シュリ 4 北の国に、また長い冬が訪れた。 シュリは白い息を吐いて、大きなマフラーを巻きなおす。 今にも何かが零れそうな空を見上げて、町中を急いで走りぬける。 小さな看板の出たパン屋の扉を開けて、 「行ってきました」 レジにいる人の良さそうな主人に報告した。 パンを客の家に配達する。それがシュリの仕事だった。 貰ったお金を主人に渡し、 「ガスさんのところ、明後日にまたくださいって」 「解かった、ありがとうシュリ」 大人に褒められて、シュリは嬉しそうに笑った。 今まで、大人というものはシュリを罵るか殴るか、性的な目的で近寄ってくるか、のどれかでしかなかった。 今では、それが違っていたのだ、と解かる。 紹介してもらった仕事は、もちろん前の仕事のためにしていたものと比べれば安くはあるけれど、楽しかった。 パンを抱えてお使いに行く。 それだけが、シュリには楽しかった。 「今週の分ね、また来週も頼むよ」 小さな革袋に入れられたわずかな重みは、シュリが一週間頑張った成果だ。 シュリは両手でそれを受取って、ぜひ報告しなければ、と嬉しそうん顔を綻ばせる。 「ありがとう、またね!」 「雪が降りそうだから、気をつけて帰るんだよ」 「うん、大丈夫!」 真っ直ぐに一人で家に帰るのではない。 シュリは寄り道をして、二人で帰ろう、と革袋を手に握りしめてパン屋を飛び出した。 冬になる。 改めて思って、シュリはあれからもう一年経ったのだ、と思い出した。 冬の日に、アンドロイドを拾って一年だ。 ブルーがシュリと暮らすようになって、ようやく一年たった。 ブルーが居るのは、街の中心にあるロータリー角のカラクリ時計屋だ。 二人で生きていくために、肉体労働でもなんでもする、と言ったブルーだけれど、ものを作ったりすることが好きなブルーは、一日中しても飽きない仕事にありつけた。 その時計屋は、昔から気になっていた店でもあり、子供が興味を示すものを今までほとんど手にすることも出来ない生活をしてきたシュリには、誰に文句を言われるでもなく窓の外から眺められるようになっただけでも嬉しいことだった。 外から見える、店の一番奥の作業台で仕事をするブルーが真剣に手許を覗き込み、仕事をしているのを見るのも好きだ。 窓が顔を近付けすぎて白くなるほど見つめていると、内側から気付いたブルーが微笑んで手招きしてくれる。 ブルーは他の大人のように、壊すから触るな、とは一度も言わなかったし、寧ろ手にとってそれが何かを楽しそうに教えてくれる。 以前にこの店をしていたベイルマンという老人からここを引き継いでから、品物はカラクリ時計だけではなく、どんな内蔵になっているのか解からないような不思議な、それでいてワクワクするような機械が並ぶようになった。 面白いものは必ず、シュリの分も作ってくれる。 それが何より楽しみで、ブルーの傍に居られることが何より嬉しいシュリには、幸せな生活だった。 それがずっと続いて、それで良いのだと、思っていた。 ポケットに小さな皮袋を大事に入れて、大きなマフラーの上から白い息を吐き出しシュリはブルーの店の前に着いた。 いつもと同じように木枠に区切られた窓ガラスの一番下に顔を近付け、中を覗き込む。 そこからはブルーが座っているのが見えるはずだった。 「・・・・あ、」 しかし、今日はそれが叶わなかった。 ブルーの前に、その姿を隠すように女が一人、立っていた。 シュリはそれが誰なのか知っていて、思わず耳を窓に傾ける。 造りの古いこの店は、どうしてかこうすると中の声が漏れ聞こえる。 「・・・だから、ずっと一人じゃ大変でしょう?」 相手を気遣うより、媚びたような声にシュリには聴こえた。 「子供を育てるのって、結構難しいものよ。子供には両親が居たほうがいいし・・・でも、あの子は貴方の子供じゃないんでしょう? まったく赤の他人を拾って育てるなんて、ブルーは人が良すぎるわ」 「シュリは拾ったのでは・・・」 「それは良いのだけど、でも、あの子、あまり良い子供でもないそうじゃない?」 