仔犬とワルツ 「どうしたんですか、キナ」 颯太は大型ショッピングモールのメイン通路で、隣を歩いていた相手がいきなり止まって動かなくなったのに振り向いた。 ショップと人で溢れた休日の場所に、買出しに行く、という颯太に面白そう、と付いてきたのはキナだった。 恋人と晴れて同棲を始めたキナは、本当に成人しているのかと怪しくなるような幼さを持ち合わせていたけれど、ここ最近颯太でも目を奪われるような色気を表すようになった。 それはやはり、今まであまりいい恋愛をしてこなかったキナに、本気で愛情を植えつけている弁護士の恋人のせいだ、と思うのだが、こんな状態では堪らないだろうな、と颯太は最近バーにも姿を見せない相手に苦笑する。 以前は、キナも相手を探すために来ていた颯太のバー「ネム」は、相変わらずそっと存在を隠すように開いている。 趣味思考の偏った人間しか受け入れないからなのだが、異性に全くそういう気になれないキナには相手を探すためでなくても居心地の良い場所なのかもしれない。 特定の恋人が出来ても、一人で来てはカウンタに座り颯太と話し顔見知りの常連と軽口を交わし、新しい家に帰って行く。 ちゃんと真っ直ぐ帰るものだから最近お迎えがなく、颯太はキナの恋人であるガチガチの堅物にしか見えない弁護士、犬養を見ないのだ。 真っ当なものしか受け入れないような顔をしていながら、キナを相手にすると常識の箍があっさり外れることは、颯太も今までの付き合いで知っていた。 颯太よりも5つは年下のキナは、自分の魅力を知っているのか強調しているのか、すらりとした体型を隠しもせず、今日もその気がない男でも声をかけてしまいそうな恰好だ。 キナに言わせれば、普段着だ、と言い張るのだろうけれど、漸く甘い蜜を知った、という顔にファッションセンスを活かせば、フェロモンが垂れ流れているのではないだろうか、と颯太は周囲を流れているものを確認してしまう。 颯太は立ち止まってショウウィンドウの中に視線を向けているキナの隣に戻り、顔を下げた。 そこに居たのは仔犬と呼ぶには少し大きめのふわふわとした仔犬で、前足をガラスケースの内側から出して今にも目の前に立つキナに触れたい、と強請っているように見えた。 見上げてくる視線は真っ黒で曇りはなく、少し開いた口から覗く舌が愛らしい。 「ど・・・・っどうしよう!」 「・・・・なにが、ですか」 訊かなくても解かる気はしたけれど、颯太は一応焦った顔をするキナに問い返した。 「お・・・俺を求めてるよね?!」 この顔を見れば誰もそう思うかもしれない愛らしい仔犬だったけれど、颯太は大人らしくキナの盛り上がった感情に水は差さないでおいた。 颯太がショウウィンドウの中を改めてみるとやはりそこはペットショップで、目の前の仔犬がいるのは店内の少し広めに取られたゲージの中だ。 その中で他にも何匹か仔犬が転がっていたが、どれも多種多様な模様と大きさで、颯太は左端のほうにある張り紙に気付いた。 「・・・キナ」 教えるのもどうか、と思ったけれど、最早仔犬から視線を外せないでいるキナには現実も知らなければ、とその腕を取った。 そこにはキナのような人間の愛情に訴える言葉がでかでかと書かれていた。 「この子たちは飼ってもらえる主人がいません。一ヶ月後には保健所に行ってしまいます」 あまり犬に詳しくない颯太が見ても解かるように、ミックスの仔犬らはやはり小さいだけで貰ってもらえる時期を逃したらしく、少し大きくなっていたようだ。 気付くとキナはまた仔犬の前にしゃがみ込み、視線を合わせるようにして見詰め合ってしまっている。 「・・・連れて帰ったらいいじゃないですか」 キナが強請ることに、あの弁護士が拒否するはずはない、と颯太は確信しているのだが、潤んだ目で仔犬と見つめ合うキナは、 「・・・だ、駄目だよ・・・」 「弁護士さんのマンション、ペット禁止でしたっけ?」 