拍手36 夢魔 糸の解ける日シリーズ



「ごめんね犬養さん」
「キナ?」
「俺、こっちが気に入っちゃった、もう帰らないから、バイバイ」
「何を・・・キナ?」
「じゃあね」
「待てキナ! どこに・・・」
目の前に居たはずのキナがあっという間に遠ざかって、それに追いつけないことに犬養は焦りうろたえた。
背中がすうっと寒くなる。
きっと顔は青ざめているだろう。
そんな馬鹿な、と思いながらもやっぱりとどこかで考える。
しかしどうしても諦めることは出来なくて、もう一度名前を呼んだ。
「キナ!」

パチッと目を開けると、そこは見慣れた寝室だった。
大きなベッドが置いてある自分の部屋は、オレンジ色のルームライトが小さく灯っていて暗闇ではない。
犬養は意識を取り戻した瞬間、腕の中にいるキナを確かめるように抱いて改めて周囲を見渡した。
「・・・夢か」
安堵としか言いようのない溜息が零れる。
気付けば、自分の額も汗を掻いていた。
現実にありそうな夢に、こんなにも焦り動揺したのは初めてで犬養は安定した寝息を立てるキナをしっかりと抱き締めた。
「んー・・・犬養、さん?」
力を入れすぎたのか、眠っていたキナが少し身動ぎをして目を開く。
自分の腕の中にいることにまた安堵して、その瞼を啄ばみもう一度抱きしめた。
「悪い、起したか」
「ん、んー・・・どうしたの?」
まだ心音が収まらない犬養に、キナは眠そうな目で首を傾げる。
キナがこのベッドで、この腕の中にいるのは一週間ぶりだった。
一週間前、キナは雑誌の撮影だとかで南国へ出かけていたのだ。
気をつけていたけれど、少し日に焼けた姿で目の前にもう一度立っているのを見るまで、犬養は同じような夢にうなされていた。
帰ってきた瞬間、言い表しようのない喜びとそれまで平静を装っていた寂寥が一気に溢れ、無我夢中に抱いた。
キナはまるで犬養の気持ちを理解したように何度も受け入れ、抱きとめてくれた。
安心して眠ったはずなのに、犬養は鮮明に思い出す夢がまるで明日起こる未来のように見えて額の汗を拭いながら身体を起こした。
「・・・何でもない、目が覚めた」
それを追ってキナも身体を起こし、
「何でもないって顔じゃないよ、何? 怖い夢でも見た?」
笑って欲しくて子供のように訊いてくるキナに、犬養は濃く影を作る顔を顰めて、
「キナ・・・頼みがあるんだが」
「え? なに?」
「もっと我侭を言ってくれ」
「は?」
きょとん、としたキナに、犬養は真顔のままで続けた。
「もっと俺を振り回してくれ。もっと俺を・・・困らせて、必要としてくれ」
「・・・犬養さん?」
いったいどんなお願いだ、と犬養は自分でも呆れながら、それでも正直な気持ちを口にした。
この手にあっても、何度抱いても、犬養にキナが自分のものだという安堵が生まれない。
犬養の気持ちを試すようなことをしながら、キナは思いもよらず不意に犬養から手を離す。
自分の気持ちに素直で必死になる一方で、キナは恋愛というものをどこか諦めているふうを見せるのだ。
もし犬養が――有り得ないことだが、キナを振ることがあれば、泣きながらもあっさりと受け入れるだろう。
それと同じくらい簡単に、キナからも犬養は切り捨てられそうで、胸の奥から不安が消えないのだ。
無言のキナに、犬養はさすがに大人気ない、と撤回しようとしたけれど、キナの手がするりと身体に伸びてほの暗い灯りの中で身体が重なった。
「怖い夢見たの、犬養さん」
「キナ・・・」
犬養の顔を覗きこむキナの顔は、いつもの幼さを消すような大人びた目をして笑っていた。そしてどこか、悪戯を思いついた子供のようなものも含んでいたのだ。
「慰めてあげようか」
ゆっくりとベッドに押し倒されて、犬養はその表情に目を奪われながら、
「・・・朝まで?」
「犬養さんの気が済むまで」
幸い、明日も休みだ、とキナは細い身体を重ねてくる。
犬養はその重みに至福を感じながら、本当に夢のことなど忘れるため手を伸ばしたのだった。



キナの目の前に広がるのは、地平線まで続くご馳走だった。
「すごい! おいしそう!!」
早速キナは両手を合わせて、
「いただきまーす!」
言うが早いか、箸を持って目の前の料理に突き刺した。
口の中いっぱいにほおばり、幸せそうに噛みしめる。
「おいしいなぁ、これでも何の料理だろ?」
目の前にある料理は、おいしそうだと見えるのに何か、と言われればよく解からない。
それでも夢中で食べていると不意に手を掴まれて、
「キナ!」
「ん?」
食べていた口を止めて目を瞬かせると、そこには犬養が驚いた顔でいた。

「キナ、何を寝惚けているんだ・・・」
「んぁー・・・あれ? ごちそうはぁ?」
「なに?」
「すっごく美味しいごちそう食べてたのに・・・」
目を擦って辺りをよく見れば、見なれた寝室のベッドの上で犬養に引き起こされていた。
犬養は呆れたように溜息をひとつ吐いて、
「夢の中で食べるのはいいけどな・・・」
「そうだよーもう、せっかく食べてたのに!」
どうして途中で起こすのだ、とキナが憤れば、犬養はじろり、と強くキナを睨み、
「俺を丸ごと食い尽すつもりか?」
「は?」
「さぞ美味しかっただろう、俺は」
「・・・へ?」
犬養が寝着にしているシャツの襟元を引けば、しっかりと歯型があった。
しかもひとつではないし、何やら吸った痕もある。
「え・・・え? あれ? えーと、それって・・・」
キナが今度は背中に冷や汗を掻いていると、犬養が気配を変えて口端を緩めた。
それはまるで、美味しそうなものを見つけた獣のようなもので、
「しっかりと、最後まで喰ってもらおうか」
「あ、え? や、ちょ、待って待って!」
「待たない。夜中にこんな積極的なことで起こした責任を取れ」
「あー、あ、や、あの・・・」
ベッドに押し倒されながら、キナは反論を最後まで思いつけなかった。



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fin



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