異常な日常  前編





常識を完全に逸脱しているというのに
慣れてしまえばそれが日常になってしまっている。
この世界で暮らしてて大丈夫なのかな・・・・?










「・・・っくしゅ!!」
堪えきれず出てしまったくしゃみに、夏流が振り返った。
「・・・風邪か?」
「ん・・・? ううん、大丈夫・・・」
鼻の下を擦りながら、少し肌寒いと感じるのを隠す。そんな貴弘を見透かすように笑った夏流は、
「・・・暖めてやるよ・・・」
艶を含んだ声で囁いた。貴弘は伸びてくる手を諦めたように見て、それでも抵抗はしなかった。
「あんたって、口だけは回るよな・・・」
「・・・誉め言葉だよな・・?」
まだ秋だと思っていたが、季節は確実に変わる。色づいた木の葉が、誰にも気付かれずに落ちる季節だった。



         *



「おはよう、貴弘?」
そのまま泊り込んでしまった貴弘は、目を開けるなり身体を硬直させた。覚醒しきっていない頭で、動揺を隠しきれなかった。
ベッドに転がったまま瞬きを忘れたかのような瞳に見つめられて、夏流は笑みを深くした。
「・・・どうした・・・?」
そんなことこっちが聞きたい、と貴弘は漸く動き出した心臓がどくどくと一気に血を流し始めるのをはっきりと感じた。
「ど、どうって・・・な、夏流こそ・・・・!」
「ん? なにが・・・?」
貴弘は振り返って壁に掛けられた時計を確認する。
自分のいつもの起床時間だった。貴弘が狂っているわけではない。身体を起こして、後ずさるように身体を夏流から離した。しかし夏流は予想も付かない速さでその手を取り、口付けを掠め取る。それから至近距離で驚いた目を覗き込んで、
「・・・おはようのキスくらい・・・させろよ」
しっとりとした唇を重ねた。
「ん・・・っ」
滑り込んで来た舌は暖かい。朝から濃厚なキスに、口腔を弄られて貴弘は知らず身体を硬くする。
「ん・・・ふっ・・・」
満足そうに堪能したのか唇を離した夏流は、
「朝メシ、トーストでいいか?」
そのまま軽く身体を動かしてベッドから降りた。その言葉の通り、朝食を作ってくれるのだろう。しかし貴弘はそこから動けなかった。
おはようのキスってなに? 朝食ってなに? トーストってなにっ?!
疑問だけが貴弘の頭を駆け巡る。
一体、あれは誰だ?! 夏流の皮被ったロボット?!
寝起きから驚愕する貴弘の感覚は通常だ。
貴弘の知っている夏流は―――寝起きが悪い。
恐ろしく悪い。
まるで地獄から這い出てきたように、悪い。
起きてから三時間は最低でも口をきかないほどだった。
その夏流に、朝っぱらから極上の笑みで朝食を用意されて、貴弘にその味は全く分からなかった。
「な・・・夏流は、食べないの・・・?」
貴弘の分だけを用意した夏流に、いつもは食べないと知っているが恐る恐る訊いた。しかし、訊くんじゃなかったと後悔した。
「・・・ん? お前が食べてるの見てるだけで、胸がいっぱいだから」
「・・・・・・・・・」
これ、なんの罰ゲーム・・・?
クラリと地球が回ったように思うのは、貴弘の思い過ごしではない、と思った。
もともと、夏流は誰もが見とれるほどの美形だ。その整った顔は表情を一切なくすれば誰も近寄れないほどに怖い。だから朝はまず、夏流に近づこうと思う人間などいない。
誰もがその寝起きの機嫌の悪さを知っているからだ。
まず、目覚ましをこの世の敵のように睨みつけ、億劫な動作で身体をベッドから起こす。それから身に付いた流れで制服を着て登校し、教室に入り机に座ってどことも言えぬ方角をじっとただ見つめる。表情のない顔は背筋を凍らせるほどに綺麗だけれど、誰も声を掛けようとも思わない。それからどうしてこんなことをしなければならないんだ、という態度で授業を受け始め、三時間目が終わる頃にやっと少し表情が和らぐ。そこでやっと夏流を恐れない前田が「やっと起きたか?」と声を掛けて一日が始まるのだ。
貴弘は居たたまれない視線を受けた。
集中しているのが、はっきりと分かる。自分でも分かる。おかしいのだ。
夏流との間に、それが注がれている。そこではしっかりと、手を繋がれていた。動揺して何も言えないままマンションを出るところから、繋がれたままなのだ。
「・・・・・」
夏流をこっそりと見上げれば、とても上機嫌で微笑んでいる。
