喫茶店の二階に。





パソコンの前に座りながら、満井慶介は苛付いていた。
画面には作成したばかりの資料がプリントを待っている。
隣と区切られたスペースの自分の机の上は、今にも倒れそうなほどの料で溢れていた。
週明けの一日をかけて作った書類が完成したというのに、気分は晴れない。
内ポケットに入れていた煙草をつい取り出し、慣れた作業のように口に銜え、火を付ける。
その瞬間、煙が立ち上ろうとしたとき、後ろを通りかかった男に咎められる。
「満井さん、禁煙ですよ」
今月から、この会社でも全社内禁煙なるものが取り入れられた。
その至福の一服を手に入れられるのは、今や休憩室のその奥の区切られた一角のみだ。
そんな狭苦しい中に押し込められて、なにが一服か、と慶介はまた苛立ったが、持っていた携帯灰皿に火を付けたばかりの煙草を入れる。 髪を後ろに撫で付けた頭に手を入れ、暴れだしたい苛立ちをどうにかしようと考える。
しかしどうしようもないのだ。それも判っているから、なおさら腹が治まらない。
この原因はいくつかある。
先週末に提出した案件を、定時になって、部長にリテイクを喰らった。
そのせいで土曜に休日出勤する破目になり、静かな社内でそれでも片付けていると、その部長からまた連絡が入り、訂正箇所を作ることになった。そのうえ、書類の量も増えてしまった。
意地になってその資料をかき集めていると、もうすでに日も落ち、会社の立ち並ぶオフィス街は必要以上に静かだった。
慶介はまとめるのは週明けに回し、強制的に仕事を打ち切った。
そのままひとりで飲みに走った。


かなり酔いの回った慶介は、その勢いのまま、会社に戻ってきた。
実は会社の部長の席にいたずらを思いつき、帰ってきたのだが、飲み屋の立ち並ぶ、ネオンの明るい駅前と違って、このオフィス街は異様に暗い。
酔いの勢いのままだった慶介はそれで少し、理性が戻った。
三十を前にした男のやることではない、と自分を馬鹿にしたとき、暗いその街に明かりを見つけた。
誘われるようにその光の下に行くと、ビルの合間にある二階建ての建物だった。その一階から、光が漏れている。
外から見る限りは、小さなカフェに見える。
入り口にはプランターが並び、大きな窓に内側からブラインドが下りているものの、中からの明かりは防ぎきれていない。
慶介は、酔いの覚めきっていない頭で、そのドアに手をかけた。
「PULL」と書かれたドアを引くと、鍵はかかっておらず、そのまま抵抗なく引けた。
チリン、と涼しげな音がして、慶介は中を覗き込む。
店内は広くはなく、カウンタに数席、窓際と反対の壁にそって何席があるほどだった。
そのカウンタの向こうに、一人男が立って入り口の慶介を見た。
「・・・もう終わり?」
酔った声で、ドアに凭れかかりながら相手を見た。
カウンタに立つ男は、白いシャツに黒のスラックス、エプロンをかけたらそのまま営業出来そうな格好だったが、優しそうな笑みを浮かべて、
「どうぞ」
とカウンタを指した。
慶介は遠慮もなく、その席について、相手をまじまじと見た。
長めの前髪を横に流し、その合間に見える目はとても綺麗だ、と慶介はそれが第一印象だった。
顔立ちも、男にしては綺麗過ぎた。
しかし、いやみがない。
その男のまとう、雰囲気のせいかもしれない。
この店の空間が、その男そのものだと言って良い。
綺麗な店内に、整頓されたカウンタ内。清潔な格好。
慶介は、この店を知らなかったことに驚いていた。
「この店、何時まで?」
腕時計はすでに深夜に近い。
この人気のない夜のオフィス街で、営業している意味があるのだろうか。
相手はカウンタの中で笑って、
「今日は、休みです」
いつもは平日、朝七時から夕方七時まで。
今日は仕入れとその片付けでこの時間にここにいるらしい。
それを聞いて、
「じゃあ・・・悪かったな。入ってきたりして」
「いいえ。それなら、お入れしません・・・何か、飲まれますか?」
「何って、言っても・・・ここ、酒ないんだろ?」
メニューには普通にカフェに並ぶ文字が揃っているだけだ。
相手は笑いながらも、
「仕事じゃないので・・・私のものを。洋酒ですか?」
出てくるのなら、と慶介は頷いた。


