いつか降る雨のように 7 「・・・ちょっと! もうなんなのよ!」 松下が自分の店である「ネム」で、カウンタの中から厚く塗りたくった顔を顰めた。 最早、毎度のことかもしれない。 その睨みつける視線の先には、やはりカウンタのスツールにキナがいた。 いつものようにそれに座り、落ち着きなく回っているのではない。 上体を保っていられない、とカウンタに伏せ、ぴくりとも動かないのだ。 例によって宵の口というのもあるが他に客は見当たらず、松下は遠慮もなく口を開いた。 「久しぶりに顔を見せたかと思えばずっと伏せっぱなしで! いったいここに何しにきたの! あの弁護士さんと上手くいったんでしょ! なら家に帰って休めばいいじゃないの、こんなところで油売ってないで!」 気の知れた松下は、いつもこの調子で言ってしまっているためすでに素直に、顔に疲れがあるから心配だ、とは言えない。 のそり、と身体を起こしその松下を睨んだキナの表情は、本当に疲れがあった。 動くのも億劫だ、と身体を動かすのも辛そうだった。 けれど松下は憎まれ口しか口に出来ない。 「何よその顔! まさかこの間だの今日でもう振られたっていうの?!」 キナは身体中の疲れをかみしめるように、拳を作って震えた。 「・・・っなら、どんなにいいか・・・っ」 「はぁ?」 「あの、エロオヤジ・・・っ俺にだって仕事があるっつってんのに、毎晩毎晩朝方まで・・・っ」 「・・・・・・」 どうやらその疲れが色事のものだと解かった松下は、化粧の下に隠した心配の色を拭った。 しかしキナは耐えられない、と疲れた目尻に涙を浮かべて歯を噛み締める。 「三十超えてるくせに、どこにそんな精力残ってんだっての、仕事しろ仕事!」 暫く仕事はない、と言ったキナを外に出したくない、と犬養は自分が仕事から帰るとすぐにキナをベッドに引き込み言葉通り朝まで寝させることはなかった。 朝から仕事へと犬養が出かける頃は意識もなくぐったりとしていて、漸く起き始めた夕方ごろに空腹を覚えて犬養がいつの間にか用意していた食事を口にして、どうにか動けるようになった夜、また犬養が帰ってきてベッドへと引きずり込む。 惚れたほうの負け、と言うくせに犬養はかなり強引だった。 抱かれることに、セックスに慣れたキナをすぐに官能の中へと溺れさせて結局キナはいつもずくずくになるまで身体を許してしまう。 久しぶりに今日、仕事へ行くから、と疲れた身体を無理やり使ったせいで今はもう目の前に置かれたグラスを持ち上げることすらしたくなかった。 家に帰れば、また犬養の執拗なそれが待っていると思うと、キナは素直に帰れなくてここに逃げ込んでいるのだ。 「・・・・帰りたくない・・・」 珍しく、はっきりとした泣き言に松下は目を瞠った。 しかし松下は同情もしなかった。 帰りたくない、と言いながらも足を向けた先はここ、犬養も知るバーであるし、考えばキナも一人暮らしをしているのだ。 帰る先は犬養の待つ部屋ではない。 けれど、自分でも自覚もなしに帰る場所をひとつと決めてしまっている。 カウンタの中で、慣れた手つきでグラスを拭きながら松下は大きく息を吐いた。 痴話喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ、とやはり思った。 「まったく、なにをしてるのかと思えば・・・くだらない」 「く、くだらないだと?! あのなぁ、マスター、あんたはあの人の底なしの精力知らないから・・・っ」 松下の洩らした言葉に食って掛かるキナに、松下は口端をあげて睨みつけた。 「あら、なぁに、アタシが相手して確かめていいの? アンタがそれほど疲れるほどだもの、余程すごいんでしょうね〜、是非一度、お相手してもらいたいわ」 「・・・・・っ」 その言葉にキナは息を詰まらせる。 そんなこと、出来るはずもなかった。 犬養には、最早他の誰も、男でも女でも触れて欲しくない。 一番、自分が嫌がっていた、怖がっていた嫉妬がすでに湧き上がる。 口では言いながらも、すでにキナは犬養から離れることなど出来ない、と思っていた。 それでも、少しの愚痴くらいはいいたい、と思ってここまで足を延ばしたのだ。 キナの反応に満足したのか、カウンタの中で松下は堪え切れない、と笑い出す。 「あはは、アンタのそんな顔、初めて見たわぁ、新鮮でいいわね〜」 「・・・・っ悪趣味・・・っ」 「アラ、犬養さんほどじゃないわよ、アンタをそんなに食い散らかすんだもの、さぞ悪食なんでしょうね〜」 弁護士なんて堅い肩書きの人は怖いわね、と続けた。 堅く、清廉潔白な面がありながらそのスーツを脱ぎ捨てるとどの男よりもいやらしくなる。 しかも、やはりキナはそれが厭ではないらしい。 