拍手27 クッキーと家出 糸の解ける日シリーズ




家に帰ると部屋中に漂う甘い匂い。
決してお菓子が嫌い、というわけではないが――この甘いだけの匂いには辟易する、と春則は自分の部屋に溜息を吐いた。
もちろん、これは唯一合鍵を渡している相手の仕業ではない。
あいつなら、この部屋に入った瞬間に踵を返しそうだ、と春則は先週から海外へ飛んでいる男を思い出した。
そしてリビングに入り、キッチンを見てまた溜息を吐く。
「・・・・キナ、」
その惨状を見て、怒りたい声にも力が入らない。
あまりものがなく、並んでいるのは酒瓶だけ――というどちらかと言えばすっきりしていた春則のキッチンは、戦場というにもおこがましいほど散乱していた。
何かの袋のようなゴミが床に平気で落ちているし、ボウルもシンクの中に収まり切っておらず、そこからはみ出た――零れた、ではない――何かがまたカウンタにも付着している。
そして全体的に、粉っぽいのは気のせいではないはずだ。
「あ、おかえり春則ー」
家の主も思わず二の足を踏むようなキッチンで、その中に平気で立っているのは友人であり、最近恋人と同棲を始めたらしいキナだった。
勘弁してくれ、と春則は額に手を当てながら、昨日の夜からいきなり押しかけて来た相手の行動を訊く。
「いったい何を・・・」
「何って、クッキー作った。あ! ねぇこれ食べてみて! なんか上手く出来たっぽい」
ぽい、ってなんだ、と春則はまだ熱そうな鉄板ごと向けられたのに、眉根を寄せる。
型抜きも使わなかったのか、形も不揃いだし厚みもさまざまなそれは――キナ曰く、クッキーらしい。
こんがりきつね色に焼けて――いるように見えて、鉄板にくっついた部分が黒く見えるのを春則はちゃんと見つけた。
鉄板にしっかりとくっついているそれを見て、
「お前・・・シートも何も敷かずに焼いたのかよ・・・」
料理が得意なわけではない春則ではあるが、酒のあてに、と自前のオーブンを使って何かを作ることもあった。
そのおかげで、熱される鉄板の上に直接ものを置く、という所業はしたことがない。
すればどんなことになるのかは想像がつく。
その想像が、今まさに目の前に差し出されていた。
「シートって?」
未だに幼い顔でいる相手は、それに似合うように可愛らしく首を傾げて見せた。
キナはタオルで熱い鉄板を持った手を放し、
「キレイに焼けてるじゃん・・・・あれ? 取れない」
自分で取ろうとして、鉄板にくっついたクッキー(らしきもの)が動かないことに気づいた。
春則は深く、もう一度溜息を吐いて、いったいこれは何の修行なのか、と取れないクッキーと格闘するキナに途方に暮れてしまった。



犬養と暮らし始めて1ヶ月が過ぎた。
その間、キナが危惧した――キナの予備のベッドが使われた形跡はない。
それに文句を言うつもりはないし、愛されることは実のところ嫌いではないキナなのだが、改めて犬養はまめなのだ、と思い知らされた。
遅くに疲れて帰ってこようと、キナの相手をちゃんとする犬養なのだ。
晩御飯を食べていないと言えば、さっとキッチンに入って何かを作るし、お風呂がまだ用意できてないと言えば率先して洗ってお湯を張る。
朝も時間が不規則なキナにちゃんと朝食を作ってあるし、洗濯はドラム式の乾燥機付きの洗濯機に入れてしまって、キナが出来ることと言えば、仕事の延長のような犬養のシャツにアイロンをかけることくらいだ。
今まで全部クリーニングだった、と言われて、キナはそれくらいなら出来る、と言っているのだが、正直それくらいしか出来ない。
時々スーツを選んであげてはいるが、あまり変化もない犬養のスーツに遊び心を加えようにも「硬い見た目が肝心」と言われてしまえばどうすることもできない。
キナよりも遅くに帰ってきて、キナが眠ったあとも仕事をしていたような犬養が、朝はいつのまにかキナよりも早くに起きて朝食を用意しているのを見た瞬間、キナは何かを感じた。
それが何か、だったわけではないのだが、キナは決意したのだ。
「今日、遅くなるから」
そう言ったキナは犬養よりも遅くに出て、テーブルに置手紙をしてきた。
文面は簡潔で、
「探さないでください」
そしてその足で、きっと自宅にいるだろう友人の家に押しかけたのだ。