ブルーの言葉を遮った女の声は、まるでそこにシュリが居るように嫌悪を見せていた。 「シュリは、良い子ですよ」 「貴方の前ではそうかもしれないけれど・・・あの子がどこで何をしていたか、知っているの?」 「・・・・・・少しなら」 シュリはブルーの声を聞いて、顔を窓から離した。 顔を近付け過ぎていたせいで、そこだけ白く曇って中が見えない。 自分の吐いた息を拭うことも出来ず、そのまま店に背を向ける。 幸せでいっぱいだと思っていたシュリの何かが、音も無く割れた気がした。 ――そうだ、俺は、こんな・・・ ポケットの中の皮袋を力を込めて掴む。 シュリの手に収まるほどの、僅かな報酬。 それによって与えられる、両手で掴みきれない幸せ。 当たり前に日常になっていた生活は、呆気ないほど脆く、崩れ落ちる。 シュリは何かに向かって、勢いよく走り出した。 夜になって、ゆっくりと舞落ちるようになった雪の中を、ブルーは慣れた足取りで街から外れた丘の城へと向かっていた。 ゆっくりと歩いているのではなく、気持と同じように早足だった。 城へ着いたときは肩や頭に雪が乗り、それを払うことも忘れて見なれたアンドロイドに中へ入れてもらう。 「シュリは来てるかな」 無口な少年に寒さよりも気持ちに青くなった顔で問うと、ただ頷いて奥を示された。 「良かった・・・」 いつもなら、仕事が終わればブルーの店に顔を覗かせるのに今日はいつまで待っても来ない。 城へ来るにしても、ちゃんとブルーに断って行くのにそれもない。 家にも居ないのを確認して、ブルーは周囲を探しながら最後の綱としてここへ来たのだ。 安全だったのを確認出来て、ほっとしつつ奥の部屋へと足を向けると、その扉の前でブルーの胸のあたりまでしかないシェリーが声もなく止め、唇に人差し指を当てた。 「・・・・・?」 静かに、というジェスチャなのだろうけれど、その意味が解からない。 重厚そうなその扉から、何故か中の声が漏れてきてブルーは示されるままにそれに聞き入った。 「・・・どうしてアンドロイドに成りたいのかな?」 「だって・・・きれいだし」 「そうかな? 君も可愛いと思うけれど、それ以上に成りたいのかな」 「俺、かわいくないよ。きれいでもない。こんな俺、やだよ・・・」 「私には、いつもと変わらない君に見えるけれどね」 「それじゃ、全然ダメ。シェリーみたいにきれいで、なんでも出来て、誰にも迷惑かけないで、誰にも何にも言われなくて、ブルーと・・・・っブルーと、一緒に、いられ、るっよ、に・・・っ」 最後は涙が零れてしまったのか、しゃくりあげるような声になってしまっていた。 「ブルーは、ずっと君と一緒に居ると決めたんじゃないのかな?」 「なんで?」 「何のなんで?」 「なんで一緒に居てくれるの? 俺と一緒に居て、なんになるの? 何のために一緒に居るの・・・っ?」 「簡単な答えだと思うけれどね」 「俺、あんな仕事してて、汚いから・・・っブルー、なんにもしてくれないのかな・・・?」 「汚い、と言われてしまうと、うちの子たちはみんな汚くなってしまうのだけど?」 「違うもん、シェリーは綺麗だもん。俺、せめてもっとお金欲しくって、さっきしてみようって思ったのに・・・」 「誰かに買って貰ったの?」 「・・・・出来なかったんだ、どうしても、厭ってなって、途中で、口でするからって許してもらって、」 そこまでで、ブルーは堪えられずドアを開けた。 中に居たのは、いつもと変わらない恰好の博士と、ソファに膝を抱えて小さくなっているシュリだ。 その目は、止まらない涙で濡れていたのに、ブルーを見た瞬間に驚いて固まった。 * 突然入ってきたブルーの姿に驚いて、その顔がどこか怒っているように見えるのは話を聞かれたのだろうか、と解かってうろたえた。 「・・・シュリ」 低く名前を呼ばれて、やはり怒っているのだ、と顔を俯かせる。 いつのまにか博士は目の前に座っていた場所から消えていて、そこにブルーが立っている。 