「・・・知らない」 「弁護士さん、犬は嫌いでしたっけ?」 「・・・知らない」 「弁護士さん、キナのことは好きだと思うんですが」 「・・・・・・だけど、この子大きくなるよ」 「判るんですか?」 仔犬はこちらの声が聞こえているわけではないだろうけれど、愛らしく首を傾げてキナを見つめていた。 「草介さん・・・前に飼ってた犬の、小さいときとよく似てる。手足おっきいし、レトリバー系のミックスかな・・・」 雪のような色をしたキナの今は亡き愛犬と違うのは、少しクリーム色の毛色だけかもしれない。 「・・・保健所ですか・・・」 もし、キナたちがここでどうこうしなくても、他に飼ってくれる人がいるかもしれない。 けれど颯太もキナも、その望みが薄いことはよく解かっていた。 キナの目に堪えきれない滴が盛り上がり、その顔のまま颯太を見上げてくる。 ついでに、ゲージの中の仔犬も涙こそ浮かべていないがじっと同じような顔で颯太を見上げてくる。 「う・・・っ」 いったいどんな罪を自分が犯したのか、と人生を振り返りたくなるような状況に曝されて、颯太は何故か、以前からこの相手には勝てないことを思い知ったのだった。 最近キナは連日、仲の良い友人のバーマスターの家に行っていて、犬養は今日も無人の家に帰りネクタイを解いた。 その背中に、 「ただいまっ」 勢いよく走りこんで来たようなキナの声がぶつかる。 振り返り額に汗を掻いて荷物を肩から下ろすキナに手を伸ばし、 「お帰り・・・走ってきたのか?」 「あーうん、エレベータ、待てなくってさ」 「待てないって・・・どうして、部屋は逃げないだろう」 階段を駆け上がった、と笑うキナに、犬養は掌で汗を拭ってやりながら首を傾げる。 「うん、だけど、犬養さんが入ってくの見えたんだよね、外から」 急いで後を追った、と言うキナに、犬養は胸が締め付けられるような気持ちに襲われて、それを抑えるのに首を落として低い位置で口付けた。 「・・・んっ」 軽く触れ合わせるだけだったはずのキスが、何の抵抗もなく受け入れられて当たり前のように唇を開かれて、つい身体を抱きよせて深く貪ってしまう。 「ん、ぁ・・・っい、ぬか、ぁふ、んっ」 細い手が、背中に回ってしがみ付くようにされて、犬養は苦しげな息遣いの合間に呼ばれる声に目を開いた。 濡れた唇を舐め取ってから、 「・・・俺の名前を、忘れたのか?」 「あ・・・っ」 一緒に暮らすようになっても、キナは相変わらず名前を呼ばない。 ベッドの上で、理性もなくなってしまってから強制するように強請れば何度も縋るように名前を繰り返すけれど、それも最近虚しく感じる。 キナから、当然のように名前を呼ばれるのを、犬養はずっと待ち続けているのだ。 キスよりも、何がそんなに恥ずかしいのかキナは顔をさっと染めて、 「あ、の・・・や、だって、その、」 言い訳を探すように視線を彷徨わせて、そして言葉が何も出てこないとなると犬養はさすがに諦めて、もう一度その唇を奪った。 素直に受け入れたキナに目を細めて、 「明日は、仕事は?」 基本的に犬養の仕事は土日祝日、カレンダ通りの休日だった。 一方キナは仕事がない日が休み、と実に曖昧で、一ヶ月働いたかと思えば急に一週間ほどの休みを取る。 しかし明日は、以前に休みだと言うのをキナ本人から聞いていて、しかも犬養も休日の日曜だとすれば久しぶりに二人でゆっくり、と考えたのだが、 「あ、ええと、マスターのとこ、行って来る・・・」 キナの素っ気無い返事に顔を顰めてしまうのも無理はない。 「また?」 そう言ってしまうほど、通っているのだ。 