「それは家出じゃねぇか!」
キッチンの後片付けを、仕方なくも手伝いながら――キナに手伝わせながら――ここに来た理由を改めて聞いて、春則は呆れてしまった。
焦げ付いた鉄板は水を張って暫く浸け置き、埃のように粉の飛んだキッチンを掃除し、お気に入りのオーブンが煤だらけになっているのに格闘していた手を止めた。
キナは洗ったボウルを拭きながら唇を尖らせて、
「違うっての、ちょっと外出した・・・だけじゃん」
「だけってお前な! あの弁護士さんが怒ってここに怒鳴り込んでくるのは御免だ、帰れ!」
「大丈夫、探したら二度と帰らないって書いといたから」
あっさりと告げるキナに、春則はますます最悪だ、と黒いオーブンに頭を入れたくなってしまった。
「せめて・・・お前な、子供じゃないんだから、せめて行先くらい教えておけよ」
「教えたら来ちゃうじゃん、あの人」
「キナ・・・!」
春則はキッチンの床に――一応全部拭いた――座り、目の前を指してキナも座らせた。
「お前はいつまで子供で甘えてるつもりだ?」
きょとん、と本当に子供のように目を瞬かせるキナを、本当に成人してるんだろうな、と春則は不安になってしまう。
そこで春則には珍しく、説教モードに入ったのだ。
この経緯を聞いて、今までのこともあり、さすがに相手が可哀想だ、と感じたからだ。
いったいこの子供のどこがいいんだ、と春則は堅そうな弁護士を思い浮かべて顔を顰めてしまう。
「弁護士さんは弁護士さんの都合もあるだろ。それを押しても、お前のために尽くしてくれてるのに、どうしてそれを無碍にするようなわがままばっかりするんだ、お前は。相手の気持ちを考えろよ、お前だって、弁護士さんが何も言わずそんな置手紙だけで、いきなり居なくなったらどうするよ?」
「・・・・・・・」
キナは言われてそれを想像したのか、複雑な顔から顔を顰め、最後には泣きそうになるのを必死に耐えるような表情で春則を睨んだ。
その感情が全てだ、と春則は呆れを隠さず目の前で溜息を吐いた。



