エンディング






駅から出ようとすると、雨が降っていた。
小雨ではなく、結構な雨量だった。
ミチルは書類の入った鞄を小脇に抱え、手に持っていた傘を見つめる。
これを広げて、差せばいいのだ。
柄の少し太い、群青色の傘だった。
男物としては、一般的なのかもしれない。
ただブランド物と銘打ってあるだけに物は良い。
使い込んであるようだけれどどこも綻びてさえいない。
ミチルはそれに視線を落とし、溜息を吐いた。
使っても、良いものだろうか。
今日は雨が降るから、と手にとって出て来たのはいいのだけれど、実際に使うときになって躊躇してしまった。
仕事中のスーツに身を包み、ミチルは営業先へ行く途中だった。
この駅は、いつもミチルが使う駅ではなくその営業先の会社に近い場所だ。
けれど知らない場所ではない。
今までにも何度か――数えられないほど、降りてきた。
仕事でではない。
私用だ。
好きな男に会いたいがために、何度もここを利用した。
取引がないので、その会社に行ったことはなかたけれど、この付近の会社に勤めているのだった。
あの男は。
昔を思い出し、ミチルはもう一度溜息を吐く。
感傷に浸っているのだろうか。
もう、吹っ切れたと思っていたのに。
それもこの場所でこの傘を使うからなのだ。
そうなった原因を思い出し、ミチルは綺麗な顔の中心に皺を寄せた。
「ミチルさん、今日雨降りますよ、傘、貸してください」
すでに住み着いているような、年下の男が出がけに当たり前のような顔で言ってきたのだ。
実際の家は駅に近く、バイト先もそこから近い。
大学へ行くときはいつも誰かの下へ入っていたと言う男は、傘を持っていないらしい。
「え? いいけど、俺は一本しか・・・」
持っていない。
ミチルは玄関で確かめて、二本並んだ傘を見た。
「これ、貸してくださいね」
臙脂色に一筋だけ、黒のラインとロゴの入った傘を掴んで先に家を出て行った。
そして、残ったのが今ミチルの手にある傘だったのだ。
気付いているのだろうか?
この傘が、振られた男の忘れ物だと言うことに。
ミチルに対して並々ならぬ執着を見せる男だが、そういうことは気にしないのだろうか。
ミチルはそれを思い出し、そして傘を持ってこの場所に立ってあの優しい男を思い出した自分に溜息を吐いた。
「・・・まったく、気が利くんだか利かないんだか・・・」
新しい「恋人」の場所にいる男は、ミチルには初めて年下の相手で、しかもその執着がミチルの想像を簡単に超えるためいつも戸惑ってばかりだ。
けれど、その執拗さに安堵している自分に気付いてはいた。
好きなのだろうか。
未だに、迷うところではあるけれど、向こうはミチルの気持ちなど気にしないらしい。
当たり前のようにミチルの家に押しかけミチルの生活を染めてゆく。
それが、嫌いじゃない。
傍若無人な性格に慣れてきたこの頃だったけれど、思い出してしまった。
しかし、だからと言ってなにがあるわけではない。
もう、戻ることはないのだから。
ただ、迷っただけだ。
これを使うことは、赦されることか?
裏切りにはならないか? 怒りはしないだろうか?