キナは申し訳なさそうな顔をしつつも、 「うん・・・ごめん、もう行くって言っちゃった」 「・・・約束したのなら、仕方ないが」 そう言いつつも、犬養の表情は納得していないものになる。 約束、というものははっきりとしていないけれど、休日を合わせた時点でそれが出来ているようなものだと思っていたのだ。 憮然としたままでいると、ポケットに入っている携帯が振動を始める。 犬養は相手を確認して、キナに目で仕事だ、と断ってリビングから出てそれを取った。 「はい、犬養です」 『川内だ』 言われなくても表示で知っていたが、犬養は相手に聞こえないように溜息を吐く。 「・・・なんでしょう」 『なんでしょう、じゃないだろう。そろそろいいんじゃないのか』 「・・・なにがです」 相手の言いたいことは解かっていたが、敢えて犬養は訊き返した。 『仕事だの引っ越しが落ち着いてからだのと言って先延ばしにして・・・もう落ち着いただろう、その相手の子を見せに来なさい』 「川内先生・・・ですからそれは、」 『明日は休みじゃないのか、私も空いているぞ』 どうだ、と押し付けるような声で言われて、犬養は少しほっとしたのを隠しつつ、 「申し訳ありません、彼は明日用事が・・・」 『どうしても駄目なのか!』 「先生、無理をおっしゃらないでください」 『お前が、私が紹介した相手を悉く断っておきながら、その子を会わせないというのはどうなんだ。本当は居ないんじゃないだろうな?』 「いえ、そんなことはないですが・・・都合が」 『お前の都合はお前の良いように出来ているな!』 「先生、ですから・・・」 『私は相手が男だからって何も貶したりしないぞ。むしろお前が選んだ相手なら間違いないのだろうと思っている』 「それは・・・ありがとうございます」 『だが、学生の頃から目をかけてきたお前を心配する私の気持ちも解かってくれ』 「・・・・・」 犬養は無言の返事の中に、ただの好奇心の間違いじゃないのか、と込めたが敢えて声には出さず、 「とにかく――明日は無理です。後日改めて、場を用意しますから・・・」 まだ続きそうだった愚痴のような相手の言葉を無理やり切り上げて、犬養は通話を切った。 リビングに戻ると、キッチンの中でキナが落ち着かないようにウロウロとしている。 「どうした、キナ」 「あ、電話終わったんだ? ごめん、ご飯作ろうと思って・・・」 しかし、何を作ればいいのか、何を用意したらいいのか解からず、迷っていたところだったと犬養に助けを求める目を向ける。 思わず微笑んだ犬養はジャケットを脱ぎネクタイを解いて、 「何が食べたい。今日は何も買ってこなかったから、残り物しかないが・・・」 言いながら冷蔵庫を開ける犬養に、キナは少し躊躇って、 「あの、電話いいの? 急ぎの仕事じゃなかったの?」 「ああ、別に急ぎじゃない・・・そうだ、明日は俺も仕事だから」 「え、そなの?」 「気にせず、松下さんのところへ行ってくればいい」 「うん」 残り物の野菜を使って、ミネストローネにしようか、と言うとキナは嬉しそうにエプロンを手に取った。 家事の一切が出来ないキナは、最近こうして犬養に料理を教えてもらうことが楽しみでならないらしい。 キナが喜ぶことが、犬養にとって嬉しくないはずもない。 ただ暖かな空間が、そこにはあった。 キナは翌日、仔犬に短いリードを付けて、しかし腕に抱き上げて颯太の家ではない別の場所に立っていた。 仔犬の手を取ってその部屋のチャイムを押させて遊びながら、ドアが開くのを待つ。 「・・・・・はい、」 寝ていたのか、低くて機嫌の悪そうな声と共にドアが開いたのに、 「おはよー春則ー!」 キナは元気一杯に仔犬を自分の顔に当てて挨拶をさせた。 「・・・・・キナ?」 「違うよ二郎さんだよー」 「はぁ・・・? って、ちょっとまて! ここペット禁止・・・っ」 「え? 