「だって・・・犬養さん、甘いんだもん」
だってとか、だもんとか使うな、と言いたいが、春則はそれが未だに似合ってしまう相手を睨んで、
「お前に惚れてるからだろ、それが何が不満だ」
「俺、何にも出来ないんだよ?」
「弁護士さんが、お前に何かしてもらおうと期待してるとは思えないが・・・」
春則だって、そんな期待をしたことはない。
「だけどさ! 一緒に暮らしてるのに、家のこと全部犬養さんがしてんの! 俺掃除だってしたことないんだぜ?!」
キナが今までと同じように仕事道具でもある服を散乱させても、いつのまにか綺麗に片づけられているのだ。
あの弁護士にそこまでさせているのか、と春則は心の底から不憫さを感じずにはいられなかったが、顰めた顔を緩めず、
「お前に任せておいたら、さっきまでのここと同じことになるじゃねぇか!」
ようやくここまで掃除したのに、と怒鳴り返し、そもそも、と春則は思い出した。
「だいたいなんで、クッキーなんて作ろうと思ったんだよ?」
料理も出来ないキナが、本を見ながらとはいえお菓子が出来るとは思えないのだ。
キナはそこでさっと顔を赤らめて、初めて怯みを見せた。
「・・・なんだよ?」
「う・・・うん、あの・・・ホントは、マスターのとこ、行こうと思ったんだよね」
「ああ・・・お前に良くしてくれるあの人か」
春則は知らない相手ではないバーのマスターの優しそうな風貌を思い出す。
「マスター、料理出来るし、お菓子も教えてくれるかなって」
「ならなんでそっち行かないんだ」
「・・・マスターの恋人が、部屋に入ってくのが見えた・・・」
顔を顰めたキナの心は解かりやすい。その相手が苦手なようだった。
「で、ここかよ!」
「だって春則、今村瀬さんいないって言ってたしー」
どうやら、キナなりに気を遣って相手の迷惑にならない場所を選んだつもりのようだった。
「だからってな・・・!」
「それでね、クッキーは・・・」
言いかけて、耳まで赤くしたキナに春則は自分の中ですでに怒りが半減しているのに気づいた。
自分でさえこうなるのだから、このキナにべた惚れの相手が甘くならないはずはない、と胸の内で舌打ちをする。
「バレンタインにね、犬養さんがすごくおいしいチョコくれてさ、なんかその辺のメーカーのじゃなくって、どっかから取り寄せたみたいので・・・」
決して安いものでもない。
キナは今年、仕事が忙しくバレンタインどころではなく、それを貰って初めてそんな日だった、と気づいたようだった。
春則はシンクの中で水に浸かっているクッキーを思い出し、その意味が解かった気がした。
「それでお前、こっそり作って驚かそう、とか思ったんだろ・・・」
「・・・・・」
どうして解かるの、とキナが赤い顔で驚いたのに、春則はやはり甘い、と自分にも呆れた。



結局、キナには甘いのだ。
誰もが。
何故か理由も解からないが、こういう甘え上手――自覚は本人にはないだろう――な人間が世の中にはいるものだ、と春則も悟った。
お陰で、仕事上がりでようやく一段落ついて、納品に行って来て眠れる、と思っていた身体で一緒にお菓子を作ることになってしまったのだ。
材料を本の通りに買い込んできたキナは、クッキー生地に甘い匂いのするだけの小瓶を振りかけようとして、春則がその手を止めた。
甘過ぎる匂いの正体はこれだ、と大量に入れようとするのを止めさせたのだ。
「少しでいいんだよ、こんなもんは!」
「えーでも、甘い匂いするほうがいいじゃん」
「香水口んなか入れてぇとは誰も思わねぇだろ!」
「そうかなぁ?」
仕事の面ではあれほど器用だというのに、どこまでも料理心のないキナと格闘しつつ、春則は自分も初めてお菓子作りをしてしまったのだ。
どうにか完成したのはすでに夜中で、日付が変わったことにキナはまずまずの出来栄えのそれを用意していた袋に入れてリボンをかけた。
その辺は上手いものだ、と春則は呆れて疲れた身体をソファに倒す。
片づけはもう明日しよう、と甘いままの部屋で眠ろうとしたのだが、キナが自分の荷物を集めているのに気づいた。
「どうした・・・帰るか?」
この時間ではもう電車は動いていない。
しかしキナは嬉しそうな顔を隠しもしないで、
「駅でタクシー拾うからだいじょぶ」
「あ、そう・・・気を付けて帰れ」
「うん、ありがと、春則」
ソファに倒れ込んだ春則の額に、キナはふっくらとした唇を音を立てて触れさせた。
「じゃぁね」
子供のような仕草で、子供のように顔を綻ばせて手を振るキナに、春則は一瞬だけ暖かかった額に触れ、苦笑せざるを得なかった。
本当、自分も甘い、とそれだけで許してしまっている自分が解かっているからだ。
しかし疲れた手を動かし、メールをひとつ送ることを忘れなかった。
相手はもちろんキナの言うことを聞いて探すことも出来ず悶々としているだろう弁護士で、文面は簡潔に、
「今から帰らせます」
そして、少々強く叱ってやってほしい、と付け加えることも忘れなかった。
そこまでして春則は今度こそ、睡魔に身体を任せたのだった。