キナだけにそんなに乱れるというのなら、どこまでも乱れて喰い散らかして欲しい、と強請ってしまう。 疲れてもう厭だ、と言いながらもそう思ってしまうキナは、自分自身にもうどうしようもないな、と眉を寄せながら息を吐き出した。 そのとき、入り口が音を立てて開いた。 「いらっしゃい・・・あら、待ち人きたり、ね」 ドアを見た松下が、相手を確認するとすぐにキナに笑いかけた。 それですぐに、誰が入ってきたのかは知れる。 「・・・・っ」 キナは身体中で強張り、振り返れなかった。 しかしそんなものも気にしないのか、入ってきた客はマスターである松下に声もかけずキナの後ろに立ち、低い声をかけた。 「仕事が終わったら真っ直ぐ帰れ、と言ったはずだが」 間違えようもなく、犬養の声である。 硬直した身体は振り向くことも返事も出きずにいるのか、それを見越して松下がカウンタの中から明るい声をかけた。 「この奥さんね、旦那の夜が激しくて泣き言を言っているのよ」 いつものように作った高い声で、しかし犬養は少し眉を顰めて、 「・・・だが、抜くなとかもっととか言うのは、俺じゃないのだが」 およそ、きっちりと着込んだスーツ姿からは想像も出来ない言葉がさらりと流れ出て、カウンタの中の松下はもちろん、それまでだんまりを決め込んで背中を向けていたキナは真っ赤な顔で振り返り、 「な・・・っそ、そうしたのは犬養さんのせいだろっ馬鹿!」 「煽るのは、お前だ」 「あお・・・っ」 羞恥で顔を染めているのは誰が見ても解かるほどで、キナはあまりのことに口が空気を噛むだけで声が出ない。 カウンタの中の松下もキナの味方などではなく、 「良かったわね、お迎えが来て。この人ね、お迎えがないとどこに帰ればいいのか解からないんですって」 面白そうに口にした内容に、キナはそんなこと一言も言っていない、とわめき返すが、犬養は鹿爪らしくそれを聞き入れ、何度か頷くと隣においてあったキナのジャケットを取り、その本人の腕を取った。 「解かった。連れて帰ろう」 そして、キナに自分の家がどこなのか身体に教え込むつもりだ、とは口にしないまでも解かってしまった。 「い、犬養さん、ちょっと・・・っ」 力ないキナが逆らっても敵うはずはなく、犬養に簡単に連れられていくのをカウンタの中から松下がにこやかに手を振った。 「可愛がってもらうのよ〜」 いつしかと同じ言葉に、キナは真っ赤になって振り返るが、出ようとした丁度ドアの手前で誰かが入ってきて、思わず口を噤んだ。 「いらっしゃ・・・」 客の一人かと思い松下が口を開いたが、最後まで言えなかった。 その異変にキナはすぐに気付いた。 松下の顔が、恐ろしいほど驚愕に染まり固まっているのだ。 その視線の先が新しく入ってきた客にあるとして、キナは犬養の向こうにいる相手を見る。 少しネクタイを崩したスーツを着て、その上にコートを羽織っていた。 格好はどうみてもサラリーマンにしか見えない。 どこにでもいるような、男だと思った。 しかしこの相手を見て松下は強張るほど固まっている。 キナが口を開きかけたとき、犬養がすぐに足を動かした。 「あ、ちょ、ちょっと、」 引き摺られるように店を出たが、キナは気心の知れた松下のことが気になり外からドアを何度も振り返る。 そのうちにキナを引いていた犬養が振り返り、持っていたジャケットをキナに着せる。 「あ、ごめ・・・」 それでもキナがまだ店のことを気にしていると、頬を両手で包まれて犬養に向けられた。 「・・・他の男を見るな」 「・・・っで、でも、あれは・・・」 「誰だろうと、だ。俺以外を見るな」 真剣な顔で言われて、キナは何も言えなくなってしまった。 しばらくそのままでいると、犬養は小さく息を洩らし目を伏せた。 「・・・悪い」 「え?」 「お前に負担がかかっていると、解かってはいるのだが」 どうしても、止められない、と犬養は呟く。 夜のことである。 「何度しても、治まらないんだ・・・」 正直すぎる告白に、キナは顔を赤らめて、 「・・・あ、あの・・・別に、俺は・・・やじゃ、ないよ・・・?」 「・・・本当に?」 犬養は疑わしそうに眉を寄せる。 キナはその両手に包まれているせいで顔を背けられなく、視線だけを落ち着きなく彷徨わせ、 「う、あ、あの、ちょっと・・・疲れちゃう、けど、い、犬養さんが、俺を欲しいっていうの・・・嬉しい、し・・・」 「・・・・キナ」 細い身体を、犬養は覆いかぶさるように抱きしめた。 赤い顔の耳元で、 「俺を甘やかすなよ・・・」 付け上がるぞ、と囁く。 その吐息のような声に背中を震わせながらも、キナは犬養の背中に許された手を回す。 