有り得ない。
朝からこの機嫌の良さはなんだろう。貴弘は自分がなにか仕出かしたのではないだろうか、と何度も思い返すが昨日はいつものように部活の後で夏流の部屋に行ってそのまま泊まって、流されるままに抱かれた。それだけだ。
さしてどこがいつもと違うのか、解らない。
「貴弘、寒くないか?」
微笑んで訊かれて、貴弘は反応が遅れた。
「・・・え? あ、ううん? 別に・・・」
「そう・・・? 手が、冷たいから・・・」
「別に・・・寒くないけど、夏流の手が、あったかいんじゃ・・・」
「そうかな? 貴弘に、触ってるからかな・・・?」
「・・・・・・」
貴弘は答えることなど出来なかった。直接的な言葉に思わず顔を染めて、俯いた。視線も身体中に感じる。
できるなら、走って逃げ出したいのだが、この手がそうさせてくれないのだ。
仲良く校門を潜った二人に、そこに異常さよりも面白さを見つけた夏流に付き合える数少ない友人の前田が声をかける。
「・・・お? どうした? 朝っぱらから仲いいね、お二人さん」
どこかの親父のような冷やかしに、貴弘は冷たい視線で振り返る。前田も笑いながら、それよりも凍てついた視線がもう一人から返って来ることを当たり前のように待っていたのだが、
「そんな・・・照れるじゃないか、からかうなよ」
その通りに、少し頬を染めて顔を綻ばせた夏流に、前田は三メートルは一気に飛びのいた。
「・・・・っ?!」
貴弘もそうしたかった。出来ないのは、手をがっちりと繋がれているせいだ。身体中を動揺させて、冷や汗までかいた前田は目を細めて、眉をぎゅっと寄せて、
「・・・・・・夏流?」
「なんだ? ああ・・・あいさつがまだだったな、おはよう、前田」
「・・・・っ」
まるで棒切れを飲み込んだようになってしまったのは無理はない。前田は夏流に出会って以来、朝から挨拶をされたことなど一度もないのだ。
前田は横で倒れそうな貴弘に視線を移して、
「おい・・・おい、なんだ、これ? 夏流の皮被ったロボットか?!」
考えることは一緒だな、と貴弘は思ってから、
「・・・俺が聞きたい・・・」
深々とため息を吐いた。それから夏流を見上げて、
「俺、教室行くから・・・手、離せよ」
「うん・・・寂しいな、放課後までお預けか・・・?」
「・・・・・・」
寝起きの夏流の周りはいつも氷点下だ。今日もそれに変わりはなかった。ただ、一足先に春が来たような夏流の周囲だけに、ブリザードが襲った。
夏流は硬直した貴弘の額にちゅ、と唇を落とすと、
「また、後で・・・浮気しないように」
微笑んで、先に校舎に向かって行ってしまった。
「・・・・・・・・・っ」
そこに残された貴弘と、全てを見てしまった前田はあまりの吹雪の凄まじさに暫く動くことが出来なかった。
漸く息を吹き返した二人は、動揺した目を合わせた。
「お・・・おい! あれ、なんだ?! 何が起こった?!」
「そんなの、俺が聴きたい! 朝起きてからあれだよ?! 何の嫌がらせだよ?!」
「お前がなんかしたんじゃねぇのか?! ま、まさかまだ寝とぼけて・・・っ」
「そんな・・・」
まさか、と言い切れなかった。それほど、異常だったのだ。
甘い正常な恋人同士を醸し出す、蕩ける笑みを浮かべる夏流が。
「ちょ、ちょっと、部長、あいつ見ててよ・・・っなんでこんなことになってんのか、ちゃんと訊いてっ」
「はぁ?! ふざけんな、もう近づきたくもねぇよ!」
貴弘もその気持ちは充分解ったが、知らないままでいることもできない。このまま治らなければ、また放課後に宣言通りに付き合うことになってしまう。それまでに治っていて欲しい、と望みを掛けたい。
「だって、おんなじクラスだろ! ほら、早く追いかけろよ!」
「い、いやだ・・・!」
朝から微笑む、異常な夏流は誰の目にも異常だ。普段とは違う意味で、夏流の前に人が別れ道が出来ている。
あれを追う気には、全くなれなかった。
貴弘は力なく呟いた。
「・・・・嫌がらせに一票」
「・・・・寝恍けてんのに一票」
前田は力なく応戦しておいた。
どちらにしても、異常なことに変わりはない。


to be continued...



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