誰にも何も言われなかったよー」 キナが抱いていた小さな生き物を再度確認して慌てたのは、この部屋の持ち主である春則だ。 けれどキナは何の躊躇いもなくドアを押し開けて部屋の中に入る。 リビングで仔犬を放したキナに、春則は疲れたような身体で抵抗するのは諦め、 「いったい何なんだ・・・っそれ、拾ったのか?」 「ううん、もらったんだ。可愛いだろ?」 春則はそういう問題じゃない、と思いつつも刃向かう気も失って曖昧に頷き、 「だからなんで俺のとこ来るんだよ・・・散歩か? 家の近所でしろよ」 「違うよー、マスターのとこ居たんだけどさー、ちょっと居心地悪くなって・・・」 颯太の部屋で朝から遊んでいたのだが、昨夜から泊まっていたらしい颯太の恋人、櫂薙があからさまにキナと仔犬を邪魔にするので逃げて来たのだ。 春則は深く息を吐いて、 「自分の家帰れよ・・・弁護士さんはどうした?」 「・・・・・」 キナはそれに答えず、床に座り込んで仔犬の手を取り遊んでやっている。 その真上に立ち、 「キナ、お前・・・それ、弁護士さんに黙って飼ってる、ってことはないだろうな・・・?!」 「・・・それじゃないよー二郎さんだよー」 「犬の名前かよそれが!」 「犬じゃないってば! 二郎さん! ほら二郎さん、春則にご挨拶ー」 くるりと顔を向けられて、春則は床から愛らしい黒目に見つめられぐっと息を飲む。 小動物は卑怯だ、と春則は何かを恨みながら、 「シャワー浴びてくる・・・」 仕事明けだったのか、疲れた身体の背を向けて好きにしろ、と放り出した。 朝から元気良く出かけて行ったキナを見送り、本当に仕事を始めた犬養は資料を探しに図書館へ行った帰りだった。 タクシーを使わず歩いて帰ったのは、ほんの気紛れだ。 車通りのない河川敷の土手を歩きながら、煙草を吸おうかどうしようか考えているとき、土手下の空き地のように広い河川敷で何かと戯れている相手に気付く。 「・・・・キナ?」 犬養は遠めに見える相手に眉根を寄せながら、早足に土手を進む。 河川敷に居るのは、どう見てもキナと――仔犬だった。 その姿に驚いていると、土手の上に座って同じようにキナたちを見ているもうひとりに気付く。 整った顔でぼんやりとキナを見ている姿に、名前を思い出して近づいた。 「赤岩さん」 「え・・・?」 呼ばれて、驚いた顔が犬養を見上げてまた驚いた。 「あ・・・あーあ、えっと、キナの、犬養さん・・・」 「ここで何を? キナはあそこで何を?」 「あー・・・えっと、」 犬養が理由を求めて強く見れば、相手は困惑したままで頭を掻き、しかし最後には諦めて、 「キナ! 迎えが来たぞ!」 土手下で遊んでいたキナを大声で呼んだ。 呼ばれたキナは、戯れていた仔犬を抱き上げて振り向き、そしてはっきりと身体を強張らせた。 離れた場所にいる犬養にも、それははっきりと見えるもので、犬養はいったいどういうことだ、と視線を強くして小さくなるキナを睨んでしまった。 キナが覚悟を決めたように犬養のもとに来たのを、 「・・・それはなんだ?」 まだ抱きかかえたままの小さな犬を睨みつけてしまう。 仔犬はキナの腕の中で小さく鳴いて、犬養の視線に怯えた様子を見せる。 キナはそれを庇うように、 「二郎さんだよ」 「・・・なんだって?」 「だから、二郎さん、なの」 犬養の訊いたことの答えになっていない、と視線を強めれば、二人の間で所在無く立っていた春則が、 「あーその、キナが、この仔犬を拾ったらしいんですが、それを犬養さんに言えず隠れて飼ってたようで」 「拾ったんじゃないよ、貰ったの!」 同じようなものだろう、と思うけれどキナには捨てて置けないところらしい。 犬養はここ数日のキナの行動を思い出し、 「まさか・・・そのために、松下さんの家に毎日通っていたのか?」 