秋が近づいているのが判る。
穏やかな夕暮れだった。
二人でここから眺める風景がとても好きだった。
美しい庭を閉じられた障子に映る影を今は何も思わない。
二人で見なければ、そこは意味もない風景だった。


菊はなんの表情もなく、その障子を見ていた。
「どうせ、お前は俺のモンになるんだからな」
今から抱いてしまっても良いだろう、と男は言う。
若い男だ。
その腕が、手が、急いたように菊の身体を弄る。
「ずっと思ってた・・・こんなジジィにはもったいないってな」
人形のような菊に唇を押し付ける。
「なんとか言えよ・・・菊」
冷たい畳の上に倒されても、菊は外に目を向けたままだった。
何の反応も示さない菊に、男は苛立ちを覚え、身体を突き放した。
「まぁ・・・このジジィをクヨーしてからでいいさ」
舌打ちをして立ち上がり、障子とは反対側の襖を開け、
「必ず、俺もモンにするからな」
言って、出て行った。
静かになった部屋で、人の気配を感じた。
この家に、二人以外の人間がいるのは珍しい。
その声を、人を、菊はどうしても好きにはなれなかった。
菊は人形だ。
セックスドールなのだ。
主人に言われれば、誰とでも寝る。
しかし菊の主人はそんなこと一度も言わなかったし、菊もこの主人だけで良かった。
この部屋にずっと横たわり、何も言わない彼を見る。
冷たい布団より冷たく、
もう二度と開かない瞳。
呼びかけても、いつものようにあの笑顔は返って来ない。
できれば、このまま一緒に眠ってしまいたかった。
ここにはもう、彼の魂はない。
彼はいない。
菊はそれでもしばらくは何も言わない彼を覗き込んで、それからゆっくり立ち上がった。
障子を開けて、庭に出る。
そっと、その家を後にした。
彼がいないのなら、帰るところはひとつしかない。


帰っておいで


懐かしい声が聞こえる。


シュリは勝手知ったるように門を潜り、その扉を開けた。
ここの扉を自分はいつでも開けられることを知っていた。
「シェーリー」
広いフロアをまっすぐに進み、いつものように呼びかける。
突き当たりの扉を開ければ、いつも寛いでいる広い居間があった。
「あーそーぼー」
扉を開けて、中に踏み込んだ瞬間、足を止めた。
二人、いた。
ひとりはいつも遊んでいるシェリーだ。その向かいに座っている、人形がいる。
いや、人形ではない。
ゆっくりとシェリーと同じように突然の訪問者を振り返った。
漆黒の髪に、黒水晶が嵌め込まれたような瞳。
びっくりしたけれど、ここがどういうところかはある程度は判ってきているつもりだ。
「だれ?」
しかし、少年が人間なのかアンドロイドなのか区別は付けられなかったので、素直にシェリーに訊いた。
寡黙なシェリーが口を開くより早く、シュリの後ろから声がした。
「菊 だよ」
振り返ると、いつもと変わらない博士がいた。
見上げる上背に、整った顔を隠すように右目だけに眼鏡がかけてある。
「シェリーと同じアンドロイドだよ。帰って来たんだ」
「ふうん・・・」
シュリは人形の二人に近づいて、菊を見た。
「菊・・・?俺はシュリ、こんにちは」
菊もシュリを見上げ、にっこりと笑った。
「一緒に遊んで来なさい」
博士は誰に言うでもなく、そのまま奥の部屋に消えた。


