腕は強く、なにより安堵が広がる。 これからも、この腕の中で眠れるのだ、とアリタータは主人を見て嬉しさに微笑んだ。 |
fin.