拍手25 引越し前夜 糸の解ける日シリーズ




なんとかという試験に合格した犬養に、お祝を買った。
金のカフスと揃いのタイピンだ。
スーツを着た相手に付けて、キナはやはり自分の目に狂いはない、と自負する。
「似合う」
「ありがとう」
素直に喜ぶ犬養に、キナはますます嬉しくなって、
「あのね、ここの模様、ちょっと変わってるでしょ? 別のがあってさ、それとどっちにしようか悩んで・・・犬養さん?」
タイの端を持って、そのタイピンの模様を説明するのにキナは覆いかぶさるような相手に顔を上げて首を傾げた。
そっと降ってきたキスを、抵抗もなく黙って受け入れる。
啄むように唇に、それから頬と瞼、鼻の先まで温かなそれを受けて、キナはどうしたの、と目を開けた。
「犬養さん・・・?」
「これも嬉しいけど、他に強請ってもいいか?」
「・・・うん、なぁに?」
気分の良いキナは、今ならなんでも出来そうだ、と目を細めて笑った。
それはベッドの上のことだと思い込んで、擦り寄るように身体を寄せる。
犬養はもう一度キスをしてから、
「一緒に暮らしたい」
睦言が囁かれるのだ、と思っていた口から、キナには想像もしていなかったことを告げられて目を丸くして相手を見返してしまった。



今まで渋って、さらに避けて、どうしても了承しなかったのだが、自分でもここ辺りが潮時かもしれない、とキナは覚悟を決めた。
引越しの日を週末に決めて、キナは期待半分不安半分の気持ちで落ち着かなかった。
最近はほとんど帰ってもいなかった部屋を引き払ってしまうので、必要なものとそうでないものを書き出せ、と犬養に言われてキナはレポート用紙に自分の荷物を思い出しつつ書き込むと、
「・・・ベッド?」
キナの手元を覗き込んだ犬養を見上げると、訝しんで眉根を寄せていた。
犬養も見たことがある、一人用のパイプベッドだった。
組み立ても簡単で、この広い犬養のマンションにひとつ部屋を貰うことにしているのでキナはそれを入れるつもりだったのだ。
他にはほぼ仕事にも使ったような衣類がほとんどで、キッチン用品などは分かり切っていたことだが全くない。
「要らないだろう、それは」
「なんで?」
きっぱりと言われて、キナはすぐに訊き返した。
「ベッドならあるだろう」
犬養の、大きな――二人で寝ても充分に広い――ベッドが寝室にある。
今までも、そこに一緒に寝起きをしていた。
キナは不安そうに顔に蔭りを見せて、
「だってさ・・・一人になりたいときとか、あるじゃん?」
それはケンカをしてしまったときなども含めて、仕事のことでもそうだった。
犬養はよくこの部屋でも仕事を持ち帰っているので、キナは邪魔にならないように、とも考えてのことだった。
しかし犬養はきっぱりと、
「ない」
そう言われてしまうと、キナが素直になれるはずもないのはキナ自身が良く知っていた。
またそこで――他愛ない言い合いをしてしまったのだ。



意見を違わせながらも、嫌いになることはない。
むしろ、言いたいことをちゃんと言い合えることが進歩だと感じた。
ベッドのことはまだ結論が出ていないけれど、翌日犬養が帰宅するとすでにキナは居て、
「・・・・キナ?!」
「・・・・・」
ただいま、と言おうとしたが、その顔を見るなり驚愕して駆け寄ってしまった。
キナはブスっとした顔を隠しもしない。
「どうしたんだ!」
犬養が慌てるのも無理はない。
幼さをまだ残す顔――その右目の下に、くっきりと青痣が浮いていたからだ。
まるで殴られたようなそれに、犬養は思わず手を伸ばす。
「痛いからやだ」
熱を持って腫れてきているのでは、と思うのだが、キナはその手を避けて顔を背ける。
「どうしたんだ――冷やしたのか?」
「・・・・・」
無言の返事は、手当などは一切していないことを教えている。
犬養はすぐに洗面所に入ってタオルを取り、キッチンで氷を入れたボオルに浸した。
固く絞ったそれをそっと顔に当ててやると、今度は抵抗もせずじっとしている。
どうしたんだ、ともう一度訊いても、キナは機嫌の悪そうな顔を止めずゆっくりと口を開いた。