博士の城の敷地は呆れるほど膨大だった。
外は何もかも凍てつき、外界から閉ざされるほどの雪だというのに、一年中花が咲き乱れる温室があった。いや、ドームと言ったほうが正しい。
一度隠れてしまえば、早々に見つかることは無い。シュリはこの場所がお気に入りだった。この場所でほぼ毎日何をしているかといえば、その通り遊んでいるのである。シュリは独りで生きてきたときから同世代と遊んだ記憶がない。(シェリーも菊もアンドロイドであるから同世代とは言い切れないが、外見は変わらない)常春のそのドームでふらふらと散策をしたり、無駄話に明け暮れる。と言っても、口を開くのはもっぱらシュリで、シェリーは相槌を打つか傍にいるだけであるが。シュリにはそれが苦ではなかった。
むしろ心地よい空間だった。
その他は、シェリーに本を読んでもらっていた。勉強をしたことがないシュリに文字を教えているのだが、じゃれあっている延長のようなもので、これもシュリには楽しかった。
「菊はどこにいたの?」
ドームのほぼ真ん中に建てられた休憩所のような屋根つきのベンチに、シュリだけは座らず、その柔らかな芝の上に直接転がって、菊を見上げた。
菊は微笑んだまま、ひとつの方向を指差した。
「あっち?」
シュリはその方向を見て、また菊に戻る。
「俺この街からでたことないからわかんないや。暑いとこ?寒いとこ?」
菊は記憶の中を見るように、呟いた。
「今はもう春」
「もう?」
きょとんとしたシュリに、シェリーが笑う。
「ここは、冬が長いんです」
「そぉなんだ」
外の寒さなどまったく感じないこのドームで気持ちよさそうに転がって、シュリはまどろむ。
「シェリー、昨日の続き読んで」
シェリーは何を言うでもなく、本を開き優しい声色で話始めた。
シュリはここで本を読んでもらったり、一緒に昼寝をしたりするのが、最近の日課だ。
それに菊が加わっても、シュリには何の変化もなかった。楽しいことがもっと沢山あるような気がするだけだ。
いつものように過ごしていると、入り口から博士の声がする。
「シュリ、お迎えだよ」
今まで寛いでいたのに、待ちかねていたようにぴょこん、と身体を起こした。
「シェリー、菊、また明日!」
人形のように見送る二人に、満面の笑みで手を振って外に向かう。そのドームの入り口で、思いついたようにその場に居た博士を見上げた。
「あ・・・」
博士がいつもの笑みを絶やさないで見返してくるのに、
「明日、外に出てもいい?」
戸惑いがちに訊いた。
「・・・シェリーと菊かい?」
「うん、だめ?」
博士は苦笑が正しいような笑みで、
「・・・日のあるうちなら」
そう答えて、嬉しそうなシュリを玄関まで見送る。
外と屋内はかなりの気温差のはずだが、シュリを迎えに来た相手は必ず扉の外で待っている。
「ブルー」
雪に埋もれた場所でブルーは寒さをまったく見せず、薄着でシュリを迎える。
そのブルーに抱きついたシュリも屋内にいるときのままだ。子供らしい仕草に笑って、博士は脱ぎっぱなしにしていた防寒着を背中にかけてやる。
ブルーにその上着を着せてもらって、それでも嬉しそうにブルーにまとわりついて、城を後にする。
その子供らしい動きに、博士は扉に身体を預け、笑いながら見送った。


翌日、朝方に雪がちらついたけれど、昼には晴れ間が見えた。
シュリは博士に言っていた通り、二人を連れ出した。
北の城は街中からは少し離れたところにある。それでもシュリは最近、通いなれたと言うほどその道を楽に進んだ。シェリーも菊も、一応の格好をしてその後に続く。
街に入れば、そこに暮らすシュリに知らない道はない。とくに下町は自分の庭のようだった。
今の季節、外を歩くものは少ない。その中でシェリーと菊は浮いていた。
格好がまず違うのだ。どう見ても誂えたような衣服に整った顔。アンドロイドだと言われれば納得するが、それでも誰もの目を引く。
しかしシュリはそんなことを気にすることはなく、目当ての店に着いた。
四辻の角にあるその店のガラスケースを見て、シュリは笑顔になる。
そこには時計が並んでいた。
全て、からくり時計である。
高性能なアンドロイドが出回る中、全て手作業で創られる緻密なカラクリ時計。誰もが手に出来るものから、市場には回らず直接買い手の元に入るアンティークな高級のもの。
そのカラクリ時計の職人として、ブルーがそこにいた。
老人が独りでしていた店で、継ぎ手を探していたところにブルーが入ったのだ。そのうち、この店ごとブルーに引き継ぐ予定である。
カラリ、とドアを開けると音がする。
博士の城とは違い、今の時期は特に日の光も少なく店内も暗い。それでもシュリはその店が好きだった。小さな頃から外から見ていたけれど、シュリには手の届かないものだった。ブルーがいるおかげで、じっくりと見ていられる。
そしてブルーはそんなシュリのために色々なものを創ってあげる。
陳列棚が並ぶ狭い店内の奥で、作業机に座るブルーがいる。そこが彼の定位置だ。
「ブルー」
明かりを手元にして、真剣にそれを見ていたブルーが顔を上げる。
「シェリーと菊を連れて来たよ」
普通には見分けが付けられなくても、ブルーにはそれが人ではないことが判る。それでもブルーは「いらっしゃい」と笑った。
「シュリ、出来てるよ」
ブルーがその前にあった大きな木箱を指した。
蓋を開けると、大きな時計だった。
「十二時に合わせてごらん」
シュリが嬉しそうに指でその針を回す。
針が同じ時を指したとき、高らかに音楽が流れた。
そこからその文字盤より大きな土台が動き、中から小人が現れる。
全てぎごちない動きだが、音楽隊が曲を弾き、男女が手を合わせて踊り、小さな舞踊会のようで、シュリは目を輝かせてそれを見た。
シェリーと菊にも楽しそうに見せる。シュリはこれを見せたかったのだ。
修理のあがる今日、これは持ち主の元に行ってしまう。その前に、動くところを見たかったのだ。シェリーと菊も笑顔を見せ、それを見つめる。
そのとき、入り口がまたカラリ、と音を立てた。
「こんにちわ」
大きなバスケットを下げた、若い女だった。
「お嬢さん、いらっしゃい」
ブルーがそっちを向いて答えた。
彼女はここの持ち主であるベイルマンの孫娘だった。
「今日はベイルマンさんは来られてませんよ」
彼女の祖父はもうかなりの高齢で、気が向いたときに店にくる。仕事をしたり、ブルーと話をして帰ってゆく。最近は仕事のほとんどをブルーがしていると言っても過言ではない。
「知ってるわ、でも貴方が来てると思って」
にこやかに店内に入る彼女は、ブルーの周りに座り込んでその前の大きなカラクリ時計を見ていた子供たちに気づく。
「まぁ!ここは子供の遊ぶところではないのよ」
早足にシュリたちに向かい、
「壊れやすいものが並んでいるのだから、遊ぶなら他で遊びなさい」
「お嬢さん、この子達はこの時計を見ているだけです」
「これだって、商品よ、この子達がいたずらに壊してしまったらどうするの」
ブルーがその彼女に、そんなことはしない、と伝えようとしたとき、シュリが立ち上がる。
「帰る」
「シュリ」
シュリが他の二人を促す。ブルーに向いて、
「もう日が隠れるから、二人を帰さなきゃ」
そう言って、足早にまたドアを鳴らして出て行った。
確実に気を落とし、俯きながら城に向かうシュリに、シェリーは寄り添い、手を取った。反対側に、菊が触れる。
「綺麗だったね」
「有難う」
優しい声で言われて、シュリは少し、笑った。