「う・・・え、えっと、あの、」 言葉を躊躇うキナは、肯定しているようなものだ。 犬養が深くため息を吐けば、キナは仔犬を抱いたまま、 「だ、だって、あの、犬養さん、飼えないって前に・・・」 「ペットをか? あのマンションは、ペット禁止じゃないはずだが」 「ち、違うよ! 犬養さんが! 前に言ったんじゃん!」 だから、言えなかった、と俯くキナに犬養は記憶を辿る。 「・・・俺が? いつそんなことを?」 覚えがない、と眉根を寄せれば、キナは仔犬の毛並みに顔を埋めたまま、 「さ、最初に会ったとき・・・犬、飼う趣味ないって、言った、よ」 「・・・・・・」 言われて、犬養は特殊なバーの中で初めて出会った日を思い出す。 気の乗らない依頼を早く済ませてしまおうと手っ取り早く調査対象のキナに近付いた日だ。 あの時はまだ、こんなにはまってしまうとは想像もしていなかった。 その場所で、流れに消えてしまうような会話の中で、確かに犬養はそう言った。 思い出した事実に、犬養は深く息を吐いた。 「でも、もう二郎さん、手放せないし、だから、こっそり俺・・・」 飼ってた、と呟くキナは、顔を上げないままだった。 犬養はそのキナを見下ろすと、怯えた仔犬と視線が絡む。 その目がまるでキナのもののようで、もう一度溜息を吐く。 「そんなことで・・・」 「そんなことじゃない! だって俺、もう犬養さんとこしか行くとこないのに、犬養さんに嫌われたら・・・っ」 必死になって言い返してくるキナに、犬養は微かな苛立ちを覚えた。 「俺に嫌われたくないと言いながら、キナはいつまでたっても呼び方を改めないな」 吐き捨てるように言えば、キナの肩がびくり、と揺れる。 自分でも大人気ない、と思いながらも、キナが犬養以外を名前で呼ぶことに嫉妬を覚える。それはたかが犬が相手であっても、同じことのようで、犬養は自分の心の狭さを改めて気付いた。 俯いたキナを、ただじっと見下ろしていれば、やはりずっと間に立っていたままだった春則が躊躇いがちに割って入ってくる。 「あー・・・あの、ですね?」 思い出した第三者の声に、思わず二人の視線が春則に向かう。 春則は困惑したままだったけれど、 「犬養さん、フルネーム、なんでしたっけ?」 「? 犬養陽二、だが・・・」 唐突な質問に、犬養は戸惑いながらも素直に答えると、春則は納得した、と顔を綻ばせて、 「キナ、その犬の苗字、陽、じゃないのか?」 犬養がその意味に驚いてキナを見れば、キナは真っ赤な顔で春則を見て、それから気付いたように犬養の視線にかち合う。 「キナ・・・」 「ちっちがっこの子、二郎さん、だもん!」 真っ赤になった顔のキナに抱かれた仔犬を見つめて、 「・・・陽二郎?」 疑うように呼びかければ、「わん!」と元気の良い答えが返ってくる。 キナが首まで赤くしながら、その仔犬の声を抑えようとしてももう遅かった。 春則が後はご勝手に、とその場を立ち去っても、キナは仔犬を抱いたまま動かず、犬養の視線に押し止められていた。 「いー・・・犬養、さんっ犬養さんっま、待ってあの・・・っ」 手を引かれて家に帰るなり、犬養はキナの腕から仔犬を抱き取り、リビングのソファに置いて、 「後でエサをやるから、大人しくしていろ」 「わん!」 拾ってずっと遊んでやっていたキナよりも、飼い主の顔で言う犬養に、仔犬も大人しく従うことにキナは裏切られたような気持ちで恨めしく睨んでしまう。 そのままキナだけを寝室へ押し込められて、抵抗も空しいままベッドに倒される。 スーツのジャケットを脱ぎ捨てるようにしてキナに覆いかぶさってくる身体を押さえても、効果はない。 「こんなに欲情させておいて、止められるはずがないだろう」 「よ、よく、って・・・!」 