普段はレディス専門に仕事をしているのだが、今日はメンズ雑誌を受けた、と淡々と話し始める。
要約すると、キナが示した服を、モデルが気に入らない、と言いだし、口論になった末に振り上げた手がキナの顔に当たった――らしかった。
向こうもさすがに悪いと思ったのか、しぶしぶだがキナの意見を通し指図された衣装を着たけれど、関係が良くなるはずもない。
気まずい撮影だったようだ。
犬養はそれを聞いて、
「し返さなかったのか」
キナの気性を考えれば当然のことなのだが、顔を殴られたままのキナは、
「・・・だって、モデルを傷つけるわけにはいかないじゃん」
顔も身体も、それが商品の相手なのだ。
見目が良くても、中身までは問えない。
キナはそれも承知でありながら、さすがに表情をにこやかは出来なかったけれど、黙々と自分の仕事をこなした。
犬養はそれを聞いて、柔らかく笑った。
「よく我慢したな」
まるで子供にするそれのような、大きな手のひらで頭を撫で、髪を梳いた。
それから腫れてない方の頬に触れて、かき上げた前髪の下にキスをした。
子供扱いするな、とキナは怒りたかったのに、しかめっ面をどうにか保つのが必至で言葉が出なかった。
嬉しかったのだ。



「だ、だから、さ、こういうとき・・・」
キナはもう一度冷やしなおしたタオルを顔に当ててもらいながら、気恥かしさを隠すようにぶっきらぼうに口を開く。
「なに?」
「こういう、とき、とかっ」
「うん?」
「ひ・・・ひとりに、なりたい、じゃん」
「・・・ベッドの話しか?」
「犬養さんに、怒ってるんじゃないよ、だけど、ひとりで落ち着きたいっていうか・・・」
わざわざ怒っている姿を、見せつけたくはない。
仕事で忙しくしても、犬養はその内容もそのことで機嫌を悪くすることがあってもキナに当たったことなど一度もない。
それを知っているから、キナは自分がいつまでも子供のような気がして同じ家に住みながらもひとりになれるものが欲しい、と思ったのだ。
いつまでも子供のままでいられない。
幼い顔と同じように、感情も子供のように振る舞っても、きっとこの大人の男は許して受け入れてくれるだろう。
しかしそれではあまりにも情けない。
どう見えようとも、キナも男で一人前の人間だ。
可愛がられるだけではなく、一人の人間として認めてもらって頼りにされたい。
今は無理でも、何も出来ないと知っているから無理でも、いつか、とキナは同居を受け入れた時からずっと考えていたのだ。
自分の気持ちが相手に伝わるだろうか、とキナが不安そうに目を揺らして見上げれば、何よりも優しい視線がそこにあった。
それが近付いて、タオルを顔に当てられたまま唇が重なった。



「ん・・・っんぁ、ふ・・・っ」
顔の痛みも気にならなくなるような、深い口付けにキナは思わず犬養の背中に手を回した。
犬養の手は肩頬からタオルを落とすことなく添えられ、もう片方は腰を引き寄せるようにキナの身体に回っている。
唇を食べられるように咥えられ、開いたそこから舌を誘い出すように絡められ、唇が離れる隙に吐息のように呼吸を繰り返す。
身体を熱くするようなものでありながら、犬養の優しく温かい気持ちを教えられるようなキスだった。
「い、ぬか・・・い、さ・・・っ」
かろうじて息は出来るものの、その気持ちを全身に浴びせられるようでキナは立っていられなくなる。
もう充分解かった、と伝えると、漸く犬養は顔を離してしかし名残惜しそうに音を立てて唇を離した。
「ど・・・した、の?」
「お前の気持ちは解かった」
「ん・・・うん?」
「ベッドは運び入れたらいい」
「・・・本当?」
「ああ、でもそれを使うのは――あまりないと思うが」
「なんで?」
「俺が一人になりたくない」
「・・・・・・・」
きっぱりと子供のような我儘を言われて、キナは一瞬押し黙り、それから顔を真っ赤に染めた。
「あ・・・っあのなぁっ?! なんでそんな子供みたいな・・・っ」
「子供でいいじゃないか」
開き直った犬養に、キナは赤い顔のまま困惑した目を向けた。