ロックグラスに注がれた琥珀色の液体は、紛れもないアルコールで、慶介は再び酔いの中にはいる。
しかし、さっきまでの苛々を抑えるものではない。
かなり、リラックスした空間だった。
慶介は、一人でカウンタにひじを付いてそのまま、カウンタの相手をじっと見ていた。
その中に広げられたものが、端から片付けられてゆく。
どこに何があるのか、躊躇もせずに動けるその様は、この空間が彼の物だとはっきりと判る。
慶介は、その空間を嫌いではなかった。
むしろ、好きな場所だった。
相手はそんな慶介に何も言わず、ただそこにいる。
慶介がグラスを持ったまま微動だにせず見つめていると、相手はくすり、と笑った。
「・・・なに?」
「緊張します。そんなに見られると」
そんな素振りは全く見せずに、さらりと言ってのける。
慶介はそれで、かなり不躾なことをしていたと自覚した。
「悪い・・・君が綺麗だったから」
慶介は思わず出た言葉に、自分でも驚いたのに、相手はただ笑って、
「そんな台詞、慣れてるんですか?本気にしてしまいますよ」
そう返されたことに、少し腹を立てて。
「本気だ。本当に、そう思ったんだ」
言ってしまって、自分が酔っていることを思い出す。
そうだ、酔っていたのだ。
慶介はここで止めないことを、後悔していた。
しかしこのときは、その勢いを止めることなど出来なかった。
カウンタの中で、男が笑った。
「・・・嬉しいです」
慶介は、その後のことを思い出そうとして、頭を何度も振った。
しかし、はっきりと自分を覚醒したのは翌日になってからだった。


目を覚ました慶介は、ベッドから身体を起こし、辺りを見回した。
見慣れない場所にいる。
確実に、自分の部屋ではない。しかし、その辺のホテルとも思えない。
ベッドの置かれた部屋の向こうに、キッチンが見える。
テーブルに二脚の椅子。その向こうに流しやコンロ。
キッチンとこちらを遮るものは上からつるされたロールのブラインドだけだが、今は巻かれてしまって全てが見渡せる。
左の壁は大きめの窓から日が差し込んでいる。反対側に、ドアが二つ。
慶介はそれから自分を見た。
シャツ一枚のみで、その上にいた。
ここがどこなのか、飲みすぎとわかる頭でゆっくりと思い出さなくても判る。あのカフェの二階だ。
あの彼の自宅らしい。
呑みすぎて自分を完全になくすことなど今はもうない。
自分が何をしたのか、忘れることもない。
はっきりとではないが、覚えていた。
ここで、昨日、あの相手を抱いた。
その行為を、完全にではないが思い出せた。思い出して、大きくため息を吐く。
「・・・やばいだろ・・・」
人生経験として、男同士でどうするものか、知ってはいた。
が、実行するときはないだろう、と思っていたのに。
あの清潔な服を脱がせた身体は、とても慶介を欲情させた。
それを思い出し、かなりの自己嫌悪に浸る。
そのとき、片方のドアが開いた。
現れたのは、その自己嫌悪になってしまった原因の相手だった。
気まずいことを予測していたのに、相手は慶介を見て、にっこりと笑った。
「お早う御座います。これ、アイロンかけましたから」
差し出されたのは、慶介のスーツだった。
慶介は最初にそう出されて、動揺から戸惑いに変化し、また、動揺した。
「あの・・・」
それでも慶介は、自分の服を着込んで、ベッドの脇にそろえてあった靴を履く。それで、この床が木を張ってあるだけに気づく。土足で、動き回るのだ。
「何か召し上がりますか?」
先に言われて、慶介は腹は減ってない、と素直に言う。
「では、コーヒーを」
「うん」
慶介は答えてしまって、頭を抱える。
そうではない。
この状況で、何故なにもなかったように振舞えるのか、慶介は聞きたくてそれが喉まで出掛かっていた。
しかし、言葉が出てこない。
部屋に立ち込めるコーヒーの香ばしい香り。
きっと階下の店に立つときと同じように自然にその用意をする相手を慶介はじっと見て、そして何も言えなかった。
時計がまだ、朝早い事を示している。
「どうぞ」
差し出されたコーヒーは、とても美味しかった。
慶介はそのテーブルで一人座り、まだキッチンに立って何かをしている相手の背中をじっと見ていた。
何かを言わなければ。
そう思うが、その言葉が出てこない。
どこかで、このままでいたいと思う自分がいる。
この彼のいる空間を、自分はとても安心してしまっている。
しかし、慶介は思いを断ち切ろうと、立ち上がった。
「・・・帰るよ」
相手は振り返り、笑顔を崩さなかった。
「・・・そうですか」
相手はなにも言わなかった。
慶介も、何も言えなかった。
自宅に帰っても、まさに悶々とした時間だけが過ぎ、そして週明けの出勤、仕事を溜めてたことにまた苛立っているわけなのである。


しかし、仕事を終えても、慶介の苛々は収まらず、自覚のない焦燥感に駆られていた。
原因は判っている。
しかし、認めたくない。
三十を前にした男が、という理性がどこかで引っかかっている。
やっと打ち出した書類を、部長に提出し、受理される。
「機嫌が悪いな」
部長に言われ、言われなくても判っている、と口に出さないだけの理性がまだあったことに感謝した。


慶介はぎりぎりまで会社にいた。
月曜から残業する人間は少ない。
人もまばらになった七時。
やっと、会社を出た。
それから、いつもは通らない道を通る。
彼は、表に出ていた看板を下げているところだった。


慶介は近づいて、まず、名前を聞こうと決めた。
そうすれば、このずっと付きまとっていた判らない想いが、解決するはずだ。
そう思って、彼の視界に入る。
相手は慶介に気づいて、慶介の記憶と変わらない笑顔を見せた。


fin



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