擬似恋愛  ―皇紀―





最近、恭司がいらついていることを皇紀は知っていた。
それが、慣れないバイトをしているせいだとも解っていた。我慢をして、ストレスを溜めているのだろう。
しかし皇紀にはそれはどうしようもない。
社会人として仕事をするなら、やりたいことだけをして我侭を通すだでは駄目なのだ。恭司もそれは解っているのかもしれない。だから皇紀にも何も言わず、ただ機嫌の悪さを隠せないだけでいた。
そんな恭司を、かわいいと思ってしまう。
頑張れと応援も出来ず、年上としてアドバイスもしてやれない皇紀だけれど、それでも拗ねたような顔に思わず笑ってしまう。
決して、恭司本人に悟られは出来ないけれど。
恭司には悪いけれど、皇紀は機嫌が良かった。
自分と居るために、恭司はどうにかして足掻いている。それを感じて皇紀は嬉しく思ってしまうのだ。
別れなければならない。
別れたほうが、恭司のためだとは思ってはいるが、こればかりはどうしようもない。
「おい、皇紀、ちょっと今日付き合え」
同僚で先輩の牧に誘われたのは、そんなときだった。
ちょうど手をかけていた仕事のめどが付いて、残業を早めに切り上げて一緒に会社を出た。
何度か来たことのある居酒屋に入り、つまみとビールを頼んだ。
「お前、最近なんか良いことあったのか?」
スーツに身を包んで、整った外見の牧は実は皇紀の好みのタイプだ。
しかし、誘う気になれないのは牧の性格にある。
あっけらかんとしていて、痛いところを言われても憎めず、そして頼れる。同僚として、得がたい存在だった。皇紀に、それを崩す勇気はない。
だから依然として気の知れた先輩後輩の中で落ち着いていた。
表情のない皇紀の変化を、牧は感じ取れるくらいの中でもある。いきなり言われて、皇紀は付き出しに伸ばしかけた箸を止めた。
「・・・・良いこと、って」
「良いことだよ、お前、かなり機嫌いいよな」
「いつもと変わりませんよ」
「んなわけねぇだろ、ちょっと前は死にそうなツラで、その後で後悔してますって態度で、今は嬉しくて仕方ないって感じだ」
「・・・・・・・・」
皇紀の変化を確実に捉えられて、皇紀は誤魔化すようにジョッキに入ったビールを呷った。
「何があった? ・・・ああ、あのベッド、どうだった? 使い心地は」
「・・・・・っ」
「あ、それで機嫌が良いのか? すげ、良かったろ?」
身体を休めるためにも、あのベッドはとても心地よい。しかし、牧がそういう意味で言ったのではないとはっきりと解る。楽しそうな牧の視線を皇紀は少し頬を染めて睨んだ。
「・・・・プライバシーですよ」
「お前と俺の仲だろ?」
「どんな仲ですか」
「釣れねぇな、相変わらず」
牧は苦笑して、自分もジョッキを傾ける。
「牧さんに釣られたって、どうしようもないですからね」
「なんでよ、俺、お前ならいくらでもオッケーだけど?」
「・・・・言いつけますよ」
困ったけれど、憎めない、と皇紀が笑った時だった。
「・・・・・・皇紀さん」
その声に、顔を上げた。
呆然と立ち尽くした、恭司がそこに居た。
「恭司?」
驚いて、思わず確認するように皇紀も呼んでしまった。
それから向けられた、牧の視線に皇紀は慌てる。表情を繕いながらも、内心は動揺しきっている。牧の視線はニヤニヤと笑うものだ。
皇紀はバレた、と舌打ちをどうにか耐える。
隣の部屋の学生だと答えたけれど、牧には解ったはずだ。
皇紀は、牧にだけは自分の性癖を隠していない。笑いながら言う牧に、皇紀は半ば諦めた。
これで、暫くは牧に遊ばれるネタを提供してしまったのだ。
しかし、皇紀も恭司の行動はまったく予想が付かなかった。
「人生まで気楽にやってるわけじゃねぇよ!」
恭司の声に、視線に、皇紀は動けなかった。
その真剣な思いが、全て自分に向けられていることがはっきりと解ったからだ。そのまま腕を取られて、部屋に連れて帰られた。
明日、牧に何を言われるか、と諦めて溜息を吐いていると、恭司はいきなりベッドに押し倒す。
「恭司・・・っ」
「うるせぇ、黙ってやらせろ」
「・・・・・っ」
据わった目に、皇紀は何も言えなかった。
諦めて、恭司のしたいようにさせた。どうして止めなかったのか、皇紀にも解らない。
ただ、恭司が今苦しんでいるのは解るし、皇紀が思っている以上に、皇紀のことを恭司が想っているのが解った。
それでも、いつもより乱暴な手つきに皇紀のプライドが許さない。
唇を、必死で噛んだ。
声を、絶対に出したくなかった。
身体はこんなにも反応してしまっているのに。皇紀は泣きたくなりながらも、それでも嗚咽さえ飲み込んだ。