「そういうこと、しないでって、言ったはずだけれど」 「で、でも、俺・・・」 「言い訳は聞きたくない」 「・・・・っ」 説明しようにも、その一言で塞がれた。 俯いた顔を顎を取って上げられて、その指先で噤んだ口に触れられる。 「この・・・唇に、なにを入れたの? この身体を、誰に触らせたの?」 城に着いたときに、真っ先にシャワーを借りた。 もう身体に何の残滓も残っていないはずだけれど、シュリはその身体に嫌悪してしまう。 見上げるブルーに見下ろされながら、シュリは涙がまた止められなかった。 「・・・だ、って、俺、インランだもん」 「・・・・なに?」 「汚れてるし、それしか出来ないし。生きてくには、そうするしか、ないじゃん」 「そんな・・・今は私がいるだろう? どうしてそんなことを、」 「ブルーが居なくなったら? 俺なんか要らないって、どっかに行ったら?」 「シュ・・・」 「そしたら俺、どうやって生きてくの? 売るものは、身体しかないんだよ、俺」 「そんなこと、しなくていい!」 強くシュリを遮ったブルーの手を顔を振って振り払い、 「ブルーはもう、一人で生きてけるじゃん。一人で生活も出来るし、荷物にしかなんない俺なんか、要らないだろ?」 「荷物、って・・・シュリ、そんなこと、私は一度も思ったこともないよ、君は、何より大切な・・・」 「大切って、どういう意味? なんで一緒に居るの? 俺なんかと一緒に居て、何の得があるの?」 シュリの泣き声の絡んだ言葉に、ブルーは深く溜息を吐いてその隣に座る。 「・・・宝物だよ、」 「・・・え?」 「シュリは、私の、何よりも大事な、宝物なんだ」 吐息のような声に、シュリは嬉しいはずなのに顔を顰めて、 「宝物って、なに? 宝石みたいに、付けて見せびらかすもの? それとも箱にいれて、しまっておくだけのもの?」 「シュリ・・・」 「ブルーの言ってること、よくわかんない。俺はブルーが好きだし、もっと一緒に居たいし、いろんなことしたいって思うのに、ブルーは違うんだ」 「ち・・・」 違わない、と口が開きかけても、ブルーは声が続かない。 「それとも、俺が、汚いから、何にもしないの?」 シュリは不安でいっぱいだった。 今の幸せが、すぐにも壊れてしまいそうなのが怖い、と不安だった。 それはブルーにも伝わって、小さな身体を抱きしめてあげたい、と腕を伸ばしたけれど、触れる前に止まる。 自分に触れない手を見て、シュリは潤んだ目でブルーを睨んだ。 「もう・・・触るのも、やなんだ・・・」 「そうじゃない」 触らないブルーの声は、それだけは強かった。 「汚れてるのは、私のほうなんだよ・・・」 「一年前、君が私を拾ってくれたときのことを、覚えている?」 言われて、シュリは素直に頷いた。 忘れもしない、シュリの世界が変わった日のことなのだ。 「あのとき、言ったよね・・・この身体は、私、セイジ本人の身体じゃないと」 「・・・・・」 ブルーは本当の名前が別にある。 シュリと初めて出逢ったときは、その名前すら覚えてもいない自分をアンドロイドだと思い込んでいた人間で、どこかから逃げてきたのだ、と言った。 意識だけは同じものなのに、身体を何度も変えて生きてきたのだ、と教えられた。 シュリは思い出したけれど、それがどういう意味なのかが解からない。 「シュリ、君が、大事で大事で、本当に何よりも大切で、私はこんな身体で触れていいのか、毎日考えてしまうんだ・・・」 セイジ本人ではない、別の男の身体。 いったい何をして生きて、何をして死んで、セイジの身体に使われたのか解からない身体。 自分の手を、ブルーはそれを何よりも嫌悪して見た。 「君に他の誰かが触れるのが我慢ならない。自分の意思で動く手すら、私には許せない・・・」 ごめん、と言われた謝罪に、シュリは一度涙を拭って、 「ブルーの・・・」 「え?」 「ブルーの、言ってること、よくわかんないのは、俺がバカだから・・・?」 