Green Monster 22
カンカンカン、と夏流の靴が音を立てる。 貴弘を楯に取られているというのに、身体が止められなかったようにも見えた。 半分以上階段を降り、視線を近付けるとますますその目に温度が感じられず貴弘は凍りついてしまう。 「夏流!」 静止させるような洋平の声が、姿は見えないはずの下から届いた。 それに気付いたのか、夏流が足を止めて、 「その似合わない服は、誰が用意したんだ」 貴弘の着ている古びたつなぎを見て言う。 男は息を吐くように笑って、 「俺も出来るなら、着飾っておきたかったけどな、動きやすいのが一番だったもんで」 仕方なく、と会話を交わす。 「お前の選んだ服など、似合うものか」 「そうか? 俺はこれでも、見る目はあるつもりだ」 「お前の感性など知ったことか」 「ただの誘拐だったけど、思わぬ拾いものをした。お前の名前は?」 「自己紹介の必要がどこにある?」 「まぁいいか、名前は聞いたし、ナツル」 「名前を呼んでいいと言った覚えはない」 「俺はヒューガ。今度は同じ側から会いたいもんだ」 「二度と会うつもりもないし、名を呼ぶこともない」 のんびりとした会話にも聴こえるけれど、夏流の低い声が貴弘を不安にさせてしまう。 同じ声を聞くのなら、この腕ではなくあの身体の中がいい、と動きかけた身体を背中の男、ヒューガと名乗った相手が引きとめた。 それから音もなく振動した携帯を取り出して相手の声を聞き、そのまま終えた。 「もう時間稼ぎは終わりだ。残念だけどここでお別れだな」 「一人でさっさと消えてしまえ」 夏流にとって、誘拐されたのはアシュレイでその内容などもどうでもいいことだった。 目の前に居る貴弘が、腕の中に戻りさえすれば誘拐犯のことなど関係ない。 後を追うこともないし、必要性も感じない。 洋平や紀一、アシュレイの父親側からすればヒューガを捕まえて背後をはっきりさせたいのかもしれないが、夏流には関わり合いのないものだ。 ヒューガはしかし、口元を笑んだままで洋平の方を見下ろして、 「下に控えてる奴らを引かせろ。俺がここから出て、そうだな、200メートルは動くな。そしたら、タカヒロは返してやる」 「そんな・・・」 「別にお前がどこへ行こうと関係ない。すぐに貴弘を置いて消えろ」 躊躇う洋平の声に、夏流は人質の必要もない、とあっさりと告げる。 むしろ、このままここに貴弘と留まるほうが命の危険があるぞ、と気配で教えた。 「黒豹に動くなと伝えろ。でなきゃ、このままタカヒロはただでは済まなくなるな」 「貴弘を・・・・殺すというのか?」 夏流の声は、冷たさよりも痛みを感じる凍てつきに響いた。 それにヒューガという男はまだ笑みを向けたままで、 「そんなもったいないことするか。充分楽しませてもらうだけだ」 何に、楽しむのかは口にしないけれど、夏流の気配を険しくするには充分だった。 「その坊ちゃんは返したけど、お前らにとって、この男の機嫌を損ねるのも嫌なんじゃないか?」 この男、と階段の途中で足を止めたままの夏流を指すと、洋平は確かにその通りなので自分の携帯を取り出し男の要求を誰かに告げた。 その携帯を切り、 「3分後に」 貴弘を捕まえたままの男を見上げる。 「了解。じゃあまた逢う日まで。坊ちゃん、危ないから一人で出歩くのは止めろよ」 最後まで男は動揺を見せることなく、洋平の傍から身動きも出来なくなったアシュレイに笑いかけて貴弘を抱いたまま、後ろ向きに非常ドアを開けて身体を滑らせた。 貴弘はそれと一緒に外の冷たい空気を感じながら、夏流の目から視線を外せなかった。 重たい鉄のドアに阻まれるまで、声もなくじっと見上げていた。 ドアが閉まると、何もかもから切り離されたように思えて貴弘は目を彷徨わせて俯いてしまう。 「タカヒロ?」 それまで、躊躇い戸惑っても他に動くことのなかった貴弘が、目を滲ませる。 「おいおい・・・そんなにあの男が恋しいのか?」 ヒューガは呆れを含んだ声で呟き、動かない貴弘を荷物のようにひょい、と肩に担いだ。 そのまま勢いよくビルの壁に沿ってある鉄の非常階段を駆け下り、 「すぐに返してやるから、泣くなよ」 「・・・・・泣いてない」 「その声で、泣いてないとか言うな。野郎なのに可愛くて喰っちまいたくなるだろ」 「・・・・・可愛くない」 「はいはい」 地上に降りたとき、そこが今までとどう違うのか貴弘には分らなかった。 