      *





シャワーから出ると、そこにいつものように待っている恭司はいなかった。
残念に思いながらも、それにほっとしている自分に気付く。
どうにかして恭司を自分から離したいといつも思っているけれど、実際にどうしたらいいのかすら解らない。手を伸ばされたら確実に受け取ってしまう。だからいつまで経っても、甘いことなど口には出来ない。優しくなんてなれはしない。
強情な性格は、直しようはない。
さすがに、恭司も呆れただろう、と皇紀は溜息を吐いた。
柔らかなベッドに座り、すでに冷えたシーツに手を伸ばす。
離れて欲しいとあんなに願ったのに、実際離れるとこんなにも辛い。
皇紀はベッドに身体を伸ばして、どこかに熱は残っていないだろうかと探した。終わった後でさえ、余韻に浸る熱すら疎むというのに皇紀はその熱が欲しかった。
いつも高い体温の手は、皇紀の固まった心を溶かすように優しく身体を這った。溶かされることに怯えてその熱が嫌いだったけれど、無くなれば辛い。
矛盾した感情に馬鹿馬鹿しくなる。
「・・・だから、子供は嫌いなんだ」
皇紀は同じ言葉を吐いた。
こんなにもすでに心を占めて、冷えた皇紀を暖めて。
それが無くなったときが嫌だ。
こんなにも身体は熱いのに、冷めてしまう。冷めれば二度と、熱は甦らない。
「莫迦恭司」
シーツに顔を押し付けながらも、それでも心を閉ざした。
これで良かったのだ、と自分を慰める。
離れていって欲しいと、あんなに自分から望んだのだ。もっと後になればなるほど、皇紀はもっと深く傷ついた。
すでに深い傷を抑えて、皇紀は良かったんだ、と声を殺した。