春則が目を覚ましたのは日も傾いた夕方だった。
さすがに、寝すぎたかもしれない、とただソファに倒れ込んだはずの身体に毛布がかけられているのに気づいた。
キナがかけたわけではない。
顔を上げると、キッチンの中にスーツのジャケットを脱いでネクタイを肩に掛けた男が見えた。
「・・・いつ帰ったんだ、」
春則が身体を起こしながら訊くと、散らかった場所を片付けてくれていたのか、繕が時計を見ながら口を開く。
「30分ほど前だ」
それはこの部屋に来た時間だろ、と春則は思ったが突っ込むことは止めて、不自然な格好で寝ていたせいで固まった身体を解す。
そして自分から甘い匂いが漂うのに気づいて、
「シャワー浴びてくる・・・」
立ち上がろうとしたのを止めたのは繕だ。
「これ、お前が作ったのか?」
皿の上に置かれた数枚のクッキーは、キナがお裾分け、と置いて行ったものだ。
春則は複雑そうな顔をして、
「半分は・・・や、3分の2は・・・」
もはやキナは手伝いをすることしか出来なかったのを思い出す。
そこでキナのわがままに付き合ったことを話すと、繕はなるほど、と、
「あの子らしいな」
納得してしまった。
「コ、って年じゃねぇはずなんだけど・・・」
それでも春則もそう言ってしまうに違いない。
繕は粗方片付けてしまったのかタオルで手を拭いて、それを一枚口に入れた。
春則はそれが飲み込まれるのを見てから、
「・・・どうだよ?」
どこか自分が恥ずかしさを感じながらも、期待しているのが解かる。
繕はその皿ごと持ってソファに歩み寄り、
「お前は器用だな」
机に置いて自分もソファに腰を下ろす。
「旨いのか不味いのか、どっちだよ」
「甘い」
「ああ・・・そりゃキナが馬鹿みたいに砂糖を入れて・・・って、不味いのか?」
味見は実のところ、していない。
キナが食べて嬉しそうにしていたので成功したのだろう、と春則は思っただけだ。
「こういうものの味はよく解からない」
それは不味いわけではないのだ、と正直な繕に笑ってしまう。
その繕が身体を起こした春則をもう一度ソファに倒そうとしてきて、慌てて留める。
「なん・・・だよ?」
「お前からも同じ匂いがする」
「そりゃ、それ作ったまんま寝たから・・・って、待て! シャワー浴びてくるから・・・」
「別にいい」
「あんたが良くても・・・っ待て、って・・・手、止めろ、」
ジーンズの上から膝頭を撫で、そのまま大腿を辿って腰に伝う。
その意図するところは明確な動きに、春則は寝起きの力の入らない身体で抵抗をして見せる。
「旨いかどうか・・・お前を食ってから決める」
抵抗も気にせず、喉元に唇を這わせた繕の声に春則は呆れて溜息を吐いた。
「・・・このエロオヤジ・・・っ」
「お互いさまだ」
言われて、春則は言い改めることはなく、自分の身体に落ちてくる繕のネクタイを掴んで引き寄せた。