「お前にはどう見えているのか解からないが、俺はそこまで大人じゃないからな」
知っていると思うが、かなりのやきもち妬きだ、と犬養は笑いつつもさらりと言う。
「お前がしないのなら、俺がこれからそのモデルのところに行って殴り倒したいくらいだ」
「犬養さん・・・」
呆れを込めながらキナが見上げるのに、犬養は何よりも嬉しそうに笑って、
「お前が、俺のことを考えてくれるのが、嬉しい」
あっさりと言われて、その素直さにキナはますます顔が赤くなってしまう。
ストレート過ぎるのだ。
真正面から言われる言葉は、全てキナの心臓を貫いて押し留める。
動くことも逃げようと思うことも出来ない。
少々捻くれている、と自覚のあるキナは、どうにか声を出して、
「また、口ばっかり・・・」
冗談にしてしまおう、と濁した。
犬養の気持ちには慣れたつもりでも、こうして口に出されるとまだ戸惑ってしまう。
それを素直に受け入れるには、キナは少々歪な恋愛をし過ぎていた。
躊躇うキナをすでに理解している犬養は、それに怒ることももうなく、
「口ばっかりかどうか――確かめてみればいい」
「犬養さん?」
「ずっと、言い続けてやる」
「え?」
「お前が信じるまで、素直に受け入れるまで、ずっと、言い続ける」
「・・・・・っ」
タオルで冷やされても、顔の火照りは治らない。
その熱さのせいで殴られた痕が痛むはずなのに、それも気にならないほど顔が熱い。
「愛してる」
そっと落された呟きに、キナは陥落してしまっていた。



「も――もう、だ、め・・・っあ、あっ!」
リビングであのまま押し倒されそうになったのを、どうにか寝室まで移動してもらってそこからキナは口を挟めなかった。
されるままに、犬養の求めるままに受け入れた。
犬養の熱い塊の形すらすっかり覚えたキナは、もう一度押し込まれるのにまだ終わらないのだと身体で理解する。
「やぁ・・・っも、あ、あし、た・・・っ」
これ以上されると、明日動けなくなる。
引越しをするため、仕事を入れてはいなかった。
しかし仕事をするよりも、重労働になるはずだ。
犬養は抗議に上がるキナの声も甘い何かのように受け入れて、目の縁の傷には触れないように頬を撫で唇を塞いだ。
「ん・・・っんく、ん!」
小刻みに揺さぶられて、手は落ち着くことなくキナの肌を弄り続ける。
身体を繋げられたまま中心を扱かれると、キナはもう我慢も何もない。
解放された唇からは抑えきれない嬌声が上がるだけだ。
「や、や・・・っだめ、いく、いく――っああぁ・・・っ」
「ん・・・っ」
奥歯を噛み締めるような、犬養の達するときの癖の吐息にすらキナは痺れてしまう。
全身が発火しそうに熱いのに、奥深くで受け入れた犬養の熱はもっと熱い、と感じた。
激しく腰を揺らしたのを、落ち着かせようとするのかその内側をゆっくりと撫でられるように挿入を繰り返されて、クールダウンのはずなのにキナはまた落ち着かなくなってしまう。
「ん・・・ぁふ、んん・・・っい、ぬか、い、さ・・・だめ、それ・・・や、」
その理由は、犬養自身が全く衰えを見せないからだ。
許されるのなら、このまままたもう一度昇りつめたい、と強請っているようにも感じられる。
「・・・駄目か?」
甘えるような声で囁かれて、キナは涙目になって潤んだ視界で意味がないと知りながらも睨みつけた。
「・・・んっあし、たぁ・・・だ、って、ひ、っこし、する、て・・・」
「お前は何もしなくていい」
「ん――・・・っなん、なん、で、そう、俺ばっか、甘やかし、て・・・っ」
「甘やかして甘やかして、俺からもう逃げられなくなるまで、縛りつけたい」
キナは何も言えなかった。
掠れた声で、ばか、と呟いたけれど、声にはならなかった。
もう捉えられて離れられないことを教えるために、キナはその背中にしっかりと手を回したのだった。


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