       *





冷静になったつもりで、一日の仕事を終えた。いつもより早くに帰れたのは、さすがに牧には隠しきれず、帰れ、と言われたからだ。
身体も気持ちも憔悴していた。
取り敢えず寝てしまって、何もかも忘れたい。体力が戻れば、いつもと変わらない日常が取り戻せるのだ。
しかし、帰って待っているのは新しくしたばかりのベッドだ。
数え切れないほどの人間の過去が残っているものではなく、恭司しか知らないベッドだ。皇紀はすでにそれに後悔をしていた。
溜息を吐きながらマンションのエレベータを降りると、部屋の前の塊を見つけて足が止まった。
確認しなくても解る。
そんなことをするのは、一人しかいない。
皇紀は動揺をどうにかして隠して、足を踏み出した。部屋の前に座り込んだ恭司に、視線を合わせないようにして、
「・・・どいてくれないか」
鍵を取り出してドアを開けた。
少しだけ開いたドアは、恭司のせいでそれ以上動かない。
「きょう・・・」
皇紀は仕方なく視線を向けると、恭司はばっと身体を伏せた。
「―――――すみませんでした!」
「・・・・・な、」
皇紀はそれを上から見て、声を無くす。
まさに、土下座をされたのだ。手を付き、頭を廊下に付けるほどに下げている恭司。
「マジで、あんなことして、後悔してるし、莫迦なことしたって思っているし、最悪だとも思うけど、いくらでも罵っても殴ってもいいけど・・・お願い、頼むから・・・捨てないで、皇紀さん・・・」
「・・・・・」
その格好のままで言われて、皇紀は身体中をある感情が襲った。
しかし、それを表に出すことなど出来ない。俯いた恭司をいいことに、皇紀はどうにか顔を平静にして、
「・・・どきなさい、そんなところでそんなことを言われても、迷惑だ」
「・・・・皇紀さん」
「話があるなら、中で聞く。大の男がそんなことするな、俺が恥ずかしい」
「・・・・・」
皇紀は冷静な声が出せたことにほっとした。とりあえず身体を起こした
恭司をどかせて、ドアを開ける。
中に入ったとたん、恭司は変わらない熱で皇紀を抱きしめた。
「皇紀さん・・・・」
腕も、身体も、触れる場所全てが熱い。
皇紀は俯きながらも、
「恭司、もういいだろう」
「なにが」
「もう・・・・解っただろう? 僕と一緒にいたって、良いことも楽しいこともない、これで、区切りをつける」
「・・・・・」
「今までと違うものに、お前は振り回されているだけだ。お前はお前なんだから、それを我慢して変える必要なんかない。恭司は恭司らしくしてればいい。僕なんかの・・・」
「なに言ってんの」
「・・・・なに」
皇紀は考えていた言葉を冷静に重ねていただけだ。それを、低い声で遮られた。
「なに、言ってんの、皇紀さん」
「なに・・・って」
その声に、いつもの熱が感じられない。皇紀は腕に収められたままで顔を上げられなかった。
「また・・・なに、勝手に切ろうとしてんの? 一人で、暗いことばっか考えてたんじゃねぇの?」
「く、暗・・・そんなこと、現実を、見ているだけだ」
「現実なんか、見てねぇじゃん、皇紀さん」
「お前が・・・!」
言うな、と皇紀は続けたかった。
しかし勢いで顔を上げると、いつも以上に冷たい目がそこにあった。
「皇紀さんは、ただ楽になりたいだけだろ」
「な・・・」
「人の人生なんか、背負えないって逃げてるだけだろ」
「そん・・・なの、当然だろう、背負えるはず、ない」
「そんなもん、誰が背負えって言った?」
「あ・・・・」
「いい加減、子供子供っていうけど、俺、皇紀さんに人生背負わすほど子供じゃねぇ。思い上がるなよ!」
きつい声に、皇紀は身体が固まった。
表情も、硬くなる。声も出なかった。視線も、恭司から離れない。
視線が外せない。
熱いほどの、きつい恭司から皇紀は外せなかった。
「背負ってくれなんか言ってねぇだろ! 俺といることで、皇紀さんになんの負担がかかるんだよ! 俺の人生まで皇紀さんが決めんな! もし何かがあるとするなら、どうしてそれを一人のもんにするんだよ、俺と一緒にいるんだろ?! 俺と一緒に背負えばいいだろ!」