最初にこのビルに車で入って来たときと変わらず、誰もいない道路があるだけに見えたのだ。 ヒューガは貴弘を担いでいるとは思えないほどの速さで路上を走り、二つ目の角を曲がったところで足を止めた。 貴弘をアスファルトに落とした瞬間、すうっと低い車体が隣に止まる。 感情が乱れた貴弘は、涙も止まり見上げるような男を振り仰ぐと、その指が頬に触れた。 「誘拐は終わりだ。今度は、夏流とも楽しく会いたいもんだな」 長い指がゆっくりとその顔から初めてサングラスを取る。 その下から現れた目は、深い蒼い色の目で貴弘は吸い込まれそうに見詰めた。 口端だけでなく、目元を細めて笑う顔に、貴弘は印象を違うことはなかった。 ――似てる、んだ。やっぱり、 これではますます夏流が嫌い、男の願いは叶わないだろう、と実感する。 貴弘の頭を軽く叩いた男が車に乗り込むと、あっという間に道路の向こうへと走り去った。 その勢いに、まるで一日起こったことの全てを攫われるようで貴弘はぼうっと見えなくなった方を見つめてしまう。 時間はいつか分からないけれど、静まり返った路上もビルに囲まれた周囲も、寝静まるはずの深夜なのだ、と教えてくれる。 冬の気温が肌に触れて、寒い、と感じたのは漸く現実が実感してきたからなのだが、この場所で置かれて貴弘はどうしよう、と思った瞬間、また隣に車が寄せられた。 低く黒い車体は、見覚えがあった。 「乗れよ」 言われて、貴弘はのろのろと身体を動かしナビシートに身体を座らせる。 今日の朝、ここに座ったことがもう随分前に感じられた。 隣では、その時間差も感じさせない紀一が視線を向けて、 「怪我は?」 貴弘がどこも痛みすら感じない、と首を振ると、紀一は本当に安堵したように珍しく息を吐き出す。 「お前に傷がついたらなぁ・・・本気で、俺はあいつに殺される」 それが冗談にも聞こえなくて、貴弘はそう言えば、と自分のお腹を摩った。 触れても痛くもない。 しかし、確かここを思い切り殴られ息も苦しくなった、と怪しげなホテルでの出来事を思い出して思わず着ていたつなぎのファスナーを引き下ろしシャツを捲り上げる。 「なんだ?」 「ここ・・・確かに殴られたんだけど、痛くないし、アザもない・・・」 一瞬、息が出来ないほどだったんだ、と貴弘が説明すると、変化のない細い貴弘の身体を見た紀一は少し眉を歪めて、 「お前、相手の顔見たか?」 「あ・・・うん、見た」 ほんの少し前に別れた男を思い出し頷く。 「ヒューガって人、目がアオイロだった」 「ああ・・・」 「知ってる人? そういえば、後、追わなくていいの?」 相手の消えた方を指させば、紀一は口端を上げて、 「そいういう約束だからな。今回は、見逃す」 その表情を、貴弘はさっきまで一緒だった男と重ねてしまう。 似ているというと、この男はどういう反応を見せるだろうか、と少し考えたけれど、車は進み見なれた場所へと帰る。 「・・・夏流は?」 夏流のマンションのはずの駐車場に車が滑り込んだのに、紀一は部屋を指すように顎を上に向けただけだ。 部屋に向かうエレベータに乗りながら、紀一は細く息を吐いて、 「機嫌も最高だからな、俺は早々にアシュリィを連れて帰る」 最高に良い訳ではない、と紀一の声が低く響いた。 あの碧色の子供がいなくなる。 貴弘は改めてそれを実感して、少し心が軽くなったことに罪悪感を覚えた。 それは僅かな時間でも一緒に居て、しかも日常でない場所で震える姿を見てしまったからだ。 自分以上に傷ついただろう見かけよりも幼い相手を思ったけれど、安全な場所へ帰るほうがいいに決まっている。 夏流の隣にあの姿があるのは、やはり落ち着かない気持ちになる。 自分の気持ちなのに複雑なものを抱え、それをどう表わしたらいいのか、と思案するうちに夏流の部屋に着いた。 ここで泣いているような子供のアシュレイを見たのは、今日のことだっただろうか、と変化のないドアを見て開けて廊下に続く玄関へと入る。 その瞬間、どすん、と身体に何かがぶつかった。 「・・・・え?」 視界に入ったのは、見間違えようもない金色に揺れるもの。 自分よりも大きなものにしがみ付かれて、貴弘は驚いたまま固まってしまった。 |
to be continued...