キナは真っ暗な時刻に、エントランスに明かりのついたマンションに走り込んだ。
嬉しそうに鞄から合鍵を取って、部屋に入る。
寝ていると思ったのに、そのリビングに煌々と明かりが点いているのにも驚いたし、そのソファの真ん中に腕を組んで座っている犬養がいるのにも驚いた。
「なんで・・・」
起きてたの、とキナが続ける前に、立ち上がった犬養は何を言う前に手を上げてその幼い頬に振り降ろした。
ぱちん、と冷えた音が部屋に響く。
叩かれたのだ、とキナは音を聞いてから頬に熱を感じた。
犬養の体格からすれば、それはかなり力を抜いてしたものに違いないのだが、キナは初めて手を上げられたことに驚いて叩かれた頬に触れ、驚愕した目を相手に向ける。
そこにはどうしていきなり殴られなければならないのか、という怒りも含んでいたのだが、見上げた犬養の目が暗く窪み、身嗜みをいつも整えているはずの顔に不精ひげがあるのも気づき、ソファの前にあるテーブルには自分が書き残したままの置手紙が残されたままなのを知り、キナは浮かれていた自分の気持ちが一気に萎んでしまうのを感じた。
どうしよう、と動揺して目を彷徨わせていると、犬養が強い視線のままで、
「お前は俺の何を試しているんだ」
「・・・・え?」
「お前が何ひとつ不自由ないようにしたくて、なんでもしてやるつもりだが、これ以上どうしたらお前が満足するのか・・・はっきり言ってくれ、何も解からないままこんな試されるようなことをされて――俺が何も思わないとでも思うのか」
「あ・・・」
違う、と言いたいのに、キナは微かに首を振るしか出来なかった。
「俺が迷惑なら迷惑と――重たいのは重々承知しているからな、嫌いなら嫌いなのだと、そう言ってくれ・・・いっそそのほうがすっきりする」
心に覚悟を決めたように息を吐く犬養に、キナは全身が白くなるほど血の気を引かせて、震える手で犬養のシャツに縋った。
そのシャツが、皺になっているのにも気づいて、この一日、どれだけ相手に心配させたのかを思い知ってしまう。
キナが手を触れれば、すぐにでも抱きとめてくれるはずの腕は動かず、ただそれに視線を向けて、
「この手は、どういう意味なんだ」
犬養の低い声が耳に届く。
その耳に、どくんどくんと自分の心臓の音がはっきりと聴こえて、キナは熱くなる目を止めることなく唇を開いた。
「ごめ・・・ごめ、なさ、い、」
「なんの、謝罪だ」
全部だ、とキナは言いたいのに声が上手く繋がらない。
漸く出てきたのは、嗚咽に紛れたものだけだった。
「き・・・嫌わ、ない、で・・・っ」



「お前が、俺を嫌っているんじゃないのか」
それでもまだ触れてもくれない犬養に、キナは涙目になりながらも気持ちだけを伝えようと首を横に振る。
目に溜まった雫が零れて、床に落ちたけれど気にせず、たどたどしくなりながらも頭を下げた。
身体を屈めるようになりながらも、深く下げて、
「も、もう、しません、ごめん、なさい、だから・・・っお願い、おねが、い・・・っ」
春則にキツく言われたこともあるが、キナは自分がどれほど相手に甘えているのかを理解した。
大人にならなければ、と思っているのに、嫌われるのが怖いと思っているのに、犬養の愛情は深く濃い。
それをどこかで知っているから、キナはそれに胡坐をかくように試すように、奔放にしてしまうのだ。
嫌わないで、といっそ土下座でもしようか、と座りこもうとした身体を引き上げられるように抱き締められた。
「頼むから、勝手に消えるな、と頼んだはずだろう」
「・・・んっ、う、ん、うん、ごめ、なさい」
その腕に抱かれたことに、キナは気持ちが一気に解けるように嗚咽を漏らして縋りつく。
キナの高ぶった気持ちが落ち着くまで、背中を優しく撫でて溢れる涙を吸い取る様に口付けて宥めてくれる犬養に、そのざらりとした頬に触れて、背伸びして唇を付ける。
乾いた唇を掠めて、あまり感触も良くない頬に自分の頬を擦り合わせて、首に腕を絡めて精一杯の気持ちを伝えようと、いつもはその大きな腕の中で小さくなるのに必死で縋る。
身体を屈めて、その幼さの見える愛撫に大人しくしていた犬養は不意に鼻先を寄せるようにして、
「・・・甘い匂いがする」
その声に、キナは自分がどこで何をしたのかを思い出し慌てて鞄の中からその正体を取り出した。
「これは・・・」
売り物のように見えないそれを差し出されて、犬養が躊躇っていると、
「あの、春則んちで・・・作って来たんだ、今日、あの・・・バレンタイン、俺、何にも用意できなかった、から、その・・・」
小さく、お返しだ、と言うのにひどく躊躇って赤くなってしまう顔を伏せてしまう。
「いつも、俺・・・してもらってばっかなの、悪いって思ってるよ、でも、ほんとに、何にも出来ないから・・・それで、それでね、犬養さん、」
キナは涙を止めた目を必死にさせて、精一杯引き締めた顔を見上げさせて、
「家のこと・・・教えて欲しい、料理とか、掃除とかも・・・頑張るから、俺、ここの、居候とか、ペットとかじゃ、なくて、こ、こい・・・恋人、だし」
自分の扱いが、子供のようなものだ、とキナ自身も解かっていた。
それでいい、と犬養は言うかもしれないが、キナが許せるはずもない。
甘えさせてもらえることが、どれほど嬉しいか、誰よりも知っているのはキナだった。
それを犬養にも感じて欲しい、とキナは最近のもやもやとした気持の解決口を見つけた気がした。