ミチルは伺う相手がすでに過去の男ではなく、現在の相手になっていることを知る。
ミチルに対しての執着は、本当に凄まじい。
だから、躊躇しているのだ。
この傘を、使ってもいいのか、と。
そのとき、耳に自然と入ってきた声に意識を引かれた。
「・・・うん、今、駅に着いたよ、これから、会社行く・・・え? 雨? 降ってるけど・・・大丈夫、傘買ってくから」
出口で佇んでいたミチルの隣に立ち、空模様を確かめるように外を見上げた少年が携帯相手に話していた。
ミチルは少し視線を落とし、その声を聞くともなしに聞いてしまった。
「ん、会社? 解かるよ多分・・・そこで待ってて、え? 大丈夫だってば! もーナナさん、心配しすぎだよ!」
「・・・・・」
その声に、会話に、ミチルは目を瞠ってしまった。
細い身体を、背をぴんと伸ばした少年だった。
表情は明るく、大きな目が嬉しそうに笑っている。まるで、電話の相手が目の前にいるように。
「ナナさんが、書類家に忘れたんだろ・・・大人しく、会社で待ってて! 今から行くから!」
言って、少年は携帯を切った。
先ほどの会話の通り、傘を買うのだろう。
駅の奥にあるキヨスクへ向かおうとミチルの隣から足を振り返らせたときだ。
「・・・君」
ミチルは、その細い腕を掴んでいた。
さすがに驚いたのだろう、びっくりした顔でミチルを振り返った。
大きな目を見開いて、零れ落ちそうだな、とミチルは苦笑してしまう。
「この傘、使ってくれないか」
「・・・・え?」
ミチルは少々強引にそれを少年に押し付けた。
「君に、使って欲しいんだ」
「あの、え? なんで?」
大事そうに抱えていた書類封筒を落とさないように、少年はそれを思わず受け取った。
ミチルはそれを見て、すぐに踵を返し自分がキヨスクでビニール傘を買う。
「じゃあ」
呆気に取られたような顔で立ちすくんだままの少年を横に、ミチルは透明な傘を差し駅を出た。
雨が傘にぶつかる。
呆然としたままの少年には申し訳ないけれど、ミチルは肩の荷が下りたように安堵した。
これで、良いのだ。
あの傘は、持ち主へと返る。





      *





押し付けられた傘を手に、ウヅキは固まってしまった。
大事な書類を持っているので、雨に濡れるわけにはいかない。
家を出るときに降っていなかったので何も思わずに出て来たけれど、駅を降りて降り出している雨にちょっと戸惑った。
けれど、買えばいいのだ。
この書類を柘植のもとに持っていくことが、大事なのだから。
そうしよう、と決めて柘植に連絡を取り、携帯電話を切ったときだった。
いきなり腕を取られて驚いたけれど、その相手の顔を見てまた驚いた。
男の人?
そう、疑ってしまった。
落ち着いたスーツを着ているし、その表情や外見は男にしか見えないのだけれど、顔が綺麗過ぎる。
びっくりしていると、その相手に傘を渡された。
使って欲しいと言われて、驚いている間にその人は自分で新しく傘を買い、雨の中へ出て行ってしまったのだ。
しかし、ここでぼうっとしていられない、とウヅキは大事そうに抱えた書類を思い出した。
これを、柘植が待っているのだ。
今朝、バタバタしていて珍しく柘植が忘れ物をした。
それを、持ってきて欲しいと言われウヅキは嬉しくなったのだ。
柘植の、役にたつことが嬉しい。
帰るまで会えないと思っていたけれど、突然会えるのが嬉しい。
そう思ってここまで来たのだが、目の前の降り出している雨と手の中の傘を比べて、少し戸惑った。
けれど、心を決めた。
どんなものであろうと、濡れないことが肝心だ。
この書類が、濡れずに柘植に渡ればいいのだ。
そう思ってウヅキはその傘を広げ、雨の中を自分も歩き始めた。
柘植の会社は、言われたとおりの道を歩けばすぐ傍だった。
見上げるほどのビルは、入り口のロビーも広い。
このビルに入っているのは柘植の勤める会社だけではないそうだけれど、柘植は有名なのかもしれない。
ロビーに入ったところで立っていた柘植を見るなり、嬉しくなって駆け寄ったけれど、視線が集まる気配も感じた。
やっぱり、この人もてるよなぁ・・・
改めて実感した。
整った外見は目立つ。
仕事用のスーツが似合いすぎるほど似合って、ブランド物を着ればそのままステージに立てそうなほど格好がいい。
先ほど見た、駅で傘を渡された人も綺麗だったけれど、また違う色気が柘植にはある。
「間に合った?」
「大丈夫だったか?」
会った瞬間に言った言葉が、重なった。
そして、顔を合わせて笑ってしまった。
「もう、ナナさん、俺子供じゃないんだから、心配しすぎだよ」
「いや、子供だから心配してるわけじゃないんだが・・・」
じゃ、なんの心配?