「・・・・・・っ」
皇紀は自分の目が熱くなるのが解った。
泣きたくなんか無い。
しかし、湧きあがる熱が、涙で溢れる。
子供の恭司は、こんなにも簡単に大人の不安を包み込む。
一気に言って恭司も息を吐いた。それから、幾分落ち着いた声で、
「頼むから・・・一人で考えるなよ。俺を切り捨てるなよ、二人でいるんなら、全部二人のもんだろ・・・俺のもんは皇紀さんにやるから、皇紀さんのもんは、俺にくれ」
その辛そうな声に、皇紀は首を振った。目に溜まった涙が頬を伝うのを拭うのも忘れて、
「・・・駄目だ」
「駄目じゃない、もう、無理。離れるとか、絶対無理・・・」
「・・・恭司、もう・・・」
「駄目。皇紀さん、俺、コレだけは譲れない。絶対、皇紀さんから離れたりしない」
「お前・・・・莫迦だろう、やっぱり」
「は?! なにが!」
恭司は声を荒げたけれど、すぐに溜息を吐いて、
「ああもう、莫迦でいい・・・皇紀さんに関しては、俺、莫迦でいい・・・」
「僕、なんかに・・・」
皇紀は自分とは違う大きな身体に、顔を埋めた。
こんなにも身体が熱い。
冷め切った身体が、恭司に触れるだけでこんなにも熱を持つ。
「皇紀さん、初めに・・・あの夜、俺を誘ったの、後悔してるだろ」
「・・・・・」
当然だった。
あれさえなければ、皇紀はこんなにも悩まない。
「でも、皇紀さんのせいじゃねぇし。誘われたからって、俺、したくもねぇヤツと寝たりしねぇし・・・しかも、俺がやられたわけじゃない、俺が、やったんだぜ? やりたくねぇ相手とやるほど、俺子供じゃねぇよ・・・」
「・・・・恭司?」
「俺がこれからやったり、失敗したりすることって、皇紀さんの傍にいたいからだけど、でも、それは皇紀さんのせいじゃない。俺がしたくてしてんだよ。少しでも、皇紀さんの傍に居て、皇紀さんが安心出来るように、俺がなりたい」
皇紀を抱きしめる恭司の腕に、力が入る。
「あのとき、誘ったのが俺で良かったって皇紀さんが思うように、俺がなりたい・・・だから、まだ俺、子供かもしんねぇけど・・・俺で我慢して。いつか絶対、皇紀さんが良かったって思うくらいに、なるから・・・俺の傍にいて」
「・・・・・」
皇紀は恭司の服を握り締めて、目を押し付ける。
涙を、そこに沁み込ませた。
「お前・・・ほんっきで、莫迦だな」
「・・・・今は、言われても仕方ないけど、いつかそんなこと言わせなくしてやる・・・」
拗ねた声に、皇紀は思わず笑みを零した。
「・・・やっぱ、莫迦・・・」
腕を広い背中に回して、
「後悔・・・するなよ」
「・・・え?」
「お前で・・・良かったなんて、思わない」
「・・・こ、皇紀さん・・・」
「お前が、良かった・・・恭司が、いい」
小さく、皇紀は呟いた。
顔も上げられない。
真っ赤なのが自分でも解ったからだ。
耐え切れなくて、溢れた本音だった。
皇紀は赤い顔を俯かせたまま、腕を伸ばして恭司の中から抜け出た。背中を向けて部屋に上がり、
「も、もう帰りなさい、僕は疲れてるから、もう寝る・・・」
それを誤魔化したくて冷静な声で言ったつもりだった。
「こ・・・皇紀さん!」
「うわ!!」
背中から勢い良く抱きついてきた恭司に、耐え切れず皇紀は目の前のベッドに倒れこむ。
「い・・・っ恭司! 離れなさい!」
「やだ!」
「や、やだって・・・!」
「嫌だ、ぜってぇ、もう離さねぇ・・・!」
恭司の手は締め付けていた皇紀のネクタイを解き、簡単にシャツを開く。覗いた肌に何度も口付けられて、その熱に皇紀は溜息を吐く。
「ああ、まったく・・・犬か、お前は」
「ひどっイヌと一緒にすんなよ! イヌじゃ皇紀さんを喜ばせねぇだろ!」
「・・・・っ」
皇紀は素早く振り上げた拳を力いっぱい恭司の頭に下ろした。
「い・・・っ」
「莫迦恭司!」
涙目で打たれた頭を抑える恭司に、皇紀は久しぶりに調教が必要だ、と赤い顔を顰めさせた。


fin



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