キナが残して行ったクッキーを、春則は遠慮もなく甘過ぎる、と吐き捨てたのだが、それをキナの手から貰った犬養はそんな甘さも嬉しいのか微笑んで受け入れた。
「これね・・・春則に、手伝ってもらったんだ。でも、次は、一人で出来るようになるから・・・」
ここに春則がいたなら、手伝ったのはキナで作ったのが春則だ、と言い直しそうだが、キナを膝の上に乗せた犬養はそんな事実はどうでも良いのか、
「他の男に教わるな・・・俺が教えてやる」
「ん・・・犬養さん、お菓子作れるの?」
「作ったことはないが、料理と変わらないだろう」
「そもそもさ、犬養さん、なんで料理そんなに上手いの?」
「別に・・・一人暮らしをしてたら普通だろう」
「フツーじゃないよ・・・俺出来ないもん」
「お前はいいんだ。俺が教えるから」
「うん・・・全部、教えて、」
犬養の草臥れたネクタイに手をかけて、キナはそのシャツも肌蹴させて顔を寄せる。
「どうしたら・・・いい? んっだめ、犬養さんは、動いちゃ駄目! じっとしてて!」
全部自分がするのだ、と言い張るキナに、犬養は嬉しさを隠しきれず笑い、
「俺は、されるよりするほうがいいが・・・」
「駄目、今日は、俺がするから、犬養さんはしてほしいことなんでも言って」
それ以外は本当に何もさせない、と決めているキナに、犬養は諦めたように目を細めた。
それからその耳に唇を寄せて、吐息のように気持ちを囁く。
言葉を受け入れて、その耳が真っ赤に染まるのに笑いつつも、どうする、と覗き込んでくる犬養に、
「・・・いいよ、する」
「・・・無理はするな」
「無理じゃない。する。止めちゃ駄目だからな!」
「止めはしないが・・・本当に?」
「犬養さんが言ったんじゃん! 俺だって、出来るよそれくらい!」
純情なだけでいられる生活をしてきたわけでもないが、キナはその行為に顔を染めてしまうのは相手が犬養だからだ、と知っていた。
それでも引かないキナに、犬養は顔がゆるんでしまうのを抑えられずやはり甘い自分を自覚する。
そしてそれは、どれだけ頼まれようとも治らないのだろう、と自分の上で必死になるキナに微笑んで、誤魔化すために口づけを強請った。


いつもぱちはちありがとうございます!励みになります!


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