翌日、シュリは両手で抱えるような木箱を持って、城に急いだ。
頬が高潮し、息も弾んでいるけれど、大事なものを壊さないように、嬉そうに走った。
「シェリー、菊」
いつものように扉を開け、二人を呼んだ。
奥の扉に入ろうとしたとき、違うところからシェリーが出て来た。
「シェリー、あのね、これ・・・」
弾んだ息でシュリが話しかけたとき、シェリーがその手を取った。
そのまま、無言で奥の部屋に入る。
「どこにいくの?」
シュリの入ったことのない廊下を通り、見たことのない部屋に入った。
落ち着いた調度品の並ぶ部屋に、その真ん中に大きな天蓋の付いた寝台があった。まるで、それだけのための部屋のようだ。
「博士?なにしてるの」
寝台の端に腰をかけていた博士に近づき、その天蓋の下で目を閉じた人形 に視線が移る。
「菊!」
慌てて、手の中の木箱を落としそうになったけれど、もう一度しっかりと抱いて寝台に駆け寄る。
「菊、どうしたの?具合悪いの?」
色のない顔は、シュリは苦手だ。
アンドロイドだけれど、博士の創るAタイプは人と変わりなかった。
それなのに、今ははっきりと違う、と判る。
「眠るんだよ」
博士がいつもの声で言った。
それが、毎日の眠りには聞こえなくて、次の朝には目を覚ますようには見えなくて、シュリは泣きそうな顔で博士を見る。
「・・・眠る?」
「菊は、そのために帰ってきたんだ」
「・・・どうして・・・また起きる?また遊べる?」
博士は首を左右に振った。
「いいや。もう、菊は消える。その通り、消えて亡くなる」
「なんで?どうして?」
「アンドロイドだからだよ」
あっさりと博士は言った。
「人間にも寿命はある。それが来れば、誰でも死ぬ。アンドロイドのそれは役目を終えたときだ。人と違うのは、この子達が望めば次の役目に付くことが出来ることだ」
博士はゆっくりと、シュリに聞かせた。
「でも菊は次を望まない。今まで使えていた主人以外とは一緒にいたくないと望んだんだ。だから、ここに帰ってきた」
「・・・そんなのヤダ」
まるで小さな子供のように、シュリは首を振った。
「菊、ブルーが面白いもの作ってくれたんだよ、一緒に見ようよ、」
目に一杯の涙を溜めて、シュリは菊を覗き込む。
全く動かなかった睫が揺れた。
「菊?」
瞼が上がり、黒水晶がシュリを見る。
「きく・・・」
「・・・有難う」
菊が、微笑んだ。
そう思った瞬間、菊の輪郭が揺れ、シュリが瞬く間に、ザアッと風になった。
菊の風は、シュリに温かく触れ、そのまま何も無かったように消えた。


シュリは泣いた。
今まで独りで生きていて、誰も自分の世界にはいなかった。だから誰がいなくなっても気にならなかった。しかしブルーがいて、誰かと一緒にいる喜びを実感したときから、シュリは何もかもが自分の大事なものになった。出会うものも、自分からいなくなったりしない、と信じていた。
それはとても弱くなったことだけれど、シュリはそれでも前には戻りたくないと思っていた。
泣き止まないシュリに、シェリーはずっと傍に居た。
少なくとも、シェリーはいなくなったりしない。そう伝えたくて、傍にいた。





菊は喜びの中にいた。
目を閉じれば、柔らかな笑顔が返ってくる。
もう二度と、離れたくない。
菊は、そう願って、目を閉じた。


fin



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