眉を顰めたウヅキは、柘植の視線が手元に移動するのに気付いた。
書類を渡し、もう片方の手に残った傘に気付いたのだ。
どう見ても、これは駅で買ったビニール傘には見えない。
「あ、これ・・・」
ウヅキがどう説明しようか、と逡巡したときだ。
柘植が、何も言わずその傘を取った。
抵抗も無くそれを柘植に渡したが、柘植が驚いてそれを確かめるように見るのにウヅキは驚いて、
「・・・ナナさん?」
首を傾げたのに、柘植は驚いた顔のままで、
「・・・これ、どうしたんだ?」
「・・・え、えっと、さっき、駅で・・・」
貰ったのだ。
使って欲しいと、言われたのだ。
ウヅキは拙い言葉でそれを告げた。
その相手がどんな人だったのかも、語彙の無いウヅキには綺麗な人だった、としか言えないけれど。
しかし柘植は、大きく息を吐き出し、
「俺のだ」
「・・・・はい?」
「ミチルの家に、忘れっぱなしにしてた、俺の傘だ」
ウヅキはその言葉に時間が止まったように固まった。
その忘れた傘を、渡されたということは。
あの、綺麗な人は。
柘植は困ったような顔をしてウヅキの頬を撫でる。
「・・・ミチルに、会ったのか」
「・・・・あ、あの人が、み、ミチル、さん?」
「スーツ着た美人だろ?」
その表現に、ウヅキは何度も頷いた。
思い出しても、とても綺麗な人だったのだ。
その表情は、どんなだっただろう。
なにを思って、ウヅキに柘植の傘を渡したのだ。
「ど、どうして、俺に、なんで?」
困惑してしまったウヅキに、柘植は少し考えて、
「・・・お前、俺に電話したとき、傍にミチルがいたのか?」
「・・・あ、確か、そばに立ってたかも」
「それで、気付いたんだろ」
「で・・・でも、」
どうして、気付いたのだろう。
動揺したまま柘植を見上げると、柘植は吹っ切れたように笑って、
「まぁいいさ、傘も戻ってきたし」
「・・・・ナナさん」
「どうした?」
「ど・・・」
「ど?」
どうして?
「なんで、俺なの・・・?」
「・・・・なに?」
ウヅキは正直、泣きそうだった。
「なんで、あの人じゃなくって、俺なの・・・?」
街で会った、木村の言葉が甦る。
「ミチルさんを捨ててコレですか」
そう言ったあの男の言葉は、正しい。
どうして、あんな人より、ウヅキを選ぶのだ。
どう見ても、ミチルのほうが綺麗だ。
しかもウヅキは男娼だったのだ。それを知っているのだろうか?
そして何も言わず、柘植の傘をウヅキに使って欲しい、と渡してきた。
柘植は泣きそうになったウヅキに少し驚いて、それから何でもないように笑った。
なんで、そこで笑うの?
「お前が欲しかったからに決まってるだろ?」
「・・・・・っ」
それ。
その返事、間違ってると思う。
ウヅキは知らず染まった頬で柘植を睨んだ。けれど、通じなかったみたいだ。
「ミチルよりも、お前が欲しくて仕方ないんだよ、俺は」
「・・・っな、ナナ、さん・・・っ」
「それより、これ有難うな、お前、一人で帰れるか?」
書類を見せた柘植に、ウヅキはどうしようもないような怒りと恥ずかしさを出すに出せれず、つい突き放したように答える。
「帰れるよっ、俺、子供じゃないって言ってるじゃん!」
「・・・だから、子供じゃないから、心配してるんだろ?」
「え?」
柘植を見上げると、どきりとするほど真剣な顔がそこにあった。
「誰に声をかけられても、付いていくんじゃないぞ?」
「・・・行くわけないじゃん・・・」
「分からないだろう、お前は気を抜くとすぐに逃げる」
「逃げないよ、もう!」
「そうか? ・・・やっぱり、繋いでおきたいな」
「・・・・・ナナさん!」
怒って睨んだけれど、柘植はそれをなんとも無いように笑ってウヅキの唇をなぞるように指を這わせた。
「・・・な、なに?」
「・・・俺がお前に、どれだけ執着してるのか、どうやったら分かるんだろうな?」
頬から顎へ、ゆっくりと輪郭を確かめられて、親指でウヅキの唇を何度もなぞる。
ぞくり、と背筋が震えた。
「家で、大人しく待ってろよ?」
その視線と、唇の間から覗いた舌に、ウヅキは目が離せなくなってしまった。
「どうして、なんて思わないくらいに、してやるからな」