「シュリ、」 「わかんないよ・・・難しいこと言われても、俺にはわかんない。ブルーはブルーじゃないの? セイジってひとなの? じゃあ、俺のブルーはどこに行ったの?」 「シュリ、そうじゃなく・・・」 「どこに居るの!?」 「シュリ」 「俺のブルーは、ブルーじゃないの? 今、ここに居るのが、ブルーじゃないの? セイジなんて知らないよ、他の身体なんてわかんないよ、俺はブルーしか要らないんだよ・・・っ」 触れてはくれない腕に、自分から縋りついた。 拭いたはずの涙がまた溢れて、シュリはまっすぐにそれでもブルーを見つめる。 戸惑った顔が潤んだ視界に入って、どうして笑ってくれないの、とまた不安が募った。 「要らないなら・・・ここで捨ててよ、俺なんか、もう構わないでよ」 離しかけた身体を、それまで触れなかったブルーの腕が強く掴んだ。 「俺なんかって、言わないでくれ」 「・・・ブルー?」 腕に抱きいれられて、泣き顔のまま戸惑ってしまう。 それまで拒んでいたことが嘘のように、しっかりと抱きしめられる。 「頼むから、俺なんか、なんて・・・シュリは、私にとって、本当に大切な人なんだよ・・・」 そのシュリを貶すのはシュリ自身でも許さない、とブルーははっきりと告げた。 「こんな幼い身体に・・・可愛くてならないシュリに、私は・・・酷いことを、したくて仕方がない」 「ブルー、」 「シュリが嫌がるようなことを、したいと思っている酷い人間なんだよ、私は・・・」 ブルーになりたい。 シュリがいつも笑って見てくれるような、ブルーでありたい。 それが今の願いだ。 そのために、必死で自分の欲望を押し殺す。 湧き上がる気持ちは、セイジとしての意識なのか名前も知らない男の身体の本能なのか。 それすら解からなくなって、ブルーは何よりシュリに触れることを躊躇った。 「ブルーだよ」 「・・・シュリ?」 「他の誰かなんて、考えないで。難しいことなんて、要らないから。俺を抱いてくれるのは、ブルーなんだ。それだけで、いいんだ・・・」 短い手をブルーの背中に回し、力を込めて抱きしめ返す。 本当のことは何も知らない。 難しいことも、迷うことも知らない。 真実は、目の前にブルーが居ることだけだ。 シュリはそれだけで、他の何もかもを切り捨ててしまう。 その強さに、ブルーは漸く険しくなっていた顔を綻ばせた。 「シュリ・・・本当に、君は、」 その続きを、ブルーは留めた。 嬉しさで気持ちが膨れて、何を言って良いか解からなくもなった。 小さな額に自分のそれを合わせて、 「・・・私は、他の男と同じような、厭なことをシュリにするかもしれないよ?」 涙目を覗き込むと、それを瞬かせたシュリは、 「ブルーなら、厭なことなんて、なにもないよ」 あっさりとした答えに、ブルーは苦笑するような顔になってしまう。 腕に抱き入れるには、本当に小さな相手をしっかりと抱きしめて、 「シュリ・・・お願いがあるんだ」 「・・・なに?」 少しまた、不安なものを顔に見せるシュリに、大丈夫だよ、と笑って、 「一生・・・私に愛されて欲しい」 「・・・・・」 「それから、同じだけ、私を愛していて欲しい・・・」 願いは、それだけだから、と囁くと、シュリは泣き顔を赤く染めた。 愛される、ということを、初めて身体に受ける。 それがこんなにも恥ずかしくて、けれど幸せで嬉しいものなのだと、初めて知った。 今まで幸せだと思っていた日常も、一気に吹き飛ぶほどの歓喜だった。 「ブルー、好き・・・」 気持ちが声になって溢れ、それを吸い取るように口付けられた。 「んん・・・ブルー、ん、」 誘うような手ではなく、縋るような手に、ブルーは少しだけ躊躇った。 場所を思い出したのだ。 ここは家ではなく、博士の城だ。 「・・・ブルー?」 けれど、幼い顔がとろりとした顔を見せて首を傾げるのに、ブルーは本当に敵わない、と何かを諦め振り切った。 「城内セックス禁止だったんですがねぇ・・・?」 博士に不敵に微笑まれて言われるのも、また後日のことだった。 |
fin