「・・・うん、でも、疲れるのは、ほんとだから・・・もう少し、加減するって、いうか・・・」 「・・・加減させてくれないのは、お前だ。昨日だって止めようとしたのに・・・」 「・・・・っ」 キナは記憶も新しいそれを一気に甦らせて、赤い顔にさらに熱を上げた。 ベッドの上で後ろから重なって、引き抜こうとした犬養にキナは感じ入ってしまった身体を震わせ、 「あ・・・っだ、だめ、まだ・・・っ出ていかないで・・・!」 余韻に浸りきりたい、と想いを込めたのだが、再び奥まで潜り込んできた犬養はそこへはっきりともう一度熱を込めていた。 「ああ・・・っな、なん、で、また、おっきく・・・んんっ」 「・・・お前、そんなことを言っておきながら・・・」 息も荒い犬養の声に、止められるか、と囁かれてそのまままた嬌声を上げて身体を良いようにされてしまった。 キナは思い出したそれを振り切るように、 「あ、明日も、俺、仕事だから・・・」 「出来るだけ、加減してみよう」 しないで済ます、という選択肢はないようだった。 あまり人気のないのをいいことに、キナは何も言えなくなったまま犬養の腕の中に納まっていた。 「キナ」 「え?」 「俺の部屋に越して来い」 「・・・・・ええ?!」 「帰るところは、俺の部屋だけでいいだろう」 「・・・・っ」 キナは思いも寄らない誘いに、声が出なかった。 嬉しさもあるが、それ以外のものがないとは言えない。 それに、すぐに頷けるほどキナは子供でもない。 これから、何もないわけではない、とキナは安心などしていられないのだ。 返事のないキナに、犬養の溜息が聞こえた。 「・・・まぁ、焦りはしない。いつか、でもいい・・・」 キナの想いが伝わったのか、犬養の声は少し諦めがあった。 「・・・ありがと、ごめんね、犬養さん・・・」 キナは上背のある犬養にしがみ付くようにしながら、空を見上げた。 そして、暗闇にチラつくものを見つける。 月も出ておらず、暗い夜だった。 しかし、それが振り落ちるだけで何よりも明るく思えた。 雨が、落ちてくるわけではない。 「犬養さん、雪が・・・」 キナを抱きしめるように俯いた犬養に視界にも入ったのだろう、犬養はすぐに頷いた。 「ああ、寒いと思ったら・・・」 「初雪だね」 「そうだな・・・」 それを気に、二人は身体を離し犬養の部屋へと足を向けた。 人気がないのを良しとし、犬養はキナの手を取ったままだった。 しかしキナもそれを振りほどこうとしない。 「キナ、寒くないのか?」 キナの服装は今日も薄着だった。ジャケットの下はシャツが一枚だけである。 寒いと言えば自分のコートを着せるだろう犬養に、キナは首を振って、 「寒くないよ、俺、雪国で育ったから・・・これくらいなんともない」 「・・・・そうなのか」 犬養の頷きは深かった。キナの過去を知ろうとは思わないが、そんな事実も知らないままでいたのだ。 もっと、知りたい。 そんな犬養の視線に気づいたのか、キナはなんでもないように笑って、 「また、いつかね・・・犬養さん」 キナの過去を知るには、それと同じだけの時間を過ごさなければならない。 犬養はその時間以上をかけてキナを知り、その先も一緒にいるつもりだった。 それを今は口にせず、ただ口端をあげて、 「一緒に暮らす頃には、名前で呼んでもらいたいものだな」 「・・・・っ」 ベッドの上で、どれほど乱れようともキナは犬養をさん付けでしか呼ばなかった。 それが、慣れてしまっているからなのだが。 「今夜、呼んでくれるか?」 どこで、とは言わなくても解かる。 真っ赤になったキナがそこから話題を遠ざけよう、と歩いてきた後ろをわざと振り返った。 「マスター、大丈夫かな・・・あの人、誰だろ」 「さぁ」 犬養には興味もないようである。 興味のないものには、犬養は欠片の関心もなかった。 それにキナは少し唇を尖らせ、 「だって、あんなに驚いてたし、あんな顔、初めて見たし・・・」 「キナ」 後ろを気にするキナは、低い声で呼ばれて隣を振り仰ぎ、固まった。 「俺以外の男がそんなに気になるのか?」 口端をあげているのに、笑っていない目で見つめられてキナは何も言えなくなってしまった。 「後で覚悟していろ」 「・・・・・・」 キナが逃げ出さないように、犬養に繋がれた手がいっそう強く握られる。 その強さを、キナはもっと欲しい、と願ってしまった。 どうか、この振り落ちる雪が、自分の熱い想いを受けて雨になってしまわないように。 空から落ちる雫は、キナの想いそのものだった。 雪が降っても、寒くなどない。 触れれば溶ける熱い想いが、ずっと終わらないで欲しい、とキナは犬養の腕に擦りより、久しぶりに誘う仕草を見せた。 「犬養さん・・・」 側にいて、という願いは犬養の唇の中に消えた。 |
fin.