なにを、するのだ。
そんなこと訊かなくても分かる。
柘植の、欲望の滲み出たこの視線と、低い声。
ウヅキは震える身体を、どうにか動かした。
まるで呪縛のようなそれを振り切るように、柘植を押し返す。
「・・・っも、う! いいから! 仕事行けよ!」
柘植は大人だ。
大人の、男だ。
その視線が、声が、動きが、どれだけ色気を持ちいやらしさを出すのかなんて、知り尽くしている。
それにウヅキが翻弄されることも、知っている。
からかっているのだ。
その証拠に、柘植はすぐにいつもの笑みを見せた。
「はは、分かったよ、でも本当に気をつけて帰れよ」
「分かってるよ!」
「それから・・・この傘、お前のだからな?」
「・・・・・」
大事に使ってくれよ。
柘植は柄を握ったウヅキの手を握りこんで、熱を送った。
ウヅキのものなのだ。
柘植の傘も。
その持ち主も。
ウヅキはその熱が伝わって、思わず躊躇うこともなく口を開いた。
「・・・はやく、帰ってきて?」
「・・・・・・」
柘植が目の前で、驚いたように目を見開いたのを見て、自分が何を言ったのか気付いた。
「・・・あっ! いや、今のは、えっと、別に・・・っ」
慌てて取り繕おうとしたけれど、いい言葉が浮かばない。
真っ赤になったウヅキに、柘植は優しく微笑んだ。
「分かった。終わったら、すぐに帰るから。お前のところに」
「・・・・・」
その笑顔は、反則だ。
そう思いながらも、ウヅキは心待ちにして柘植の帰りだけを只管待ち続けるのだ。
これからも、その笑顔を離さないように。





       *





遅番のバイトから帰り、玄関に立て掛けてある傘に視線が付いた。
「・・・・?」
この家の鍵は、押しかけた翌日に奪うように合鍵を貰っているので当たり前のように自分で開けて入ったときだった。
朝、出かけるときに見たときはこんな安物のビニール傘ではなかったはずだ。
レキフミは眼鏡の奥の目を顰めて、気にしながら玄関を上がった。
「ミチルさん?」
リビングに入ると、夕食の用意を丁度し終えたのかエプロンを外すミチルがいた。
「ああ、おかえり・・・」
「帰りました」
テーブルに並んでいるのは二人分の料理。
誰のためかなど、訊かなくても判る。
かなり無理やりに押しかけているというのに、ミチルはすでに慣れたのか当然のように二人分の食事を作る。
もちろん、レキフミが先に帰る場合はレキフミが作るのだけれど。
自覚があるのかないのか、その当然のような行動がどれほどレキフミを喜ばせているのかとは気付いているのだろうか?
「ちょうど出来たところだ、食べるか?」
「もちろん、頂きます」
レキフミはキッチンへゆき冷蔵庫から缶ビールを取り出してグラスを用意した。
ワインやシャンパンなどが似合いそうな外見に対し、ミチルはじつはこの発泡酒が一番好きなようだった。
向かいに座ったとき、レキフミは気になっていた玄関に視線を向けるようにミチルに訊いた。
「ミチルさん、あの傘どうしたんです? 朝、持って行った傘は・・・どこかに忘れて来たんですか?」
「・・・・っ」
びく、とミチルの細い身体が揺れたのが判る。
その反応は、なんだ?
「・・・・ミチルさん?」
自然と、声が低くなるのは無理ないだろう。
ミチルはテーブルを挟んだレキフミの視線を逃れようと顔を背けているのだ。
「あの傘、どうしたんです?」
黙りこんだ綺麗な人を、その全てを見逃さないようにじっと見ていると、諦めたのかミチルは小さく息を吐いて、
「・・・あれは、忘れ物、だったんだ」
「・・・・・・」
誰のか、などと訊かなくても判る。
どうして、この人は。
俺を怒らせるのだろう?
「・・・・どうしてそれを、朝言わないんです?」
声の硬いレキフミに、ミチルはそれを咎めるように視線を向けて、
「だって、お前が先に・・・勝手に俺の傘を持って出て行ったんじゃないか」
その通りだ。
けれど、その正論は今レキフミには受け入れられない。
「会いにいったんですか?」
あの男に。
どこかへ捨ててくるというのも、このミチルという人間には無理なことはよく判っている。
会って、返したのか?