急くようにシャツの上から身体を弄られて、首筋に何度もキスを落とされれば抑える手から力が抜ける。 「ここ数日、俺を騙していた罰も受けて貰わないとな・・・」 「だ、騙して、なんか・・・!」 「黙っていたなら、同じことだ。今日も約束を反故にされて、俺が何も思わなかったと思うのか?」 「きょ、今日は、だって、犬養さん、も、仕事って・・・」 「お前が用事があるというから、仕事を作ったんだ」 「あ・・・あの、そん、な、こと・・・」 気を遣ったんだ、と教えられて、キナは思考までが蕩けてしまいそうになる。 「隠し事をするな、と言っておいたのに・・・お仕置きだな、これは」 「お・・・っお仕置き、って! な、なんで、そんなっ」 「なんで?」 腰を摺り寄せていた犬養が一度動きを止めて、キナの顔を覗き込む。 その強い目に、キナは何も言えなくなりそうだった。 「俺の名前は頑なに呼ばないくせに、あんな犬に名前を付けて呼んで――まったく酷い恋人だな」 「あ、あんな犬って、だから、二郎さんは、あの・・・」 「陽二郎、なんだろう?」 からかうような声に、キナは赤くなった顔を隠すことも出来ず、恨めしくただ犬養を睨んで、 「・・・犬養さん、妬いてるの」 仔犬に、と呟けば、犬養は少し驚いた顔をしたあとで、キナを後悔させるような顔で笑った。 「妬いてるのが――悪いのか?」 仔犬だろうとなんだろうと、嫉妬を向ける心の狭さは、まさにキナの声を奪う色悪なものだった。 久しぶりに姿を見せたキナは、赤い顔で仔犬を連れていた。 まるで追い出してしまったような後から連絡が付かなかったのを心配していた颯太だったけれど、とりあえずどこも困った様子がないのを外見から見て取ると安心した。 「弁護士さんに、許可をもらえたんですか?」 仔犬を飼いたい、ということをずっと言えず黙っていたキナに、その問題はもう解決したのか、と問えば、さらに顔を赤くして俯かせる。 なるほど、と颯太は落ち着くところに落ち着いたのだな、と納得して、バーのカウンタから床に座る仔犬を覗き込んだ。 「良かったね、二郎さん」 正直、飲食店にペットを連れ込むのはどうか、と思うのだが、このキナの顔を見ればそう言うのも憚られてしまう。 颯太が笑うのに、仔犬は嬉しそうに鳴いた。 スツールに座ったキナが、仔犬を膝に乗せて赤い顔で俯くのに、 「キナ? 何か飲みますか?」 今日はどうしてそんな顔なのだ、と首を傾げれば、キナは手持ち無沙汰に仔犬の手を取ってもてあそびながら、 「・・・・あまいの」 小さく呟いた声に、颯太は驚いた。 それは初めて聞くような、擦れた声だったのだ。 「どうしたんです? 風邪ですか?」 まさか顔が赤いのは熱があるのだろうか、と心配したのだが、キナは耳まで赤くしながら顔を横に振った。 それで意味を知った颯太は、小さく何度も首を頷かせて、 「・・・弁護士さん、そうとう・・・」 その先を、颯太は言えなかった。 ただ赤い顔で、涙目に見えるキナが睨んでくるのを苦笑して受け止めただけだ。 そしてカラリ、とドアに付けたベルが鳴ったのに顔を向ければ、初めてこの店に来たときからまったく態度の変わらない弁護士がいて、 「キナ、お迎えですよ」 いつものように笑いかけた。 キナは真っ赤な顔のままで入って来た犬養を睨みつけて、けれどその視線に隠しきれない甘いものを颯太は確かに見つけた。 受け止める犬養が甘いのはいつものことだけれど、すぐに素直になれないキナが見せる変化に颯太は思わず顔を綻ばせる。 どんなことがあったのか、想像は出来ないけれど、きっと二人がもっと近付くことがあったのだろう、と思いそのきっかけになった仔犬に微笑んだ。 これから二人の愛情を受けて、大きくなるのだろう仔犬に―― |
fin.