あの男の前に、立って、ミチルは、何を話して来た?
笑って、会話したのか?
それ以上を?
レキフミは激情とも呼べる怒りが湧き上がるのを感じた。
この感情は、黒い。
最近ミチルが当たり前のようにレキフミの傍にいるので落ち着いていたはずの、どす黒い欲望に満ちた感情だった。
やはり、首輪を付けて閉じ込めてしまおうか?
レキフミが一瞬でそう思ったときだった。
「会ってない」
ミチルは申し訳なさそうな顔で、レキフミを覗き込んだ。
まるで、レキフミの気持ちを伺うように。
それは、どういう意味だ?
「・・・あいつに、会ってないよ。ただ、あいつの元に返るように、渡しただけだ」
「・・・・どういう、意味です」
ミチルは少し苦笑して、
「・・・あいつの、恋人を見たよ、可愛い子だったな」
あれなら、惚れるのも無理はない。
思い出したように笑うミチルに、レキフミは思い切り眉を顰めた。
「・・・ウヅキに、会ったのですか?」
「知っているのか?」
思わず口にした名前に、ミチルのほうが驚いた。
「面識のある程度です」
素直に答えるが、ミチルを見る視線を弱めはしない。
「あの、男娼に会ったんですか?」
レキフミの言葉に、ミチルが今度は驚いた。
「だ、だん・・・あのね、君はなんてことを・・・失礼だろう!」
「失礼? なにがです、俺は事実を言ったまでです」
「そん、そんな・・・たとえ、事実がどうあれ、そんなことは言うことじゃない!」
「厭です。俺は本当のことしか言いません」
「・・・あのな」
事実は、事実だ。
たとえ、今は独りの男にしか抱かれていないとはいえ、レキフミの中であの少年は男娼のままなのだ。
それが変わることなど、これから先もない。
レキフミはむかむかとした気分が治らないまま、顔を顰めてそのままの感情を口にした。
「男娼は男娼ですよ、だいたい、あの人もあの人だ・・・どうして、ミチルさんよりあんな男娼がいいんだ? どうかしているでしょう」
「・・・・・・」
「興味を引くところなんか何もない、ただの子供に・・・どこが良かったと言うんだ?」
ぶつぶつと思わず繰り返していたレキフミを、正面からミチルが目を瞬かせて見つめていた。
「・・・なんです?」
それに気付いてレキフミが視線を合わせると、
「いや・・・・あの、君は、どうして怒っているんだ?」
「・・・・別に、怒ってませんが」
「・・・・それで怒ってないと言われても・・・その、柘植が、あの少年を選んだのが、許せないのか?」
「・・・まぁ、正直、理解できかねるところですね」
レキフミが嫌々ながらも正直な気持ちを答えると、ミチルは少し考えて、
「・・・・柘植は、あの子を選ばなかったほうがいいのか?」
「どうしてです?」
そんなことはない。
柘植がミチルを手放さない限り、きっと今も自分の中にミチルがあることはない。
今更、返してくれと言われても絶対無理なことだった。
ミチルは複雑そうな表情で、
「・・・その、君のさっきの言葉を聞くと・・・」
「だってそうでしょう、どう見たって、ミチルさんのほうが綺麗で可愛い。ミチルさんより綺麗な人なんて、この世に在ませんから」
なのに、あの男はあの男娼を選んだ。
レキフミには理解できない。
「あの子供のどこが良かったと言うんだ、ミチルさんを泣かせてまで・・・」
「・・・・あの、」
ミチルは戸惑いがちに、口を挟んだ。
「その・・・つまり、君は・・・妬いているのか?」
妬く?
俺が?
あの人に?
言われて、レキフミは自分の今の感情をトレースした。
そうなのか?
「・・・っく」
目の前で、息を飲んだ音がした。
見上げると、堪えきれない、とミチルが声を上げて笑い始めた。
「・・・ミチルさん?」
どうしたんだ?
「あははは・・・っごめ、あはは・・・っ」
謝りながらも、ミチルは一度込み上げた笑いを抑えれないようだ。
珍しい。
こんなに感情を出して、笑うところは初めて見る。
レキフミがそれに半ば呆然としていると、ミチルは暫くしてその衝動を抑えて、
「わ、悪いわるい・・・っ」
目尻に涙まで浮かべて、それを指で掬いながらもレキフミに謝った。
謝られても、どうして笑うのかが判らないレキフミにはどうしようもない。
ただ、こんな風に笑っても綺麗だな、と思っただけだ。
「どうして、笑うんです」
「だ、だって・・・君ね、普段は怖いくらいに冷静なのに、年齢に似合わず外見も落ち着いてるし・・・なのに」
やきもちを妬くのが可愛い。
しかも自覚がない。
ようやく落ち着いたのか、息を吐いたミチルをレキフミは少し強く睨みつけた。
「・・・・なに?」
「なに、じゃありません、可愛いなんて言われて、嬉しいはずがないでしょう」
「・・・君が先に言ったんじゃないか」
「君じゃないです」
「・・・・・」
名前を呼べと言っているのに、ミチルはいつも濁す。
「・・・ああ、そういえば、初めてだな」
「なにがです」
誤魔化されないように、強く言ったのだがミチルは苦笑して、
「声を出して笑ったの・・・小さな頃から思い出しても、初めてかもしれない」
「・・・・・なんですって?」
「気持ちのいいものだな」
「・・・ミチルさん」
レキフミはテーブルに頭を落としそうになって、そこへ肘を突いて手で支えた。
どうして、この人は。
「俺を喜ばせて、どうしようって言うんですか?」
「・・・よ、ろこばせたつもりは、ない」
驚いたミチルに、大きく溜息を吐く。
初めてだって?
笑うことが?
その笑顔を、他の誰にも見せたことはないと言うのか?
「そ、それから、泣かされたとかいうけれど」
ミチルは何故か戸惑ったように、会話を変えた。
「なんです?」
「俺を、いつも泣かせるのは君じゃないか」
「・・・・・」
拗ねたような目で、レキフミを睨みつける。
それを正面から受けて、レキフミはどうしようもないな、と舌打ちするのをどうにか抑えた。
その顔は、反則だ。
「酷いことばかり、言うのも君だ・・・」
溜息くらいは吐かせて欲しい、とレキフミは盛大に息を吐き出した。
「・・・ミチルさん、仕方ないでしょう」
「な、なにが仕方ないって・・・」
「貴方が可愛いのが悪い。泣き顔すら、綺麗なのが悪い。もっと、泣かせたくなるんですよ」
「・・・・・・っ」
真っ赤になって押し黙るミチルに、レキフミは椅子から立ち上がった。
「ミチルさんは俺を怒らせるのも上手ですが、煽るのも上手い」
「・・・・・は?!」
ミチルの傍に立ち、その腕を引いて立ち上がらせた。
「腹は減ってますけど、先にミチルさんを喰わないと落ち着かない」
「は?! な、なにを君は・・・っ落ち着きなさい!」
「落ち着いています。それから、君じゃなくレキフミですと何度言ったら判るんです」
「ちょ、ちょっと・・・っ」
何と抗議されようと、レキフミは力にものを言わせてミチルの身体を寝室まで引っ張った。
それからベッドの上に、少々乱暴だと思わないでもないが放り投げるようにミチルを倒した。
「大人しく、喰われてくださいよ。抵抗すると・・・・」
「・・・っあ、あの」
「咬み付きますからね?」
「・・・・・っ」
困惑した顔で見上げてくる。
その表情だけで、レキフミの何もかもを奪う。
「貴方の全てを、その雫の一滴も残さず、喰ってあげますよ」
喉がなるほど、美味そうだ。
思わず唇を舌がなぞる。それを、ミチルの視線が追っているのが判る。
怯えを見せるその表情の中に、期待が覗くのが見える。
レキフミは欲望を隠さない笑みを浮かべて、最近セックスの合図となりはじめた眼鏡を外した。
まったく、どうしようもないな。
その期待に、応えたくなるじゃないか。
一生をかけて、その期待を裏切りませんからね。
ミチルの身体に重なりながら、明日はすぐに新しい傘を買いに行こう、と決めた。


fin.

あとがき



INDEX